批判なき歴史は空虚にして、
そのまま信じると馬鹿をみる
もちろんこれは、次のスローガンをもじったものです。
愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり

珍しいことに5月14日にYAHOOのブログに書いた記事(『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり』)にヤフーメンバーのタカさん(w1919taka)から次のようなコメントをもらいました。
僕の返信もあわせて紹介します。
学校で学ぶ歴史とは殺した者の勝手な理屈論理。
死人に口無し。
人を殺して、権力を手にした者に都合の良い内容。
学校教育の歴史はウソを学んでいるような物。
自分でシッカリ判断しないと騙される?
by w1919taka
2006/5/15(月) 午前 8:04
『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり』のコメント欄より
僕はさっそく返信を書きました。
Takaさん、コメントありがとう!
久々のコメントをもらいましたよ。
こういうコメントはうれしいものです。
そうなんですね。 学校で学ぶ歴史も一つの作品ですからね。
作者が50%を書き込む。残りの50%は読者である生徒がしっかりと自分で読まないと、だまされたままになってしまう場合もあるということを僕は言いたかったのです。
そこを読み取ってくれてありがとう!
Thanx millions!
by デンマン
2006/5/15(月) 午後 4:15
歴史書は誰が書いたかが問題ですよね。
中国には現在の王朝の歴史家(歴史担当の役人)が前の王朝の歴史を書くという伝統があります。
日本にはそのような伝統がまったくありません。
つまり、日本の歴史書は、政権を担当している者の意向に従って歴史家が都合の良いように歴史書を書くという“伝統”があります。
『古事記』も『日本書紀』もそのようにして書かれたものです。
だから、創作や嘘や虚飾がそこここに散りばめられています。
時に、権力者と言うものは無茶苦茶なことをやります。
その例として僕は藤原不比等が勝手気ままに女帝を擁立して、
藤原氏の都合の良いように“日本”を変えていったことを述べました。

この上の絵の向かって左側に座っている小さな人物が藤原不比等です。
この男が無茶苦茶なことをやったのです。
その証拠が次の系図にはっきりと残されています。

この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような事をやらかしました。
男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。
系図の中の番号は継承順を示すものです。
持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、
今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。

この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。
もちろん、このような藤原不比等のやり方を見ていて頭にきた人はたくさん居たはずです。
でもね、面と向かって反対したり反抗することができなかった。
なぜ?
すぐに役所を辞めさせられてしまいます。
喰ってゆけなくなります。
辞めさせられるだけなら、まだいいほうです。
上の絵のように、首をきられて殺されてしまいます。
藤原不比等の父親がこのページのトップに載せた絵の中に出てくる中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
蘇我入鹿の首を切ったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
弓を持っているのが鎌足です。
この当時は“政治舞台”での人殺しは珍しいことではなかった。
天皇まで殺されています。
今なら、国会議事堂の中や皇居の中で政治家によって白昼堂々と人殺しが行われていたようなものです。
だから、反抗するには命を捨てる覚悟が必要だった。
誰だって、命を好んで捨てたいと思うものは居ない。
でも、藤原不比等を腹立たしく思っているものは多かった。
何とかして、不比等の鼻をあかしてやりたい!
そういう名もない役人たちが居たのです。
どうして分かるのか?
藤原不比等に反抗して『古事記』や『日本書紀』の中に、はっきりとその足跡を残しているのです。
両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。
しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと矛盾が、ところどころ顔をのぞかせます。
これは、いわば当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は、藤原氏が日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。
何よりも、不比等が親の七光りで編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
もちろん、わざとこの“矛盾”を書き込んだ人もいるでしょう。
つまり、“真相”が分かるようにと“可笑しなこと”を紛れ込ませておく。
読者がその事に気づいて“真相”に迫ろうとする---僕の考えすぎでしょうか?
でも、これから述べるように、そのような“苦心”がこの両書に込められている、と僕には思えるのです。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。
『日本書紀』に隠された真実の声
このページに掲げた血なまぐさい絵は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

右の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
この兵書については次の記事を読んでください。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
鎌足の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。