昨日の続き。ある禅宗の肖像に対し立派な表情などというが、悟りの表情とは対極にある、不安な表情ではないか?それはまさにモデルの人物が言わんとしたことで、その表情をあえて描かせることにより後世に〝賭けた”のではないか。この解釈に大変感銘を受けた。そう思えば乱世に生きた一休が、弟子である曾我蛇足に何故あの表情を描かせたかが理解出来る気がした。奇矯な振る舞いや言動など、あらゆる手段を持って伝えようとした一休の〝賭け”がそこにはあるのかもしれない。 小学4年の時に親にねだって買ってもらった大人向け『一休禅師』。確かに初めて聞く〝めでたくもありめでたくもなし”という言葉が印象的だったが、そこに蛇足の描いた肖像画が載っていなければ、56年後に、その顔の一休にシャレコウベを掲げさせ2メートルに拡大させることはなかった。作品はつい作家の物と思いがちだが。河合寛次郎の“鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥”を思い出す。被写体制作と撮影の二刀流としては思うところ大であった。