昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

ヒキガエル

2021-09-18 12:16:27 | 日記
992hPaに押しつぶされる頭。蹲りながら内耳に血液を回そうと耳の後ろをもんだり耳たぶをひっぱたりする様は、傍から見ればでかいヒキガエルに見えるかもしれないなどと思いながら、取り敢えず小声で鳴いてみます、ゲロゲロ。

遊園地にあるクルクル回るお子様向けティーカップでも酔ってしまうほど、バランスを司る前庭やら三半規管やらの内耳がヘタレで、ここが気圧に敏感な部分であることから俗に言う天気病み持ち・・・ヘビーな早朝になりました。

10:00amごろには台風は1000hPaを超えたようで漸く通常モード・・・といっても、2本足で立ったヒキガエルというだけですけど。
ゲロゲーロ。



台風上陸予報

2021-09-17 09:17:04 | 日記
朝型は南西の青空の高いところにすじ雲、北におぼろ雲、頭上では群れすぎて一体化しそうなひつじ雲の左斜め上方に、これまたプレートメール化しそうなうろこ雲と、宛ら雲の展示会の様相を示していましたが、9:00amを過ぎて雲が重なり合い空が見えなくなってきました。

変わった進路、停滞をみせていた台風14号がパワーを復活させ、偏西風にのって本日午後には日本海側から上陸、列島を縦断する天気予報です。

大戦直後の昭和20年9/17にも、鹿児島県枕崎より上陸した台風が日本列島を縦断、多大な被害があったようです。
取り敢えず注意だけはしておいたほうがよさそうです。


フェスと群集

2021-09-15 10:21:57 | 日記
先月、コロナ下愛知県で色んな意味でブッチぎって開催された音楽フェスの影響により音楽フェス全体が窮地に追い込まれる中、「野球はよくて音楽はダメなの?フェスは若者文化だからどんだけ楽しいかオッサンは知らないだけ。体験してから批判しろ!」とフェス擁護派の若い女性。「フジロックなんて感染対策徹底してたし」。

いやいや、確かに最近のフェスとかにはいったことないですけど、オッサンのまま生まれてきたわけではないですからライブやなんかで近しい体験はしてきたかも。だからこそなのですが、閑散とした会場で周りとの距離を開け、マスクして歓声も上げられないフェスで楽しめるのかな?なんて思っちゃいます。勿論生でパフォーマー観れる興奮はありますけど。あ、現状での野外フェス肯定派であります。念の為。

フェスやスポーツ観戦、ハロウィン仮装等、群集化して楽しみたいのは、連帯感を感じカタルシス(モヤモヤをぶっ飛ばす)を得たい部分があるのではないのかと。

そしてそれは、個々人の知性理性判断レベルを低下させ感情的本能的な思考行動を顕著にし、集団としての紋切り型のイメージ、敵味方等の単純図式、主催者の提唱する根拠の粗い陰謀論の支持といった共通認識を共有(丁度今月Eテレ「100分de名著」で、ル-ボンやってますから詳しくはそちらで)するようになると。

そういえば、どこぞの前首相や前大統領が、断言、反復、感染手法により大変分かり易く「フェス」状態を創り上げていましたっけ。
これは、こちらが望んで参加する「フェス」とは本末転倒の目的でしたけど。

虫の声

2021-09-14 11:04:33 | 日記
日中の暑さを慰めるように鳴く夜陰に紛れた虫に癒されます。860年ほど前、今一歩で天皇に成れたかもしれない弓削道鏡は、下野薬師寺別当を命じられどの様な想いで初秋夜の虫の音を聴いたのでしょうか。

587年、蘇我馬子、厩戸皇子らに打ち取られた大連物部守屋。生き残った一族郎党は、厩戸皇子によってその後建立される四天王寺のとして生き永らえることとなります。その系譜の1つが弓削氏であり道鏡の氏族。仏教排斥者であった守屋の子孫でありながら、仏教、特に禅に通じていたという運命、やがて孝謙上皇(後の称徳天皇)の病調伏の功により上皇の寵愛を受け、政にも仏教的見地をもって参画を許されやがて太政大臣禅師、法王となり巨大な権力を持つようになります。

そして、自らを天皇とすれば国家は太平となるという神託を画策。が、これを虚偽であると見抜かれ、後ろ盾であった称徳天皇の崩御に伴い失脚。下野への左遷命令が下されました。時に神護景雲4年8月21日(770年9,14)。
砕けた野望、しかし功績により罪に問われることはなく、任命先にて70有余年の生涯を閉じたと伝わります。

時に本邦三大悪人の一人に数えられ、女性であった天皇の寵愛から密通を疑われ遥か後世まで男性器ネタキャラとなる身の上・・・ですが、意外と涼やかに虫の音に浸っていた気がしてならないのです。彼の育った環境は。

ところで、僕らには美しく聞こえる虫の声も、欧米出身の方には雑音としか聞こえない方も多いそうです。勿論、肉体的に受け付けない体質もあるのでしょうが、生活環境や文化の違いによる部分が大きいのではないでしょうか。





多様性下のコミュニケーション

2021-09-13 09:30:50 | 日記
『最近の流行りだか何だか知らないけど『多様性』を過度に重視した社会になったら、意思疎通の為には共通言語である『数値』でしか会話できないんじゃないの』とお客様。成程その恐れはあると思います。現にその兆候はすでにあちこちで見られますし、現代の国語教育における政府方針からも明らかでしょう。

カントもどきの図を描いて、近代以前学問の主流であった宗教、例えば死後の世界とか真理とかあるかどうかわから「ない」ものや、個人内方型の思考やニーチェ以降の哲学等、数値化でき「ない」ものは合理的効率的に「ない」ものとして扱われる可能性はますます高く、結果、斜線部分のみのコミュニケーションのみ重要視され、それは単純で分かり易く集団統制としては有益の反面、個人レベルでは薄っぺらく情操の著しい退化を招き(ソシオパスの増加等)かねないかもしれません。

そこで、他者を異物として排除、もしくは無視するという現在まで主流の方針から、異なるを楽しむという方針への転換が必要になるのかななんて。
異なる考えをリスペクトし、論破ではなく受け入れ、自らの糧とする方向で質疑応答するのは、結構生きていくのに有益な気がするんですけど。

ところで、自然科学等の斜線部分の異なった価値観同士の会話であれば、数値は極論的には大小長短の違いを示すだけであって、多様性社会の判断基準においてその評価は必ずしも、長大を選択するとは限らないのではないかと。