性と愛と批判
万葉集の中の政治批判?
茜(あかね)さす
紫野行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
原文:茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
意味: 茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされている。
大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
額田女王は美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。
糠田女王が生きた奈良時代というのは、男と女が互いに平等な性愛の喜びを分かち合うと言う理想を和歌の中で詠(うた)い上げるという自由な気風があったと言われています。奈良時代、平安時代の女は、江戸時代や明治時代の女よりも自由恋愛をしていた、と言うことができると思います。
シカゴ大学の研究グループが29カ国の40代から80歳代の夫婦を対象にした調査によると、日本で満ち足りた夫婦生活を送っているのは25.7%だということです。
つまり、日本がランキングでは最下位だったそうです。
ざっと言うと、4組の夫婦のうち3組が日本では不満を持っているのですね。
不幸な結婚生活を送っている75%の妻たちよりも奈良時代、平安時代の女は性愛の喜びを感じていたのです。
どうしてそのような事が言えるのか?
それは次の結婚生活に不満を抱いている妻たちの嘆きを読むと実に良く分かりますよ。
あなたもそう思いませんか?
夫のパンツは雑巾と便座カバーと一緒に洗濯します。
夫のパンツを洗うために大学を出たんじゃないわ!
夫のパンツを見るとムカつく!
夫のパンツの中にムカデを入れておいたわ。
汚い夫とは、もう2年やってません。
ウンチの付着した夫のパンツを洗わされるのはもう嫌です。
私の横でパンツいっちょになった夫のパンツを見たら吐き気を催(もよお)しました。
夫のパンツは汚いから、捨てる割り箸でつまんで洗濯機に入れています。
夫のパンツと一緒に自分のパンツは洗いません。
最近、夫のパンツを見るのもイヤです。
これは、つい最近、結婚生活に不満な妻たちの“グチ”を、僕がネットで調べてここに書き出したものですよ。
こういう愚痴を、もう少し文学的に表現すれば、良い作品が出来ると思うのですけれどね。。。
少なくても上の万葉集に収(おさ)められた歌の中で、額田女王は自由恋愛の思いを謳(うた)いあげています。
汚い男のフンドシのことなど詠(うた)っていませんよね。でしょう? へへへ。。。
そう思いませんか?
文化的な次元の違いに気づきませんか?
僕は、不満を抱いている妻たちが“生(なま)の嘆き”を書いていることは、それなりに意味があることだと思いますよ。
でもね、まったく“文化の香り”が欠如していますよね。
性と愛の満足度ばかりでなく、文化のレベルまでが奈良時代、平安時代の女よりも落ちてしまっているのではないのか?
奈良時代、平安時代にはテレビも洗濯機もありませんでした。
ところが、現在では、かぐや姫の物語が現実になって、人間が月に行ける時代になりました。技術的には奈良時代、平安時代の人間など想像もつかないようなハイテク時代に我々は生きています!
でもね、文化的には、そして、性愛のレベルでも、奈良時代、平安時代と比べて進化しているとは思えませんよね。
つまり、心の進化ですよ。
人間は技術的・科学的・医学的には進化を遂げてきたけれども、心はむしろ退化していますよ。
その証拠が戦争ですよ!
一人の人間を殺しただけでも裁判にかけられて死刑にされることがある!
人殺しは悪い事に決まっているんですよ!どういう場合でも。。。!
つまり、死刑も法律に基づいた“人殺し”ですよ!人道に反する事ですよ!
ところで、戦争で多くの人間を殺すと勇敢だと言って勲章がもらえる!
このようにして軍神になった人が日清戦争や日露戦争、太平洋戦争には居たものですよ。
僕は馬鹿馬鹿しい事だと思いますね。
こういう馬鹿馬鹿しい考えを当たり前だと思うから、原爆や水爆が作られてしまう!
ところが、ミノア文明の1200年の間には戦争がなかった!
考古学的に戦争の跡が見出されない!
詳しい事は次の記事を読んでくださいね。
『戦争はなくす事ができるものです』
ミノア文明に比べると、“すばらしい”と言われている古代ギリシャ文明や古代ローマ文明も野蛮な文明ですよね。
なぜなら、戦争が絶えなかった。
だから、ミノア人は古代ギリシャ人を野蛮人だと呼んでいた。
現代の我々の住んでいる“アメリカ文明”は、元をたどってゆくと古代ギリシャ文明に行き着きます。
この古代ギリシャ文明は心が退化して出来た文明です。
だから、それまでの1200年の間に戦争がなかったのに、古代ギリシャ人は戦争を好んでやった。そうして領土を広げていった。
“アメリカ文明”はこの古代ギリシャ文明の流れから派生しています。
そういうわけで、“戦争インフラ”を温存している!
ブッシュ大統領がこの戦争インフラを大切に温存しています。だから、中国や北朝鮮も見習っている。
この戦争インフラをなくさない限り、戦争は絶対になくなりません。
なぜなら、戦争をやらなければならない仕組みになっている!
それが“アメリカ文明”ですよ。
この戦争インフラについても、近いうちに書こうと思っています。
例によって、話がそれてしまいました。へへへ。。。。
でもね、額田女王の“愛の歌”から、こうして話が性生活の満足度のことへ、それから戦争の話しへと話題がそれてしまった。
なぜなのか?
もともと額田女王の“愛の歌”は政治的な事と無関係ではなかったからです。
実は、僕はこの歌に極めて政治的なものを感じるのですよ。
これまで、この歌の解説書を読んでも、政治的なものをこの歌から読み取ってクドクドと書いている人は、僕の知る限り一人も居ません。
つまり、この歌は愛の歌、恋の歌なんですよね。そう思われてきました。
でも、僕は、そのように単純には受け取れないのです。
なぜか?
それは、額田女王の生きた時代が極めて政治的に波乱に富んでいたからです。
僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。
でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。
ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。
そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。
“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか”
これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。
しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。
大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。
その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。
確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。
間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。
僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
『定慧(じょうえ)出生の秘密』
要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。
何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。
この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』
■ 『天智天皇は暗殺された』
■ 『天智天皇暗殺の謎』