女帝をたくさん産み出した男
そうなんですよ!
そういう男が日本史の中に居たんですよ。
この上の絵の中の向かって左側に座っている小さな男です。
この男の名は藤原不比等(ふひと)と言います。
この男の話をする前に、ちょっと女帝問題について触れたいと思います。
あなただって、この1年か2年の間に日本でも女帝を迎えたらどうか?と言う話を聞いたことがあると思います。
ほとんどの人にとってはどうでも良いことなんでしょうが。。。
でも、そう思っていない人たちも結構居るんですよね。
だから、僕もあまり不謹慎なことはここで言わないつもりです。
しかし、言論の自由の世の中ですからね。
僕にも言いたい事を言う権利があります。
だから、こうしてブログを書いているわけです。
僕は個人的には女帝が居ても良いと思っています。
しかし、反対する人が結構多いのですよね。
なぜ「皇室の伝統」を踏まえて考えないのか!
安易な「女帝論」はいけません!
「男系男子」が皇位継承の大前提!
女帝問題は皇室典範改正だけでは解決しない!
男性皇族を増やすべきだ!
反対する人は、上のようなことを言っています。
2003年(平成15年)の12月、衆議院憲法調査会会長である中山太郎氏が話したことが産経新聞紙上に次のように載りました。
「憲法調査会では最終報告書で女帝を認める方向にある。
そのための皇室典範の改正も来年には考えたい」
この頃から女帝問題がいろいろと取りざたされるようになったようです。
言うまでもなく、中山発言の背景には継承者になる男子皇族が生まれてない、という事実があります。
秋篠宮さんが生まれてから、男子皇族は一人も生まれていない。
これから、皇位継承者の男子皇族が生まれなかったらどうなるのか?
万が一そうなった場合、今の皇室典範の規定では、皇位継承の資格者は「男系男子」ということになっていますから、当然、皇位継承者がいなくなってしまう。
中山氏の発言は、そうした事態の可能性を先取りした形で、そのような皇統の断絶を避けるために内親王(女子皇族)にも皇位継承者の資格を認めたらどうか、と言う発想です。
僕は、それでいいんじゃないの。。。と思います。
でも、それに反対する人たちが結構居るんですね。
◆「男系男子」が皇位継承の大前提!
確かにそのような“伝統”が日本にはあります。
しかし、中山氏も言っていたように、今まで皇位が継承されてきた中で女帝と言われる人が8人10代存在したという前例があります。
これに不服な人は次のように言っています。
しかし、重要なことは、8人の女帝と言われる方々は、あくまでも「中継ぎ」として、いわば摂政のような形で天皇になったという事実です。
つまり、その女帝は「男系の女子」というべきご存在であり、その後の皇位はやはり男系が継承するという大前提があったのです。
これに対し、例えば愛子内親王が皇位を継承されるという場合を想定してみましょう。
当然、愛子内親王はどなたかと結婚します。
そして子供が生まれたら、その子によって皇位が継承されるということになる。
それは皇統が「女系」に移るということになるのです。
しかし、今までの皇室の歴史にはそういう例はない。
8人の女帝全てが、天皇が亡くなった後の皇后様、つまり寡婦(未亡人)か、あるいは生涯、独身を貫いた女性だった。
いわゆる女帝が子供を産んで、その子が皇位を継承したという例は今まで一度もないのです。
女帝はあくまで「中継ぎ」として、つまり「急場の危機をしのぐ」という意味で即位した。
その後の皇位継承は男系に戻る。今まで男系をはずれたことは一度としてないのです。
こうした歴史的伝統を踏まえ、現皇室典範も皇位継承は「男系男子」と定めているわけです。
これは一読して筋が通っているように見えるんですよね。
ところが女帝が皇位を継承した歴史的背景を全く無視しているんですね。
つまり、“机上の空論”になってしまっているんですよ。
“伝統”を持ち出していかにも歴史的事実に即してまともなことを言おうとしている。
でも、全く歴史の実態に目を向けていないのです!
では、歴史の実態とはどのようなものだったのか?
ここで、“女帝をたくさん生み出した男”が登場します。
この系図の中の中臣鎌足が、次の絵の中の大きな人物です。
向かって左が次男の藤原不比等で右側の坊さん姿が長男の定慧(じょうえ)です。
この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような無茶苦茶なことをやったのです。
どのような無茶をやったのか?
それは、男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。
系図の中の番号は継承順を示すものですが、持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。
どうしてこのようなことをしたのか?
天武天皇の息子たちに皇位が渡ると藤原氏の思い通りになる政治ができなくなってしまう。
何が何でも持統天皇を抱き込んで、藤原氏は実権を握りたかった。
そのために、天武天皇系の“皇位継承権を持つ「男系男子」”を全く無視した。
この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。
そのために女帝を立てた!
女帝はあくまで「中継ぎ」として、つまり「急場の危機をしのぐ」という意味で即位した。
上の系図の中に登場した女帝たちは“中継ぎ”のように見えるけれども、実態は“藤原氏の傀儡”だった。
“皇位継承権を持つ「男系男子」”は全く無視された!
このようにして藤原氏と天皇家の2人3脚の長い歴史の第1ページが作られた。
このような藤原氏の横暴を苦々しく思っていたのが大伴家持(おおともやかもち)だった。
“新参者の藤原氏”と比べれば“大伴氏”は名門中の名門です。
すでに、氏族としては落ちぶれてはいるけれども過去の栄光のことについては充分に承知している。
大伴氏は、もともとは天皇の親衛隊のような役目を持っていた氏族です。
家持の目から見ても、不比等が天皇家を抱き込んで無茶苦茶なことをやろうとしていたのが見えていたでしょうね。
当然のことですが、日本を“私物化”しようとしている藤原氏に対して良い印象を持っているわけがない。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。
そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。