明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



没後50年は柳田國男の他にもコクトー、コクトーと同じ日に逝ったエディト・ピアフがいる。 本日はストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けの『春の祭典』初演からちょうど100年目だそうである。最初に断りがあり二台のピアノとパーカッションによる演奏のはずが、ストラヴィンスキーの遺族だとかかから、それは編曲にあたると、パーカッションが出演できなくなったということであった。2人の若い女性によるピアノの『春の祭典』であったが、これがパワフルで実に良かった。旧知の重杉彰さんの企画であったが、なるほどパーカッションが加わっていればさぞかし。 休憩の後、三浦雅士氏の解説。かつての『ユリイカ』『現代思想』の三浦氏がこういう人だとは思わなかった。時間制限のこともあったのか、話したい事が渦巻いていて大変な早口で、座ってなどいられない。興味深い話がうかがえた。天才バレエダンサー、ニジンスキーは『春の祭典』『牧神の午後』で常識を破った振り付けで波紋を呼んだが、とくに『春の祭典』は舞台から観ると山手線のホームのようにごちゃごちゃしているが、仮に上から観たとすると様々な円が描かれているそうである。ニジンスキーは後に精神に異常をきたし、口もきかなくなるが、たくさんの“クルクルした”画を残している。三浦氏によると、それが『春の祭典』の振り付けの円と重なり、おそらくこの時点で精神の異常は始まっていたのではないか、ということであったが、ニジンスキーの振り付けは、人間の根源的な部分を描いており、そこが感銘を与えている。という話であった。私は11年前、バレエなど1回しか観たことがないのにニジンスキー、デイアギレフ、コクトーを題材にした個展を開いてしまったのは、獣じみたこの天才ダンサーの、そんなところに触れたからである。 第二部は在日の中国雑技団によるサテイの『パラード』。これもかつてコクトーの台本にサテイの曲、ピカソの舞台装置によりスキャンダルを起こした作品である。CDによるパラードに雑技団は違和感はなかったが、広い舞台に少々さっぱりして物足りなくはあった。 それにしても、デイアギレフを中心としたこの世界。いまこそもう一度やりたいことが山ほどある。たまたまロシア人のドストエフスキーを作って思いだしていたところである。100年前のニジンスキーの歴史的跳躍を客席から観た風景を描くとしたら私しかいないであろう。しかしこの大きなテーマはうかつに2回も手を出せるような世界ではない。

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