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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



耳毛まで描いてしまう臨済宗迫真の描写の頂相だが、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師には、そのスタイルのものが残されていないようで、江戸時代以前の習慣なのかもしれない。多くの禅画を残した白隠慧鶴は自画像も残しているが、自画像も達磨像も何を描いてもあまり変わらないような、画調自体は、子供の頃から私が興味が惹かれないタイプである。 私の人像制作者としての渡世上のルールとして本人の実像に迫る頂相があることが作る条件だ、といったばかりだが、今日フト、イマジンなど、ジョン・レノンが影響を受けたという白隠を私が作ったらどうなるだろう?とちょっとだけよぎった。私の突然の前言撤回はよくあること、と昨日書いたばかりだし、この件に関しては私自身を信用していない、とも書いた。 このせいで、気がつくと知らない街に一人立ち尽くしていることになる。
 
 


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大燈国師はすでに具体的な画が浮かんでしまったから手遅れ?として。陰影のない頂相を立体化するのは時間がかかるので、残された時間を考え、うかつにその気になって作り始めるのは避けなければならない。と言いながら、この件に関してはあまり自分を信用していない。突然の前言撤回はよくあることなので、そう心がけていきたい。一休宗純はすでに頭部はあるので新作を考えたい。 そもそも陰影を排除する手法は寒山拾得を描くためのものだったが、まだ作ってみたい場面はあるし、登場人物を自由に作って禅画のモチーフも手掛けてみたい。今回の作品は展示期間が4日間だったので、機会あれば通常の手漉き和紙にもプリントし展示してみたい。

 



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先月の建長寺の個展終了以降、ありもしない作品の幻に寝床で連日苦しめられたが、案の定、昨日よりピタリと治まった。現金なもので、五条橋の周辺で物乞いと共に20年という、後の大徳寺の開山大燈国師は、すでに3カットイメージは浮かんだ。国師に帰依したという花園天皇と対座する大燈国師なども可能である。その前に北条時頼と対座する蘭渓道隆か?また訳のわからないことを、という周囲の連中の顔が浮かぶが、鎌倉には話が通じる人がいくらでもいた。 観たことのあるイメージは全て思い出である。私はカメラを思い出ではなく、観たことのないイメージだけに使用したい。建長寺の個展では、その成果を披露することができた。それはともかく。 これからただひたすら忍耐だけの、新たな頭部の制作が始まることになる。少しは歩くようにと各医療機関より。



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高僧の教えそのものであるとして描かれ、弟子に卒業証のように託された禅宗の肖像画である頂相を、写経のようにひたすら写し立体化する。私独自の、そんな禅に対する向き合い方、アプローチがあっても良いのではないか?何しろ対象は師の教えそのものとされて来たものである。 それに加えて 長く続けてきた人像制作という渡世上のルールに基づき、出来うる限り肝心の頭部、面立ちは事実に近づけたい。水墨画しかなかろうと陰影が描かれなかった時代だろうと、私の方法で、誰も観たことがない場面を可視化していく。何百年も手付かずなら今後もそうだろう。その手法は、今回の建長寺で完成している。ただ勘違いして柄にもなく、歴史的重要性など爪の先ほども考えてはならない。あくまで画としてただ面白いものだけを。 おそらくもう、作ってもいない作品の幻に悩まされ、夜中に目が覚めることはないだろう
 

 



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私をずっと苛んできたプレッシャーは、建長寺の歴史もさることながら、公案、悟りなど禅のことなど判りもしないのに手がけていたことである。そんな私を支えてきたのは、制作のきっかけとなった蘭渓道隆や一休などの頂相が、師の教えそのものとされてきたことである。長らく人像制作一筋の私は、それにより修行者の方々とは受信周波数帯が異なるかもしれないが、何某かの念を受信していたのは間違いない。でなければ二年以上一枚の頂相を毎日穴のあくほど凝視続けられない。写経ならぬそんな修養法があっても良いのではないか。絵師の模写と違って立体化はより対話が必要である。 そんな私の次なるターゲットは白隠禅師の『乞食大燈像』である。もちろん白隠とは違い、大燈国師の讃の書かれた頂相を元に制作するのはいうまでもない。
 
 


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幼い頃、頭に浮かんだイメージはどこへ消えていってしまうのだろうと悩んだ私であったが、22日に終わったはずの建長寺の個展終了後、毎日ありもしない出品作に、連日苛なまれている。ごくたまに、しでかしてもいない悪事に苦しみ、寝惚けながら考え、何もしでかしてはいないではないか?と目が醒めることはあるが。あまりにもリアルで、いかにも私が作りそうなイメージなのだが、いくら考えても実態がない。それもこれも建長寺で私が成そうとしたことに起因していることは明らかなので、仕方がないことだろう。飲酒により通常のリズムを取り戻せるとふんでいたが、二日酔いを一度しかしたことない私には余程の酒量が必要である。これは新たに制作すべきイメージにより上書きするしか策はなさそうである。
 
 
 
 


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眠くて10時前に寝ても2時間ほどで目が覚め、アレをするにはコレをしなくてはならない、と未だ建長寺の金縛り?にあっている。ただ解くコツは判ってきて〝もう全て終わったのだ‘’と唱えることである。好きなことばかりやっている気楽な風船野郎という演技プランに基づいた当ブログだが、寝ている間はどうにもならない。 瞬きが止まらないチック症になるほど厳しくうるさかった母が、小学校の授業中タクシーで迎えにきて、妙な施設に連れられ様々テストされたり、石原慎太郎の『スパルタ教育』を隠していて、私に先に読まれてしまったり。母だけは私の行く末を予見していたことが、今になって良く判る。これは治る類のものではない、と悟ってからは応援に転じてくれたけれど。小四で、本屋の店先で大人向け『一休禅師』をねだる私にわかるわけない、と反対したことを覚えていた母に、感謝の言葉だけは間に合った。「感謝してるんだ?と笑っていた。もう半年生きていてくれたら、その一休和尚や、建長寺の風になびく蘭渓道隆の動画を見せることができたのだが。

 



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幼い頃、頭に浮かんだものは、どこへ消えていってしまうんだろう?確かに在るのに。そもそも何で見たこともないものが浮かぶのか?結局、その浮かんだものを可視化し、やっぱり在った、と確認することが私の創作行為となった。それは私とは何か?につながる。 作らずにいられないことには、必ずそのヒントが含まれている。特にそれが、人物の教えそのものである、という趣旨のもと描かれた一休や蘭渓道隆の頂相だった場合、そこには凡百の肖像写真や肖像画とは異なる成分が含まれている。それを人像制作者の私は修行僧とは異なるアンテナで受信している。 次なる制作対象者曰く〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“ まさに望むところである。 

 



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臨済宗がモチーフになったのは寒山拾得が臨済宗由来の説話だったことに始まって、臨済宗に高僧の克明にして詳細な肖像(頂相)を残す習慣があったからである。別人のような頂相が複数残されているのはよくあるが、本人の賛があれば、本人のお墨付きといえよう。なので蘭渓道隆は自賛が書かれた国宝の頂相のみを参考に制作した。不思議といえば、建長寺の木像を含め、全国にある立体像にあまり反映されていないように見えることである。次手がける予定の人物も自賛の書かれた頂相が残る。しかし線描の肖像画であれば、想像で描かれていない部分を補填解釈が可能だが、着彩され陰影がない詳細な頂相は、立体化がむしろ困難であることは蘭渓道隆で身に染みている。



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昨晩あまりに眠くて早く寝ると1時間で目が覚め、というのを何度か繰り返し、夜中に寝ぼけながら今日は何があって何をするんだった?建長寺はすべて終わったのだ、と納得するまで時間がかかった。 18日搬入を済ませたその晩、鍵を忘れ家に入れず、初めて鍵屋を呼んで35000円。諸事情で飾り付けは翌日初日19日の午前中にすることになっていた。私が建長寺の蘭渓像と明らかに別人の像を作ったことや、建長寺にあろうことか元寇、つまり蒙古兵を並べることに対する仏罰ではないか?鍵屋を待ちながら最低な気分であった。なので初日、蘭渓道隆が作庭した庭園からの風でプリント3点が風になびくのを見て、祝福してくれているように思えた。 緊張が未だ解けない状態を元に戻すためには朝からアルコールである。私は二日酔いを一度しか経験しないまま死ぬだろう。次のターゲットである人物の、ずっと我慢してきた伝記を注文。何がどうであろうと、すでに可視化し結果が出た作品より、いつだって恋しいのはまだ見ぬ新作である。



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結局私は自分とは何か、ということが幼い頃からの一番の関心事なのであり、伝記の類を読み漁り、人の形にばかり興味を持ち。それも男性専門。生物としての予感がそうさせたのだろう。であるから二十代の頃こそ情報誌片手に美術館、画廊など行くことはあったが、次第にどこも行かなくなってしまった。他人の頭に浮かんで制作された美術、芸術を見たところで、私とは何か?とは無関係で参考になどならない。 ところで、こんなことをいい残した人物がいる。〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“ どうも誰かが私に当て書きしたシナリオを書いている。確かに私が作らずして誰が作るというのか?とは思う。



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建長寺での個展は、歴史の重さのプレッシャーという、それまで無縁であったものを味わった。また私というものの正体解明には、作ることしか策はなく、その方法は正しいとの確信も得た。それは物心ついて以来、もっとも関心のあることだったのだ、と寒山拾得を手掛けて以来幼かった頃のことを思い出されることが続いた。そこから始まった禅宗モチーフの制作だが、どうやら、たまたまの偶然ではなく〝考えるな感じろ”という我が身を水脈探しのダウジングロッド化することにより、導かれ至った結果なのだ、という確信にも。 建長寺の開山蘭渓道隆のプリント3点は、開山が原型を作った庭に面して展示することだけを決めていたが、猛暑でもあるし戸を開けた。鴨居から下げたプリントが風になびくことを心配し、何かと対策を立てていたのだが、実際なびく様子を見たら。私には蘭渓道隆が喜んで反応してくれているように思えてしまって揺れるたび、何度も撮影した。

 

 



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制作した人物の、これ以上ない場所で展示する機会など、そうあるものではない。あっという間の4日間であった。搬出の車を出してもらうのが高校の同級のOで、Aにも、これ以上できないところまでやったから来いと伝えていた。そこへ担任だった伊藤先生。コロナの最中、ふげん社の寒山拾得展の時に帽子とマスクの先生に、どちらの伊藤さんだろう?と失礼してしまった。お元気で何より、OとAも50年ぶりくらいだろう。懐かしく過ごす。 今回は搬入搬出展示など、腰痛を抱える私を友人知人に助けてもらった。帰宅後、疲れてお祝いにいただいた甘い物を食べながら芳名帳を見ていたら、存じ上げない方々により〝世界和平“〝平安“〝平和“と、想像していなかったことが書かれており、そうか、今回画廊で個展をしたのとは意味が違うんだ、と今になって急に思い知り、ウルッと来て鼻水を垂らしてしまった。



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搬入日以来、メガネが出てこず。日頃の座りっぱなしのツケが。つい椅子に座り、開山が作ったという庭を眺めてしまう。聴いたことのない鳥のさえずり。庭からの風が心地よい。プリントが風に揺らぐと、蘭渓道隆師が私に手を振ってくれているように空想し、つい動画を撮影してしまう。鎌倉五山の第一位、こんな経験はできない。展示が決まってもいないうちから制作を始めてしまった2年以上の日々が思い出される。本木克英監督に来ていただく。元松竹、お近くにお住まいだったそうである。ご無沙汰していた渋澤龍子さんにお出でいただき、庭園の風景を観ながら時間までお話させていただいた。暑い中来ていただいた方々に感謝である。良い悪いはともかくとして、作りたいにも程がある、という私の念で、呆れていただくことだけは可能だろう。明日最終日は三時までである。ご注意下さい。



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 日々の積み重ねが今日なら、最新作が一番でないとならない。他人と自分と比較したり競うことは興味はないが、あの時のアレの方が今のコレより良い、なんてことは寿命を無駄遣いしたようで耐えられない。それを避けるには自分が変化するべきである。今回は昔からの知り合いが来てくれている。何が嬉しいといって、私の変化、かわり様を知っていてくれるというのが何よりである。 考えるな感じろで行くと、頭の理解が追いつかないこともある。チャーリー・パーカーは演奏中、自分の指を見て、今演奏しているのは自分なんだ、と驚いたというが、私が制作した蘭渓道隆が、建長寺の庭園からの外光に照らされているのをみては現実なんだ、と不思議な気がする。

 



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