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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



肖像表現の究極、と思うに至った禅宗の肖像画、頂相だが、臨済宗中興の祖、江戸時代の白隠になるとリアルな描写の頂相は残っていないから、そういう習慣は廃れてしまったのだろう。だとすると、実像にこだわると白隠などは手掛けられないことになる。立体像も残ってはいるが、いかにも仏師が仏像を作る調子で作ったような型式的なもので、これでは写真作品には使えない。葛飾北斎なら自画像から制作できたが、自画像も達磨像も大燈像も区別がつかないような白隠の作風では、同じようにはできない。しかし、もし白隠の自画像から私なりに、写真作品に耐える白隠像が制作可能ならば、とフト思った。だがしかし私の場合、何を作らないか、これも何を作るか、と等しく重要な問題なのである。



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制作する人物が臨済宗に限っているのは数百年前の高僧の詳細な肖像が残っているからで、実在した人物である限り、好き勝手に制作することには抵抗がある。かといってそこに踏みとどまるべきか、ということにもなって来るだろう。先日私の一休和尚の骸骨にまとわりついていた鴉が肩に止まり、それに反応する和尚の数秒のAI動画を見て以来、建長寺の目と鼻まで訪れたものの蘭渓道隆との接触はなかった、と以前制作を断念した一遍上人を踊らせることが出来そうで、やるとしたら私だろう。踊る一遍上人を前に、フランケンシュタイン博士のセリフ「It's Alive!」をいってみるのも悪くない気もする。

 



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97年、最初の作家シリーズの個展に、日本に一台立体をスキャンする機械があり、それで私の作品を映像で動かしたい、という人が来た。当時はワープロすら触ったことがなく興味が持てなかったが、昨今のAIとなると話が違ってくる。私が作った700年前の高僧に説法してもらうことも松尾芭蕉に一句詠んでもらうことも可能だろう。子供の頃観た名場面、雷鳴轟く中It's alive!」と叫ぶフランケンシュタイン博士の気分を味わう日も近いだろう。 年齢と共に一度見た過去には興味がなくなり、見たことのないものしか興味がなくなってきた。引越しの時に、生まれた日から記録された私のアルバムを忘れてきたことも遠因となっている気がする。コレクションを一度処分すると、処分したことを後悔するのが嫌で二度と手を出さない。あの心境に近い。



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ある方から大太刀を持っている一休で立っているのは初ではないか、とご意見をいただいたが、見たことないから見たいし作りたいということになる。大燈国師の物乞いの中で20年というエピソードを知って検索して出てきたのが白隠の『乞食大燈像』だったが、自画像も達磨像も大燈像も皆同じような顔であるし、私には解像度不足であった。 ある宗派の、ある寺の開山となると、ビジュアル化されるのはせいぜい数百年だろう。円覚寺の無学祖元の『臨剣の頌』ですらビジュアル化された気配がない、もしくは残されていない。実にモチーフの宝庫である。一休も蘭渓道隆も、無学祖元も臨済義玄、大燈国師も写真の題材になるとは、お釈迦様でさえ思わなかったろう。



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あまり夢は見ない方だが、パターンがあって、シチュエーション、出演者はめちゃくちゃでも、私はいかにも私がいいそうなこと、しそうなことしかしない。観ているのは実際は短い時間だというが、その短時間にどうやって普段思い出すことないような出演者を用意し、奇妙なシチュエーションを考えているのか不思議ではある。 私が作品のイメージを思いつく時、いかにも思い付いた、という顔をするそうだが、初めから構図その他大体決まった状態で浮かぶ。出所は夢と同一っぽい。そして養老孟司いうところの〝人は思いついたものを作るように出来ている“という仕組みのおかげで、気が付いたら建長寺で庭を眺めており、旧い友人から「お前が坊さん作ることになるとはな。」といわれる始末である。おっしゃる通りだが、核心に向かっているような気はしている。



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一休和尚に持たせる2メートル近い朱鞘の大太刀を注文する。鞘は赤漆、長いだけに反り具合にこだわった。和尚はどうも長い物を持ち歩くのが好きである。中身は木剣で、見た目だけで役に立たないという、当時の多くの堕落した僧に対する皮肉である。朱塗りの鞘は悪趣味で、いかにもな嫌味である。すでに大太刀を持たせるだけの状態で画像データは出来ている。届き次第すぐに完成するだろう。 2メートルの大太刀は冗談である。中国の深山風景を手に乗る石塊で制作し、長辺2メートルのプリントにして建長寺の微風になびかせた人間が、そんな所にホントの大太刀を使うわけがない。会場で感心されると居たたまれず、みんなバラしてしまうのだが、作者としては良いことなのかどうなのか判らない。

蘭渓道隆天童山坐禅図

 

 



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それにしても白隠禅師に挑戦するかのように、よりによって『乞食大燈像』を、それも写真作品にしようと、ああだこうだいっているブログが訪問される方々には、どのように見えているのだろうか?さぞかし奇妙なものだろう。そのぐらい私にも判る。私自身としては紆余曲折の挙句に、一人知らない街角に立って我に返ったとき、どうやってここまで来たのか備忘録としてブログがあれば、なんて考えていたのだが、何か思いつく時は助走もなく、ぼた餅が落ちてくるが如しで、あまり役に立ちそうにない。 大燈国師の頭部にはまだ取り掛かっていない。国師一人に集中するのは得策ではない。『大燈雨宿り図』用の物乞い、町人などの脇役連を、何人か並行して作る方が目の慣れを防ぐためにも良い。

 



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そのユーモア、発想が好きな絵師英一蝶に『雨宿り図屏風』がある。武士や芸人、動物までが屋敷の軒先で雨宿りしている。そこには身分も何もない。実は雲水姿で竹竿に骸骨の一休でやってみようと考えたことがある。烏の一声で悟りを開いたという一休なので、骸骨に烏をまとわりつかせようと思ったら初鴉が正月の季語だったので、これ幸い、とうまくまとまり雨宿り案はボツとなった。それが五条橋下で雨宿りしている大燈国師と物乞いその他の人達に変じて昨日浮かんだのだが。 私の作品内に多人数の作品がないのは、単に被写体を作るのが大変だからであるが、雨宿り図は様々が集ってこそで、そこが問題となる。いざとなれば知り合いの酔っ払いを何人か見繕って、なんて手がないことはないけれど。そんな心配は主役の完成後の話であろう。



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京都大徳寺の開山大燈国師の横目の頂相を見た時、小四で読んだ『一休禅師』の挿画で目に焼きついた曽我蛇足(じゃそく)の横目の一休像を連想した。一休以外で初めて見た。50数年時代のズレがあり、オリジナルは大燈国師の方で、一休は尊敬のあまり大燈国師の真似をしたと思しい。『一休禅師』ではとにかく汚い、という印象が残っていて建長寺の出品作も、窓際に置いて埃と塵をためて撮影した。それも五条橋の下で物乞いと共に20年という国師の修行ぶりに影響されたのでは?と興味を持った。その姿を描いたのが、白隠禅師の『乞食大燈像』である。それに対し、私が描くとこうなる、という『乞食大燈像』を制作することにした。と書いたところで英一蝶『雨宿り図屏風』ならぬ五条橋下での『大燈雨宿り図』なんて横長の大作が浮かんでしまった。浮かんで15秒ほどなので、まだ笑い事で済ませられる。


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実在者の制作工程は、作家であろうと歌舞伎役者であろうと映画監督だろうとまずは伝記、人物伝の類、その他資料を乱読しながら頭部の制作を開始し、頭部が出来る頃には、写真作品をどんな背景、シチュエーションにするか決まっている。平均すると年に6人だが、それは写真資料がある時代の人物の場合であり、詳細ではあるが陰影がない頂相の立体化はいつもよりはるかに時間がかかるから、今のモチーフで6人というわけには行かない。今後も実在者と禅機画のモチーフを並行して制作したい。 5時に小岩駅。建長寺の搬入を手伝っていただいた御夫婦、旧知の友人等で慰労会をやってもらう。明日からは粘土を手にする予定。



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一休禅師の竹竿に骸骨を作っていて、その晩、骸骨枕に酔い潰れてしまうところを思いついた。まずメインの竹竿に骸骨を完成させ、撮影を済ませてからにすれば良いのに、思いつくと我慢が出来ない。せっかく作ったもっとも肝心な目を粘土で瞑らせてしまい、後で改めて目を作り直すという厄介なことに。後悔は事前にできないところに問題がある。 母が生きていたら幼稚園の台風の休園日、佃の渡し船の絵を描いていて、煙突だかに描かれた東京都のマークを描くため、近くのマンホールの蓋を土砂降りの中止めるのも聞かず見に行った話をするだろう。聞かされるたび、生まれついてのことで私に責任はなく、両親のブレンドの問題ではないか? だがしかし、良い悪いはともかく、作りたい、という想いや念は必ず人に届くと考えている。



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江戸時代の幇間兼絵師である英一蝶の同タイトル作に、一休が往来で酔い潰れている作品があり、こんなもの描いて良いなら私ならこうする、と制作した作品である。正月の京の街を髑髏を竹竿に掲げて歩いた晩に、酔い潰れている一休である。枕の髑髏は私の創作だが、風狂を代表する和尚にはこのぐらいしてもらっても良いだろう。和尚は元旦の生まれという説もある。 個展会場では、竹竿に骸骨で歩き回った晩に、と説明していたが、骸骨とともに竹竿が転がっていれば、そんな説明も要らず単独での完成度も上がる。これまでなかった竹竿を加えた。 一休宗純における私の重要作にもなるであろう本作は、当然、いや幸いにも、まだ1カットも売れていないので、建長寺の新作とともに手漉き和紙に再プリントしたい。



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一休は赤鞘の大太刀を腰に、ひきづりながら堺の街を歩いた。中身は木刀である。見た目だけでなんの役にも立たない、と当時の僧への皮肉である。髑髏を竹竿に掲げた一休の頭部を、あえてそのまま使って制作している。 毎年、大晦日に昨年制作できなかったり思い付かなかったことがやれたか?と振り返ることにしている。最新作が一番であるべきだ、という思いや、死の床で、あれもこれも作りたかった、と苦しむに決まっている、とうんざりし続けたことが、すべて小四で目にした一休の〝門松は冥土の旅の一里塚“により、生きるほど死に近づいてしまう、ということが刷り込まれたせいだ、と昨年一休を作っていて気付いた。結果的に、一週間だろうと後戻りしたくないし、最新作こそが人生上の最突端、と前だけを向いてやって来られた。

 

 



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建長寺では実在したが、陰影を与えられたことがない時代の人物に陰影すなわち立体感を与え、寒山拾得や仙人は陰影のない作品を展示した。個展終了後、連日作ってもいないイメージにうなされる有様であったが、悪夢が覚めてみると、そもそもが全て私が作ったものであるし、ルールブックは私である。さっそく以前だったらしなかったことを試みると全く問題がなく一皮剥けたが如し。 幼い頃からの流れを考えると私から好奇心、集中力が失われるとは思えず、昔から最晩年にピークを持って行けると踏んでいた。新作が一番という決まりを今回も守れただろう。多少の毒なら効く頃には終わっているであろう、ここからが本当の自由かもしれない。

 

 



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耳毛まで描いてしまう臨済宗迫真の描写の頂相だが、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師には、そのスタイルのものが残されていないようで、江戸時代以前の習慣なのかもしれない。多くの禅画を残した白隠慧鶴は自画像も残しているが、自画像も達磨像も何を描いてもあまり変わらないような、画調自体は、子供の頃から私が興味が惹かれないタイプである。 私の人像制作者としての渡世上のルールとして本人の実像に迫る頂相があることが作る条件だ、といったばかりだが、今日フト、イマジンなど、ジョン・レノンが影響を受けたという白隠を私が作ったらどうなるだろう?とちょっとだけよぎった。私の突然の前言撤回はよくあること、と昨日書いたばかりだし、この件に関しては私自身を信用していない、とも書いた。 このせいで、気がつくと知らない街に一人立ち尽くしていることになる。
 
 


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