明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



三島は事件の直前、二人の彫師に打診しているが、本当に入れようとしていたのか撮影用だったのかは判然としない。三島の告げた期日内では無理、と断られたという説もある。人形の背中に唐獅子牡丹牡丹を描いてくれた彫Sに訊くと不可能ではない、という。本人の覚悟次第だそうだが、数週間後に腹を切った三島なれば、どうということはなかったろう。私は本当に入れる気だったと見る。プロの彫師としては数週間後に死ぬとは知らないので三島の身体を考え断るのは当然であろう。彫師に打診する直前、隊員とサウナで打ち合わせしている。つまり背中に何も入っていないところを見せておいて、バルコニーの演説の後、脱いだとたん森田以下、初めて目にする背中の彫り物。となったかもしれない。三島ならやりかねない、と私は思う。 直後に後を追う森田になぜ自身の介錯をさせたか。結果、グサグサと、ヘタクソな介錯で三島は酷い目にあっている。普通なら森田に代って見事に介錯した古賀に任せるのが妥当であろう。それは三島がかつてバチカンで見た大理石のアンティノウス像の石像に似ていたからだ、と私は考えている。森田がアンティノウス像に似ていることを活字化されたのは『平凡パンチの三島由紀夫』の著者、椎根 和さんが始めてだそうだが、私もまだブログではない身辺雑記時代の2006年の10月某日11と12に三島の首を制作しながら言及している。興味の在る方はPHOTOGRAPHをクリックしていただきたい。 こういっては問題も異論もあろうが、私としては、三島の理想の死に方実現のために作られたのが楯の会だと思っている。そう思ったのは死の丁度10年前、三島が変名で会員制同性愛雑誌に書いた『愛の処刑』を読んだ時である。これは先年全集にも収められたが、自身のイメージする理想的な死に方を書いた、と私は読んだ。


※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載4回「哀しい背中」
※深川江戸資料館にて九代目市川團十郎像を展示中。11月12日まで。

HP

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