建長寺開山蘭渓道隆の、国宝である唯一の寿像(生前に制作された像)を私が立体化すると、建長寺の重文の木像と明らかに別人になってしまう。七百数十年の間、拝されてきた寺宝に対し異を唱えているかのような、罰当たりなことをしている、という気分が作りながらずっと拭えずにいた。しかし臨済宗の、師の姿に込める想いに打たれ、立体化の後七百数十年ぶりに、真正面の尊顔を拝してみたい、という想いを抑えることが出来なかった。場合によっては発表不可の可能性も考えないではなかったけれど、何のために、私にカラの米櫃を突きつけるような存在を排除して来たのか。作りたければ需要は関係ない。 とはいうものの、未完成の開山像を持って建長寺の門をくぐる二日前、寝ていたら胃液が上がってきて目が覚め吐いてしまった。幸いなことに、その後建長寺の関係者にお叱りを受けることもなく。これも禅宗の許容度の広さというものか。
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