制作中の『貝の穴に河童が居る事』は締め切りもなく、やりたいようにやっているせいで制作開始からそろそろ一年が過ぎようとしている。締め切りがない、というより編集者と話し合わないまま今に至っている。 堀辰雄は本作について『こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがない。かう云ふ味の作品こそ到底外國文學には見られない、日本文學獨特のものであり、しかもそれさへ上田秋成の「春雨物語」を除いては他にちよつと類がないのではないかと思へる。』と書いているが、こんな作品に閉め切りなどという生臭いものは不似合いではないか。(河童はベトベト生臭いが)鏡花の幼児性が炸裂したようなこの作品には、締め切りなど気にせず、今こそ私の中に有りあまる幼児性をもって、挑まなければならないのは当然であろう。各方面に対する言いわけはこの辺にして。 それにしても今年は泉鏡花生誕140周年であり、柳田國男没後50年である。両者を作中に登場させることを考えると、見事に過ぎるタイミングである、しかし制作を決めた時点ではまったく知らず、ツイッターで妙に鏡花が盛り上がっているな。とそれで知った。まして父の命日すら覚えられない私が、柳田没後50年に気付くはずもない。 私の場合、こういう都合の良いことは、できの悪い表層の脳を使っていると起きることは皆無であり、何も考えない場合にしか起こらないのが問題といえば問題である。仮に私が寝ている間に、もう一人の別な私が目覚めて、世間の動向など研究していたらたいしたものであるが、夢を見て、笑いをこらえてその苦しさで目が覚めているようではあり得まい。 まあ発刊に際し、鏡花生誕140周年と柳田没後50年ですから、計画的に決まっているでしょう。という顔をすれば済むことである。
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