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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



建長寺の龍王殿方丈というのは元々は住職の居住スペースだそうで。目の前に広がる庭園は、原型は開山大覚禅師、蘭渓道隆の設計と聞いていたので、縦2メートルの『蘭渓道隆天童山坐禅図』を真ん中に『蘭渓道隆とビャクシンの樹』と『山頂に立てる蘭渓道隆』を庭園を眺めるように配することだけは決めていた。自然光とそよ風が心地よい。高井正俊和尚様に見ていただき、よく勉強しているとのお言葉まで頂戴し、全ての作品を撮影いただいて恐縮する。今回のモチーフは美術的云々前に、修行された方にどう見えるか、それが何より気になるところであった。頂相が師の教えそのものとされて来たなら、人間の姿形には幼いころから関心が高い私が二年もの間凝視続けたのは、何かしら受信していたのだけは信じていた。

 



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『小説家など実在した人物像を作り、被写体として写真作品を制作してきたが、22年に作家活動四十周年記念として『Don’t Think, Feel!寒山拾得展』を開催。寒山と拾得、虎に乗った豊干禅師、仙人などを作った。以後こうした説話上の架空の人物を制作していくことを決めていたが、ある時、蘭渓道隆(大覚禅師)の生前に描かれたという肖像画を目にした。臨済宗では師の肖像画(頂相)を卒業証のように与え、それを師の教えそのものとした。多くの肖像写真、肖像画をもとに制作してきたが、禅師の頂相は、そのいずれとも成分のまったく異なるものを感じ、立体化して撮影してみたいと思うようになった。 高校生のころブルース・リーの映画『燃えよドラゴン』で“Don’t Think, Feel!“(考えるな感じろ)という言葉を知ったが、創作を続けてきて感じたままにいくほうが結果がよいことに気付いていた。それは人間も草木同様自然物、肝心なことはあらかじめ備わっているからではないか?肝心なことが、己の中にいるという仏なのかは私には判らないが、今はそれが一番の関心事である。』

※諸事情により作品配置は明日早朝より開始となります。



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今回の展示は長辺2メートルが一点、他は1.5メートルのプリントと、人物像が4点の予定である。昨年暮れに亡くなった母に、小学4年で書店の店先でねだって買ってもらった大人向け『一休禅師』で私に様々な印象を植え付けることになった〝門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし“の一休和尚が、そのままのイメージで完成した。また古来から臨済宗で師の教えそのものとして描かれ、弟子に与えられた肖像画の頂相だが、七百数十年前に描かれた建長寺の開山大覚禅師こと蘭渓道隆の頂相を印刷物ではあるけれど、この2年、私ほど穴の開くほど凝視続けた人間はいないだろう。そんな単純にして明快な試みであり、それだけ?といえば、その通りである。



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坐禅一つしたことない、といいながら毎日制作と向き合って来たが、日々爪の先ほどの積み重ねである。外出すると、今家にいたら何か進展したかも、と考えてしまい、牽制球を恐れて塁から離れない走者のように、散歩嫌いで気分転換などしたくない。中国の深山風景も家から一歩も出ず手にのる石塊で制作。 達磨大師は面壁9年の修行の挙句に手足が腐り取れてしまった、というのは法衣に包まれ手足が描かれないことから日本独自の解釈らしい。 今年、無症状のまま冠動脈カテーテルの手術を2回していただいた先生には、あまりに動かないので症状が出なかったのだろうといわれた。それはかえって良かった、という話ではなく、たまたま見つかったから良いようなものの。先日の検診では問題はないが、長く制作続けるつもりなら、巌窟から少しは出るようにとのことである。

 



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展示できるものはなんでも。中締めの展覧と考えたのが2016年の『深川の人形作家 石塚公昭の世界』(深川江戸資料館)だったが、終了後しばらく図書館に入り浸り、浮世絵やかつての日本画ばかり眺め、その自由な表現に、写真、西洋画の自由を阻害しているのは陰影ではないか?と陰影排除第一作の三遊亭円朝を制作。翌17年に『谷中円朝まつり』(全生庵)で円朝旧蔵の幽霊画と共に円朝像を展示した。搬出の際、対応の若い坊様に玄関先で「いずれ寒山拾得を制作します」といった記憶があるから、おそらく陰影の排除は、寒山拾得制作が前提にあったことになる。そういったのは全生庵が寒山拾得ゆかりの臨済宗で、これは縁がある、と。臨済宗の寺がそこらじゅうにあることすら知らなかった。 余談だが、記念に新発見の鏑木清方作お菊他、伊藤晴雨などの幽霊画の名品との記念写真を、と思ったが、何カット撮ってもα7のピントは合わない露出はヘンで、それが幽霊達の総意ならと諦めた。
 
 


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AIの進歩には驚くばかりだが、例えば奇跡のような現象が起きているのに茶の間で頬杖ついてテレビのマジックショーを観ているような状態にすでになっていて、AIのおかげで本当の奇跡が起きる可能性が一つ失われてしまったかのような気分が拭えないでいる。 かくいう私も「デジタルってなんでも出来るんですね。」などとあっけらかんといわれる事があるが、実はペトペトペトペトと、化け猫が夜中に行燈の油を舐めるが如き要領で、粘土で形作ったものが主成分である限り、奇跡の起こる余地があると信じている。またそれが見る人の潜在意識に届くのではないか? 未だにずっと粘土の質感丸出しのままなのは、私が作ったという無意識の表明だろう。AIの時代にこそ届くと思いたい。



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南宋時代の中国、元寇を避け、ある寺で無学祖元が坐禅をしていると蒙古軍が侵入してきて剣を突きつける。しかし微動だにせず『臨剣の頌』あるいは『臨刃偈』とよばれる漢詩を詠むと蒙古兵は感銘を受け、礼をして去ったといわれる。七百年前の名場面で、瞬間イメージが浮かんだ。検索してもビジュアル化された気配がなく、即座に制作を決め、昨日まで爪の先ほども考えたことがなかった蒙古兵を作ることになった。これが私の紆余曲折のメカニズムである。架空のブルースマン を作っていたはずが、40数年の旅路の果てに禅宗の高僧を作っている。挙句に鎌倉幕府に脅威を与えた蒙古兵を建長寺内に並べようとしている。 今時、北条時頼と蘭渓道隆が対座しているところを作る、なんて地球上で私だけだろう、などと夢想しているうちは良いのだが。

 



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当初その技術水準から南宗で描かれたものでは、といわれていた国宝である蘭渓道隆の頂相が、現在は建長寺内で生前描かれた事が明らかになっているようである。全国には建長寺を訪れ、模写したに違いないものもあれば、遠く噂話だけを頼りに制作されたとしか思えないものも多く、まさに十人十色の様相だが、それぞれの土地で手を合わせる人々にとっては、それは間違いなく大覚禅師である。『ミステリと言う勿れ』で主人公の久能整がいう〝人の数だけ真実があるが事実は一つ“ この場合の事実とは唯一生前に描かれた頂相を指すだろう。私はというと印刷された事実だけを元に制作した。私がなぜこの頂相に、これほどこだわることになったのか、このミステリについては制作することによってしか解明出来ないが、私にとって必ず重要な理由があることを経験上知っている。



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一休禅師の長辺1.5メートルのプリントを鴨居から垂らしている。朝目が覚めギョッとするが。被写体が4、50センチほどの人物なので、それが人間大、あるいはそれ以上に拡大することにより別な世界が立ち現れる。 サンディエゴ写真美術館の館長だったデボラ・クロチコさんに、写真作品というより大きくプリントした方が良い、といわれた時は理解出来なかったが。「私と同じようなアプローチをしている作家はいますか?」と聞くと、ちょっと考えて紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンだった。?つまり居ないということだな、と。実をいうと私には男性写真家は皆狩人のように見えて苦手意識がある。歳上の人シンディ・シャーマンはもっとも好きな写真家の一人であった。



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雲水姿の一休和尚は笠を持っているが、そういえば欠けていたな、なおそう、と思って出してきたが、和尚が横目で細かいことは気にするな。」という。法衣を削っているうち粉にまみれた。チリ埃を積もるままに任せてみたが、こうなあると、あまり関係なくなって来た。見方によれば汗が乾いて塩を吹いたように見えなくもない。しかし設定は正月の京都である。すると再び「細かいことは気にするな。」 この一休、作り初めたのはいつだったか、実はふげん社の個展時から顔が別人となっている。つまり何年も細かいことを気にしてきたので、もう笠が欠けていようが塩吹いていようがどうでも良い。思えば一休にたまたま陰影を与えて、鎌倉室町の陰影を与えられて来なかった人物にはむしろ陰影、立体感を、と一変したのも、一休なかりせば。

 



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作家シリーズの江戸川乱歩のように、作品として今後も活躍してもらいたい人物が一休和尚だが、まずは小四の時に読んだ『一休禅師』のイメージの雲水姿である。瓢箪を肩にしているのは、3、4歳の頃、TV時代劇『紅孔雀』で八名信夫がこうやって酒をガブガブやっていたのを覚えていた。 私の中には見る人を笑わせたい、という願望が押さえ難くあるが、ユーモラスな発想が好きな元禄の絵師に幇間でもあった英一蝶がいる。シャレが過ぎたか島流しにもなっている。一蝶に『一休和尚酔臥図』という和尚が往来で酔いつぶれている作品があり、ならば、と髑髏を竹竿に掲げて正月の京の街を歩くという嫌味なことをしたその晩に、酔いつぶれているところを以前制作した。長辺1、5メートルにする必要は感じないので今回は出品しないけれど 。

 



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建長寺の開山大覚禅師像を抱えて建長寺に行った時、三門を前に、30年は修行のため、山を降りないと禁則を立てていた慧遠法師が話に夢中になり、うっかり虎溪の石橋を越えてしまって我にかえって笑っている『虎溪三笑図』のような状態であった。もっとも私の場合は、笑うどころか満開の桜がまるでテイッシュペーパーに見えた。初めて坐禅をしたのが、その日の鎌倉禅研究会の椅子に座ってのことという有様である。 そんな私を支えたのは、七百数十年前の開山の一枚の頂相に感銘を受けた、幼い頃からの人間への私の視点、感覚である。人物の肖像から、この種の感銘を受けたのは、40数年の間でチャーリー・パーカー、村山槐多、ヴァスラフ・ニジンスキー、九代目市川團十郎、一休宗純、蘭渓道隆の6人しかいない。



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今までの個展ならば、まだデータをああだこうだやっているに違いないが、今回は一点を除いて約1メートル✖️1、5メートルのプリントなので、余裕を持って進行しなければならず、土俵際の粘りを発揮している訳にはいかない。 もう何年も被写体の人形は、参考程度にしか展示していない。特に1カットのためだけに作る場合は写るところしか作らず、同じポーズを再使用することはないので、首だけ引っこ抜いて身体部分は処分してしまう。しかしホッペタ膨らませて己の分身を口から吐く鉄拐仙人では流用のしようがないし、コンビの蝦蟇仙人も、私がついカエルじみた顔に作ったので再登場の機会はやって来ることはないだろう。

 



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およそ医者というものは、患者が喜びそうなことばかりいうのはダメである。叱られながら昨日初めてヘモグロビンA1Cが5台に。他に思い当たることと言えば、不信心者のくせに、ここ2年、まるで面壁修行の如く七百数十年前の禅師を、坐骨神経痛で3週間ほとんど天井見て暮らした時も、その頭部を一時も離さず制作した効果かもしれない。 個性的ではあるが一枚の痩せた禅師の肖像画に対し、何故こんなことになったのか首を傾げるばかりだが、師の教えそのものである、という前提で描かれた念を、内容も解さぬまま受信してしまった、としか考えられない。 小学校の図書室で始業のチャイムにも読むのを辞められず騒ぎをおこすほど人物伝を読み耽り、またずっと人の形、様相に対する興味も変わらない。何故そうなのか、そろそろ解明したいところである。

 



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建長寺では一部の方々が、中国の大覚禅師の生誕地を訪れているようである。鎌倉時代、当時の最新の中国文化を日本に伝えたのは日本からの留学僧、あるいは来日した大覚禅師や仏光国師だったわけで、雪舟も絵画を学びに訪れたが、日本とは違う風景に「ほんとにこうなってたんだ。」とびっくりした画僧もいただろう。『蘭渓道隆天童山坐禅図』は縦2メートルにプリントした。天童山は栄西や明全、道元も修行した山だが、あくまで私の創作である。虎を見たことがなかった日本の絵師たちが描く虎は、どうしても身近な猫じみてしまうことなどを想う。

 

 



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