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☆=☆☆☆☆☆
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▽=☆

トランス

2013年11月17日 19時38分29秒 | 洋画2013年

 ◎トランス(2013年 アメリカ、イギリス 101分)

 原題 Trance

 staff 監督/ダニー・ボイル 脚本/ジョー・アハーン ジョン・ホッジ

     撮影/アンソニー・ドッド・マントル 美術/マーク・ティルデスリー

     衣裳・スタイリスト/スティラット・ラーラーブ 音楽/リック・スミス

 cast ジェームズ・マカヴォイ ロザリオ・ドーソン ヴァンサン・カッセル

 

 ◎魔女たちの飛翔

 陰毛のない絵画が好みっていう理由はいったいなんだったんだろう?

 単なるジェームズ・マカヴォイ演じる競売人の趣味ってわけでもないだろうに。

 もちろん、伏線になってるのはそのとおりで、

 精神療法士ロザリオ・ドーソンが陰毛を剃っているのはなんで?

 って観客に謎かけをするところでは十分に活きてる。

 このことで、

「あ、このふたり、初対面じゃなく、ほんとは前に関係があったんじゃない?」

 とかって察することのできる観客がどれだけいるのかわからないけど、

 中盤、実は、ジェームズ・マカヴォイがとんでもないギャンブル依存症で、

 その借金のためにゴヤの傑作『魔女たちの飛翔』を盗み出そうとしてるんだけど、

 さらに実は、マカヴォイはロザリオ・ドーソンの以前の恋人で、

 DVに苦しめられてたロザリオによって記憶を操作されてて、

 でも、失われた記憶の中でかすかに自分の顔だけ覚えてるように仕組まれ、

 自分の前にふたたび現れるように催眠を受けてたってなことがわかってくるにつれ、

 なるほど、陰毛はそういう伏線だったのかってわかる仕組みになってる。

 このあたり、複雑だよね。

 ただ、ほんとはゴヤの『裸のマハ』を競売にかけたかったんじゃないかと。

 だって、はじめて女性の陰毛が描かれた作品なんでしょ?

 もちろん『魔女たちの飛翔』は、魔女に翻弄される男たちが描かれてるわけで、

 物語そのままの見立てになってるのは、なんともいい。

 多少、偶然性に頼ったご都合主義が見えなくもないけど、

 物語に疾走感がある分、そういうのは気にならない。

 二重三重にどんでんが仕組まれてるのは、いいわ。

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タクシードライバー

2013年11月16日 19時09分26秒 | 洋画1971~1980年

 ◎タクシードライバー(1976年 アメリカ 114分)

 原題 Taxi Driver

 staff 監督/マーティン・スコセッシ

     脚本/ポール・シュレイダー 台詞/ケイ・チャピン

     撮影/マイケル・チャップマン 美術/チャールズ・ローゼン

     衣裳/ルース・モーリー 編集/トム・ロルフ

     編集監修/マーシア・ルーカス スティーヴン・スピルバーグ

     特殊効果/トニー・パーミリー 特殊メイク/ディック・スミス

     音楽/バーナード・ハーマン サックス演奏/トム・スコット

 cast ロバート・デ・ニーロ シビル・シェパード ジョディ・フォスター ハーヴェイ・カイテル

 

 ◎You talkin' to me?

 この名作について、いまさら、なにを書こうっていうんだ?

 てなカッコつけはしても仕方ないんだけど、とにかく簡単なメモを。

 大学1年の夏、池袋の文芸坐で観たとき、あまり衝撃は受けなかった。

 でも、その年の秋、ぼくはアーミージャケットを購入して、

 それからというもの、卒業しても何着か買い替えて着続けたのは何だったんだろう。

 社会の汚物という汚物が坩堝となって沈殿した、はきだめのニューヨークで、

 デ・ニーロは、タクシードライバーになっている。

 たぶん、ベトナムから帰還して心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苛まれている。

 かれにとってアメリカを構成しているものは汚辱に塗れた悪ばかりで、

 かといって自分は、守銭奴のように金だけを頼りにするしか能がなくなってる。

 どうしようもない閉塞感と孤独と絶望の向かう先は、悪を極端に憎悪する激情だ。

 それは自分をふった女であり、女の務める選挙事務所の立候補者であり、

 家出してきた13歳の少女に売春をさせるポン引き連中であったりする。

 デ・ニーロにとって、それらは憎むべき対象であり、一掃する汚物でもある。

 かれにとっての悲劇と幸運は、戦争で銃の腕前が培われたことで、

 結果、ポン引きどもとの銃撃戦に勝利するんだけど、

 だからといって、自己を解放することなんかできず、自己抹殺の願望も消えない。

 ベトナムの密林のような都会の中でまた生きていかなくちゃいけない。

 自分だけじゃなくアメリカそのものが癒されるまで、ハンドルを握り続けるしかない。

 ってなことを当時も今も漠然とおもってきたけど、

 こうしたデ・ニーロの抱えている閉塞感も孤独感も絶望感も、ぼくにはよくわかる。

 ただ、ぼくには、ベトナム戦争の体験もなければ、

 暴発するほどの憎悪と正義感もなければ、行動力もない。

 ってことは、デ・ニーロほど打ちのめされてはいないってことになるのかな~。

 映画の感想は十人十色で、

 ことに、名作と呼ばれて語り継がれていく作品ほど、

 受け止める人間のそのときの環境と精神構造によってかなり異なってくる。

 大学時代からほとんど変化のないぼくは、いつまでも同じところにいるんだけど、

 普通はそうじゃない。

 まあ、ときどき、おもいだしたように観て、別な感想を抱けば、

 自分に変化が訪れたってことになるのかもしれないね。

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あしたの私のつくり方

2013年11月15日 19時35分18秒 | 邦画2007年

 ◇あしたの私のつくり方(2007年 日本 97分)

 staff 原作/真戸香『あしたの私のつくり方』

     監督/市川準 脚本/細谷まどか 撮影/鈴木一博

     美術/山口修 衣裳/宮本まさ江 ヘアメイク/細倉明日歌

     音楽/佐々木友理 主題歌/シュノーケル『天気予報』

 cast 成海璃子 前田敦子 石原真理子 石原良純 高岡蒼佑 柄本時生 奥貫薫

 

 ◇涼月譜とはなんぞや

 主演の成海璃子の上手さはもはやいうまでもないことだけど、

 この映画で注目すべきは、

 映画デビューの前田敦子のヘアメイクを担当した細倉明日歌ではないか?

 だって、彼女たちが小学校6年生のときの雰囲気、上手に作ってあるんだもん。

 調布の日活撮影所の裏手、多摩川の土手あたりで撮影された場面も、

 小学校のクラスの中でも、図書館の中でも、とくに前田敦子のメイクは上手だった。

 彼女たちが中学生になり、高校生になっていく過程で、

 成海璃子はたしかにこれみよがしなヘアスタイルを作れるんだけど、

 ショートヘアの前田敦子はそうはいかない。

 髪型だけでなく、メイクもさぞかし苦労したんじゃないかって想像するんだよね。

 まあ、いい子でいなくちゃいけない子っていうのは、

 いつの時代のどこの地方でもいるわけで、

 とくに、田舎に行くと、この映画みたいな僻みや嫉妬や陰口は大変なものだ。

 そういうときに、

 無責任とはいわないが大人がふと口をすべらすことで悲劇が生まれる。

 教師も親も、子供をしつけ、かつ教育する立場にありながら、

 ときとして自分勝手なふるまいをしたり、好き勝手な生き方を子供におしつける。

 子供は、そういう親の子であることを運命として受け止めざるを得ず、

 そこで自分なりに生き方を考え、学校生活を送っていかなくちゃいけない。

 そういう片鱗が見え隠れしているのは、昔の日活児童映画にもあった。

 ま、もうすこしわざとらしかったから、市川準のような淡白さはない。

 いじめられていた前田敦子が、まるで夜逃げのように引っ越した後、

 成海璃子が「コトリ」という匿名で、前田敦子にメールを送り、

 どうやったら新しい学校でみんなに嫌われずに打ち解けられるか、

 さらには人気者になり、愉しい恋もできるようになるのか、

 つまり、マニュアルを伝えていきつつ、それを小説化していくんだけど、

 最初はぶしつけでおしつけられたようなメールに対して、

 徐々に依存していく前田敦子も心理もさることながら、

 ほんとの自分は嫌われないようにびくびくしているだけの存在なのに、

 なんでもわかったような感じで前田敦子にメールを送り、

 そうした日々を小説化したことで、

 自分がいじめの対象になりそうになってしまう成海璃子の心情はよくわかる。

 画面を割ったり、メールをアップにしたりする演出を、

 煩瑣と捉えるか斬新と受け止めるかは意見のあるところだろうけれど、

 ぼくはたいしたひっかかりもなく、すっきり入ってきた。

 ま、画面の作りはさておき、

 ふたりの少女の依存し依存され、やがて意識を共有してゆく過程は、

 どちらも友達がいなくて、たがいに依存しなければ辛すぎる立場にあるとはいえ、

 その関係はきわめて危なっかしい。

 成海璃子が匿名の教授でありながら、その秘密を赤裸々に小説にするというのは、

 おそろしいほどに危険な爆弾で、

 これが世間にばれ、やがて前田敦子に知れてしまったとき、

 ふたりの関係は一気に破綻し、前田敦子は以前よりもひどいイジメを受けたと感じ、

 成海璃子は善意で行った筈の行為が軽はずみな行為だったことを痛烈に恥じ、

 どうしようもない心の奈落の底まで落ちて行くことになるのは目に見えている。

 こりゃ大変な筋立てになってないか?とおもいながら観ていると、

 そこはやはり市川準で、なんともあっさりしたものだ。

 小説を掲載した文芸誌はなんの問題もなく発行されてしまうし、

 それを送られた前田敦子もなんの心の揺れもなく、机の上に並べてしまう。

 さらには、

 まあ、これは卒業式の図書館のふたりという伏線があるから自明のことなんだけど、

 前田敦子は、

 メールを送りつけてきたのが成海璃子だってことはすぐに勘付いていたみたいで、

 おしつけられた「ヒナ」という生き方ではなく、自分なりの生き方を模索するようになり、

 成海璃子は、

 メールに書いてきた「ヒナ」という少女の生き方は、

 結局のところ、自分にはできない自分の理想とする生き方だったってことを自覚し、

 前田敦子からとうとう連絡があったとき、

 自分がいかに生きたいように生きていないかという心情を吐露することで、

 なにもかもが丸く収まり、ふたりはようやく親友になれるような予感を得るという、

 なんとも、ある意味ではどんでん返しともいえるハッピーエンドが待ってる。

 こういう穏やかさが、市川準なんだろう。

 ぼくの心配してた爆弾は、ひとつも爆発せずに不発弾のまま埋められた。

 ただまあ、気になるところがないわけでもない。

 やけにリアルな担任の先生がホームルームで説明する「涼月譜」なんだけど、

 恒例のマスゲームっていわれても、これが全体像が見えなくて、

 どんなことをしてるのかわからないんだよ~。

 ラストカットの後の話だからわからなくてもいいんだけど、気になりますわな。

 気になったのは、もうひとつある。

 成海璃子が別れた父親石原良純と兄柄本時生と、

 いつもどおりの焼肉を食べる場面で、時生の席が気になって仕方がない。

 かれは左利きだから、自分の左となりには人間を置きたくないはずで、

 にもかかわらず、そこには父親が腰かけてる。

 当然、父親の右手と兄の左手がぶつかり、焼肉がとりづらくなるはずだ。

 なるほど、こういう配慮のなさが離婚の原因だったのか~ともおもえるんだけど、

 だったら、息子が席を代わってというはずじゃないかな~ともおもったりした。

 演技の上手い下手はあんまりいいたくないけど、

 主役ふたりがよくがんばってるのに比べ、うん、ちょっとまずい子もいたかな。

 ただまあ、こうした起伏があるようでなく、

 主人公に恋の話がまるで絡まないのに恋愛のアドバイスをするという、

 なんだか奇妙な筋立てになってしまっている話が、

 恋愛ばかりに興味のいっている子供たちにどんなふうに受け止められたのか、

 ぼくにはよくわからない。

 だからってわけじゃないけど、

 親が望んでる好い子を演じなければいけない子供の気持ちをわからない親は、

 この映画を観たとき、どんな感想を抱くんだろな~と。

 ていうことからすれば、もしかしたら、この作品は、

 思春期にさしかかった、あるいは思春期にある子供を持った親に向けた、

 参考資料みたいなものかもしれないね。

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フローズン・タイム

2013年11月14日 02時36分57秒 | 洋画2006年

 ◇フローズン・タイム(2006年 イギリス 102分)

 原題 Cash Back

 staff 監督・脚本/ショーン・エリス

     製作/ショーン・エリス レネ・バウセガー 撮影/アンガス・ハドソン

     美術/モーガン・ケネディ 衣装デザイン/ヴィッキー・ラッセル

     メイクアップ/ルイーザ・マレー 音楽/ガイ・ファーレイ

 cast ショーン・ビガースタッフ エミリア・フォックス ショーン・エヴァンス

 

 ◇時間よ止まれ

 誰もが憧れる能力は、なんといっても時間を止めてしまうことだ。

 ショーン・ビガースタッフの役どころは美大生だから、

 失恋の痛手があまりにも辛すぎて、

 突然、時間を止められるようになったとき、

 アルバイトしているスーパーの客の中から綺麗な女性を選び出し、

 彼女たちを脱がせてデッサンをしていくわけだけど、

 まあ、人はそれぞれだから、

 時間を止めたときになにをするかはその人の趣味によって違う。

 けど、そのあたりが、いかにも写真家の監督の趣味だよね。

 筋立てはありきたりな恋物語ではあるけれど、

 どうしてもその画面の美しさに目がいく。

 ことに映画の中でゆいいつCGを使用したっていう佳境の雪の場面は、

 そりゃもう、美しかった。

 この場面を観るためにえんえんと映画を観たようなもので、

 それよりも、たった4日間で撮影したっていうスーパーの場面を、

 いったいどうやって撮影したんだろうってことに興味がいく。

 CGを使ってないとしたら、

 スチールで「フローズンタイム」を作るように、

 髪の毛から衣装にいたるまで、

 時が止まったように作り込まなくちゃいけないわけで、

 その作業の大変さは、想像するだにため息が出る。

 演出に感心するっていうより、撮影現場の大変さに感心するわ~。

 ただ、この映画の無修正版がやけに注目されてるみたいだけど、

 どういうわけか、そっちの方には興味がいかなかったんだよね。

 自分ながら、ちょっと不思議だ。

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クレイマー、クレイマー

2013年11月13日 12時16分43秒 | 洋画1971~1980年

 ◎クレイマー、クレイマー(1979年 アメリカ 105分)

 原題 Kramer vs. Kramer

 staff 原作/アヴェリー・コーマン『Kramer vs. Kramer』

     監督・脚本/ロバート・ベントン 撮影/ネストール・アルメンドロス

     美術/ポール・シルバート 衣装デザイン/ルース・モーリー

     音楽/ヘンリー・パーセル アントニオ・ヴィヴァルディ

 cast ダスティン・ホフマン メリル・ストリープ ジェーン・アレクサンダー

 

 ◎離婚と親権

 自立を求めて家を出て行く情緒不安定な妻と、

 仕事優先で短気で感情的な夫が8年も一緒に暮らせば、

 当然、小さなことから大きなことまでいさかいがたえなくなるだろう。

 70年代くらいからアメリカの深刻な問題になってきたのは、離婚と親権だ。

 けど、もともと離婚して親権を争う人達は、

 夫も妻も、両方ともかなりきつい性格なんじゃないかっておもってきた。

 きついっていうか、わがままっていうか、ともかく自分大好きな人達だ。

 ぼくはかなり古びた日本人なものだから、

 どうも簡単に離婚してしまう風潮は好きではないんだけど、

 ことにこの映画の、

 メリル・ストリープの身勝手さと、

 ダスティン・ホフマンの無理解さには、

 無性に腹が立つ。ていうか、腹が立った。

 といっても大学に入学した頃の話だけどね。

 けど、同時に、

 メリル・ストリープのどうしようもない母性の寂しさと、

 ダスティン・ホフマンの生来持っていたであろう父性の優しさもまた、

 ちょっぴりわからないでもなかった。

 で、35年も経ってしまった今、あらためて観直しても、

 似たようなことを考えてる。

 人間ってのは、どれだけ年を食っても、あんまり変わらないんだな~、

 てなことをしみじみと感じたんだけど、

 この映画でいちばん人間的だとおもうのは、

 ダスティン・ホフマンが彼女をアパートに連れ込んでくる件だ。

 夜中、トイレに立った息子と、まっぱだかの彼女が鉢合わせるんだけど、

 こういう離婚と親権を真正面から扱った映画でも、

 人間の本能っていうか、性欲の面に関して、

 オブラートに包むような表現はしていなくて、

 父親になっても新しい彼女とはセックスをするんだっていう、

 ひとりの人間として描かれてて、

 息子と対峙するときも、

 父と子でありながら、男と男のつきあいなんだという面も伝わってくる。

 それは、ときとして、どちらが少年でどちらが大人なのかという点についても、

 ときに健気に、ときに憂鬱に、ときに感情的に描くのは大変で、

 どれだけダスティン・ホフマンの意見が脚本に反映されてるか知らないけど、

 どうやらこのあたりから、

 ダスティン・ホフマンは製作する側に興味があったのかもね。

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フッテージ

2013年11月12日 00時09分43秒 | 洋画2012年

 ◇フッテージ(2012年 アメリカ 110分)

 原題 SINISTER

 staff 製作総指揮・監督・脚本/スコット・デリクソン

     脚本/C・ロバート・カーギル 撮影/クリストファー・ノア

     美術/デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン/アビー・オサリヴァン

     音楽/クリストファー・ヤング

 cast イーサン・ホーク ジェームズ・ランソン ヴィンセント・ドノフリオ

 

 ◇8ミリ物のホラー

 イーサン・ホークって、西村友彦に似てない?

 とかっておもってるのはぼくだけかもしれないけど、

 そんなことは、この映画とはなんの関係もない。

 8ミリの持っている要素のひとつは、なんといっても手軽さだ。

 同時に、こんなにちゃちいものでも、いちおうフィルムだっていう自負だ。

 さらにいえば、なんでか知らないけど、8ミリはふしぎな夢感覚がある。

 もっとも身近な存在だったかもしれない。

 その昔、ブルーフィルムは8ミリだった。

 だから、謎の8ミリフィルムとくれば、これはもうイカガワシイものに違いない。

 てなことから、8ミリに何かが映ってた、という手出しはとっても好きだし、

 その8ミリを観てしまったがために死にそうな窮地に追い込まれる、

 っていう展開は、どんなものを何度観てもぞくぞくする。

 そこへもって、引っ越し先の古い屋敷の天井裏に、

「Pool Party '66」「BBQ '79」「Lawn Work '86」

「Sleepy Time '98」「Family Hanging Out '11」

 とかいうタイトルの8ミリフィルムがあったりしたら、

 こりゃもう、

「愉しそうな題名とは裏腹のとてつもなくイカガワシイものがあるにちがいない」

 ってことになるだろうし、

 それがもとで大変な目に遭うんだろな~っていう想像はつく。

 すべてがお決まりどおりの展開で、

 ホラーかサスペンスかってのは味付けだけで、要はおんなじだ。

 この映画の場合、宗教的儀式による殺人らしく、

 血で描かれた記号は、

「バビロニア王朝で行われていた邪教崇拝に通じる」

 とかって設定になってるんだけど、あまりにも遠すぎて、ちょっと興醒めする。

 でもまあ、10年前にヒットを飛ばしただけの売れない作家っていう、

 ハリウッドが大好きな設定は、事件に溺れる人間には最適なものだし、

 全体的に小品ながら、つくりは悪くなかった。

 ちなみに、原題のSINISTERってのは「不吉な」とかいう意味なんだけど、

 邦題のフッテージってのは「素材」って意味だ。

 でも、撮影して編集してない素材を「ストック・フッテージ」っていうのは、

 一般人にはなかなか馴染みがないから、

 どちらの題名も、ちょっと、ね。

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ミシシッピー・バーニング

2013年11月11日 02時24分51秒 | 洋画1981~1990年

 ◎ミシシッピー・バーニング(1988年 アメリカ 128分)

 原題 Mississippi Burning

 staff 監督/アラン・パーカー 脚本/クリス・ジェロルモ

     撮影/ピーター・ビジウ 美術/フィリップ・ハリソン ジェフリー・カークランド

     衣装/オード・ブロンソン・ハワード 音楽/トレヴァー・ジョーンズ

 cast ジーン・ハックマン ウィレム・デフォー フランシス・マクドーマンド ケヴィン・ダン

 

 ◎1964年「Freedom Summer」

 どこの国にも差別はある。

 ただ、肌の色は民族の違いがありありとわかってしまうため、

 なによりも明確に差別の対象となる。

 欧米諸国のほとんどが経験したものだけど、

 なかでも、このアメリカ南部のミシシッピ州は、

 強烈な白人至上主義を持っていた場所のひとつだ。

 1964年6月21日、

 フィラデルフィアの郊外において、3人の公民権運動家が惨殺された。

 黒人の左官ジェムズ・チェイニー、

 ユダヤ人ボランティアの大学生アンドリュー・グッドマン、

 社会労務士マイケル・シュワーナーの3名で、

 犯人の中にはネショバ郡保安官の部局の一員までいた。

 ジョンソン大統領はジョン・エドガー・フーバーに対してFBIの出動を要請、

 8月4日、捜査員たちは、土盛ダムで運動家の死体を発見した。

 さらに別な黒人の死体も、捜査のかたわら、発見され続けた。

 この事実について、

 アラン・パーカーは現場をミシシッピ州ジュサップ郊外に移し、

 3人の公民権運動家が何者かによって惨殺されたことで、

 FBI捜査官のジーン・ハックマンとウィレム・デフォーが捜査に乗り出し、

 やがて差別主義者たちK.K.K.とFBIの全面的な対決となっていく話を作った。

 あまりにも凶暴な要素を包含した映像になった。

 さすが、アラン・パーカーっていうべきなんだろう。

 この映画が封切られた頃、

 アラン・パーカーの強烈さは頂点に達してた観がある。

 切れ味のするどいカッティングとボルテージの高い人物像は、

 たぶん、アラン・パーカーの好むところで、

 そういう激情に包まれた捜査官を、ふたりの役者がうまく演じてる。

 ただ、実際にミシシッピ州において勃発した事件は、

 どうやらFBIの大々的な出動は観られなかったとか、

 この時代に黒人の捜査官は存在しないとか、

 いわゆる辛口の批評はある。

 あるけど、そういう批評はちょっと的外れな気がするんだよね。

 映画作品ってのは、監督の心象風景を銀幕に映したもので、

 なにもかも事実どおりに作れるはずがない。

 いや、そもそもドキュメンタリだって、演出と編集で180度ちがった物ができる。

 映像にせよ、文章にせよ、

 ほんとうのノンフィクションがどれだけあるのかは疑問だし、

 この作品はあくまで実録物の雰囲気を湛えたエンターテイメントなんだから、

 ぼくらは、ミシシッピーの抱えてきた問題の端を垣間見て、

 アラン・パーカーの怒りようが感じられれば、

 それでいいんじゃないかしら。

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腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

2013年11月10日 18時39分48秒 | 邦画2007年

 ◎腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(2007年 日本 112分)

 staff 原作/本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

     監督・脚本/吉田大八

     撮影/阿藤正一 尾澤篤史 美術/原田恭明

     ヘアメイク/佐藤光栄 スタイリスト/藤井牧子 大西博之 呪みちる 赤塚明

     音楽/鈴木惣一朗 主題歌/チャットモンチー『世界が終わる夜に』

 cast 佐藤江梨子 佐津川愛美 永作博美 永瀬正敏 山本浩司 土佐信道 上田耕一

 

 ◎トラウマからの脱皮

 ありきたりでない題名の爆裂度が、

 果たして内容にそぐわしいものかどうかは観る人が判断することだけど、

 なんとも凶暴に崩壊してゆく家族のおりなす物語が、

 隠々滅々とした結末に落ち込んでゆきかねない以上、

 こうした過剰な題名によって、吹き飛ばされる痛快さが孕んでいる、

 ような、気がする。

 ま、それは、ぼくの単なる印象なんだけどね。

 主題をなんとか受けとめようとおもいつつも、

 原作者の本谷有希子が怨念を籠めて綴っているのかどうかで違うし、

 監督の吉田大八がどんなふうに自分なりの主題を見出したかによっても違うから、

 なんともいいにくいものの、

 トラウマからの脱皮をめざそうとする連中が、

 本来、癒しの空間であるはずの家庭という名の共同体を潰滅させてゆく中で、

 夫は斃れ、妻は残り、妹は旅立ち、姉は変わらないという、

 それぞれの結果に至るんだけど、

 妹のモデルが原作者であるとしたら、

 普遍的な主題である旅立ちを、

 なんとも歪な形で描いたものと受け止めるのがいいのかもしれない。

 だから、本来、語り部となるのは妹で、

 すべては妹の視点から描かれているはずなんだけど、

 姉の暴走ぶりが強烈なため、ついつい、姉の物語のように勘違いしてしまう。

 このあたりは難しいよね。

 でも、こういう世界は決して特異な世界ではなくて、

 この国の田舎に行けば、こういわれちゃうかもしれない。

「そんなもん、大なり小なり、そこらじゅうにあるがや」

 ただ、ここまで大仰な設定と展開はないにせよ、

 カリカチュアされている分を差し引けば、たしかに「あるある」と頷ける。

 田舎の抱えているのは、都会に対する引け目と僻みで、

 そういう自虐的な感情がはらわたの中でとぐろを巻いているもんだから、

 この姉の場合、

 女優になりたいけど、なれるような才能なんか本当はないんだと自覚している分、

 その真実に負けちゃったら自分の居場所がなくなっちゃうという崖っぷちに立ち、

 必死にもがけばもがくほど、それは家族に対する、

 中でもいちばん弱い者であり、

 かつ、ただひとり、自分と血の繋がっている者、

 つまり妹に対する罵倒とイジメに繋がっていく。

 これは誰もが持っている不安感で、もちろん、ぼくにもある。

 だから、観ていて、痛々しくもなる。

 夫の場合、

 都会に対する憧れみたいなものはないかわりに、

 因習に囚われた田舎で生きていかなくちゃいけないっていう、

 どうしようもない束縛感だけは抱えてて、

 そこへもって、たまさか家族という名の共同体に紛れ込んできた、

 スタイル抜群で、なんとも男好きのする顔をした、

 自分のことが大好きで、自分の武器は肉体しかないってことを、

 本能的に承知している勘違い高慢ふとどきアホたれ女の処女を奪ってしまったために、

 田舎の束縛に加えて、義理の妹にして愛人の呪縛によって、

 がんじがらめになってしまってるんだけど、

 これが本来あたりまえの妻とセックスするという行為によって破綻をきたし、

 さらには唯一、自分のことを尊敬してくれている妹に目撃されていたと知った瞬間、

 なにもかもを放り出そうとはせず、なにもかもを抱えて死を選ぶまでに追い込まれる。

 でも、こういう原罪みたいなものは多かれ少なかれ、誰もが抱えている。

 だから、観ていて、身につまされる。

 妻の場合、

 一般的にとある家に嫁いでくれば、自分以外は当然他人しかいないわけで、

 そこで孤独に苛まれて、その孤独をまぎらわすためには、

 さらには、家族の一員となるためには、

 終始笑顔でいなくちゃいけないのは当たり前ながら、彼女はちょっと違ってて、

 新橋のコインロッカーの中から拾われ、孤児院で育ち、缶詰工場に就職し、

 結婚相談所によってようやく人と人とが対話できる家庭という絆を見つけたんだけど、

 でも、そこにいたるまでにあまりにも孤独な箱の中にいたため、

 本人でも気づかない仮面を被るしかない生活に追い込まれ、

 さらに、

 夫という存在は得たものの、いつまでも処女のまま過ごさなければならないっていう、

 なんとも悲惨な境遇に据えられてもなお、

 自分が生きてゆくためには、健気さだけを頼りにしなくちゃいけないものだから、

 当然、その発露になるものが必要になるわけで、

 それが自分のほんとうの顔だってことを気づかず、

 無意識のまま、愛らしい化け物の人形を作ってる。

 こういう彼女の爆発点が夫をなかばレイプするように初体験に至るのは、

 いやまあ、よくわかるとはいえないけど、そうなんだろな~とおもえちゃう。

 妹の場合、

 もともとまともな思考の持ち主だったはずが、

 暴走トラックによって両親が轢殺されてばらばらになるのを目撃したとき、

 こんなおもしろい映像があるんだろうかっていう思考もまた持っていたことを自覚し、

 かつて、

 その片鱗だった姉の同級生への売春行為をおもしろいと漫画化したことは、

 将来、自分の才能を活かせる唯一の道だと悟ったことから、

 姉と兄と義姉の生活を取材し始めてしまうという歪な性格に変わり、

 やがて、自分を徹底的に虐めていた姉と映画監督との文通を、

 郵便局でバイトすることによって阻害して叩き潰すという復讐を演じた上で、

 ようやく巡ってきた機会に縋るようにして、家族を捨てて上京するんだけど、

 誇張された表現を削り落としてしまえば、

 田舎を捨てて上京した者の心の底に共通する何かが感じられる。

 それは、そう、傑作『祭りの準備』を観ているような錯覚すら覚える。

 いや、そもそも、

 タイトルバックの陽炎にゆれる鉄道はまさに『祭りの準備』だった。

 ただ、監督の手紙を妹が代筆して、

 姉の喜ぶさまを観て嘲笑っていたかどうかは、わからない。

 監督の顔がぱっくりと割れて妹の顔が登場するのは、

 化けの皮が剥がれたということの暗示なのかどうか、

 これは吉田大八に訊いてみたいものだけど、考え過ぎだと嗤われちゃうかしら?

 まあ、そんなこんな、いろいろと考えさせられる映画だったことは間違いなくて、

 これが長編の処女作だとはおもえないほど、

 淡白な映像でさらりと物語を展開させていく演出は、

 いや、ほんとにたいしたもんだな~と。

コメント

エンド・オブ・ウォッチ

2013年11月09日 12時50分31秒 | 洋画2013年

 ◎エンド・オブ・ウォッチ(2013年 アメリカ 109分)

 原題 End of Watch

 staff 監督・脚本/デビッド・エアー

     撮影/ロマン・バシャノフ 美術/デボラ・ハーバード

     衣装/メアリー・クレア・ハンナン 音楽/デビッド・サーディ

 cast ジェイク・ギレンホール マイケル・ペーニャ ナタリー・マルティネス アナ・ケンドリック

 

 ◎追跡、ロス市警24時間

 みたいな内容なんだけど、

 さすがにジェイク・ギレンホールたちは、

 5か月間も警察で実地訓練しただけあって、

 巡回する警官たちの怠惰さやいい加減さから、

 突入したり銃撃戦におよんだりと逮捕場面の緊張感と凄まじさは、

 けっこうリアルだった。

 同僚たちがぼろ袋のようにぼろくそに殴られて半死半生に合わされたり、

 自分も同僚も銃撃によって重傷や殉死に追い込まれたりと、

 リアルさにどれだけ拘れるかってのが主眼に置かれている分、

 観ている途中から観終わった後にいたるまでの満足感はかなり高い。

 ジェイク・ギレンホールがビデオマニアっていう設定になってるのか、

 デジタルカメラを肌身離さず抱えているのが味噌で、

 それが高じて自分たちの身体に小型カメラを装着して撮影し、

 その映像でもって場面が作られていたりするもんだから、

 実をいうと、最初のあたりは車酔いしたような感覚になり、

 ちょっとばかし気持ちが悪くなったりもしたんだけど、

 それがかえってリアルな印象を持てたような気もしないではない。

 個人的には、

 アナ・ケンドリックのちょっとおばかだけどスタイルもいいし、

 純粋で可愛いだけだったのが少しずつ警官の妻になっていくさまがお気に入りだ。

 ロサンゼルスという名前はもともとスペインの地名だったものなんだけど、

 そこへこのところ黒人ばかりかヒスパニックも移入してきて、

 もはや人種のるつぼっていうより、この両者の角逐場みたいになってる。

 どうしようもないチンピラやギャングはもとより、

 警官も、さらには警官の妻子や一族までも多人種が混淆している。

 そういう民族間の紛争や軋轢がこの町には充満してて、

 アナ・ケンドリックはのんびりぽかんとしてる独身時代から、

 警官の妻になり、その子を出産していくことで、

 この町と人間について見つめ、おとなになっていくわけだけど、

 単なる「潜入、ロス市警」的な番組と違うのは、そういうところだ。

 ジェイク・ギレンホールはぼくは意外に好きなんだけど、

 これまでの好青年とは打って変わった荒々しさが、

 これまた意外に好かったりしたわ。

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宮本武蔵 巌流島の決斗

2013年11月08日 19時11分28秒 | 邦画1961~1970年

 ◇宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年 日本 121分)

 staff 原作/吉川英治『宮本武蔵』

     監督/内田吐夢 脚色/内田吐夢 鈴木尚之

     企画/岡田茂 小川三喜雄 翁長孝雄

     撮影/吉田貞次 美術/鈴木孝俊 進行主任/福井良春

     助監督/鎌田房夫 杉野清史 大串敬介 音楽/小杉太一郎

 cast 萬屋錦之介 入江若葉 高倉健 里見浩太郎 木村功 三國連太郎 片岡千惠藏

 

 ◇太秦の総力戦

 巌流島の殺陣は、編集が見事だった。

 健さんが敵役に徹してたのもさることながら、

 企画の人達も豪華ながら役者陣の豪華さはどうだろう。

 ま、5部作の最後の作品なんだから、ちからが入るのは当たり前なんだろうけど、

 こうして見てくると、吐夢さんと錦之助さんのほかでは、

 翁長さんがいちばん長くこの作品につきあったんじゃないかしら。

 助監督も野波静雄さんが抜けて一新されてるし、

 なんだか、あれだね、

 東映の中ではこの後しばらく「おれ、武蔵やったんだぜ」ってな話が、

 ところどころでなされたんだろうか?

 中村錦之助というある意味不世出ともいえる役者さんは、

 求道的な役柄の似合う人で、

 自分をどこまでも追い込んで、狂気に近いような昂ぶりを見せるけど、

 そういうことでいえば、武蔵はやっぱりこの人がいちばん似合ってる。

 まあ、こういう作品を作ることができたっていうだけでも、

 当時の東映の凄さがわかる気がするわ。

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宮本武蔵 一乗寺の決斗

2013年11月07日 18時52分38秒 | 邦画1961~1970年

 ◇宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年 日本 128分)

 staff 原作/吉川英治『宮本武蔵』

     監督/内田吐夢 脚色/内田吐夢 鈴木尚之

     企画/辻野公博 小川貴也 翁長孝雄

     撮影/吉田貞次 美術/鈴木孝俊 進行主任/神先頌尚

     助監督/鎌田房夫 篠塚正秀 野波静雄 菅孝之 音楽/小杉太一郎

 cast 中村錦之助 入江若葉 高倉健 平幹二朗 木村功 丘さとみ 千田是也

 

 ◇5部作中、最高の殺陣

 一乗寺下り松の決闘は、凄い。

 大学の頃、何度、観直したことだろう。

 内田吐夢の迫力ってのはこういうものなのかって唸ったもんだ。

 水田のぬかるみに足を取られちゃうから畳を敷いたって話は、

 いつ教えてもらったのか憶えてないんだけど、

 へ~映画ってのはそうやって撮るんだね~って感心したことはよく憶えてる。

 ちなみに、

 この第4部でいちばん大きな変更は、助監督だ。

 それまでの3作品のチーフ助監督は山下耕作だった。

 でも、山下耕作は1961年の段階で『若殿千両肌』で処女作を撮ってるし、

 なんといってもこの年『関の弥太っぺ』を撮らなくちゃいけなかった。

 いつまでも助監督で置いとくわけにはいかないよね。

 進行主任は植木良作や片岡照七などから次々に変わったけど、

 この一連の面々を見てると、

 なんだか『宮本武蔵』の5部作は、若手の修業の場みたいにおもえてくる。

 ただ、

 どうしても錦之助の武蔵映画っていう印象で観始めちゃうもんだから、

 佐々木小次郎の場面になるとテンションが下がる。

 健さんの小次郎に違和感があるからじゃなくて、映画の緊張感が違うんだよね。

 中村錦之助の芝居は、凄まじい緊張感があって、これは他の追随を許さない。

 それはもしかしたらスタッフにも伝わっていたんじゃないかっておもうくらいで、

 現場に緊張感の漲っている場面は、それが画面にも出てくるんじゃないかしら?

 そんな気にさせる第4部だったわ。

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宮本武蔵 二刀流開眼

2013年11月06日 18時24分02秒 | 邦画1961~1970年

 ◇宮本武蔵 二刀流開眼(1963年 日本 104分)

 英題 The Worthless Duel-Miyamoto Musashi Part 3

 staff 原作/吉川英治『宮本武蔵』

     監督/内田吐夢 脚色/内田吐夢 鈴木尚之

     企画/辻野公博 小川貴也 翁長孝雄

     撮影/吉田貞次 美術/鈴木孝俊 進行主任/片岡照七

     助監督/山下耕作 篠塚正秀 野波静雄 音楽/小杉太一郎

 cast 中村錦之助 入江若葉 高倉健 平幹二朗 木村功 木暮実千代 丘さとみ

 

 ◇敵役、高倉健

 健さんの佐々木小次郎ってのは、なんとなく違和感がある。

 だって、どちらかといえば小次郎って青二才的な雰囲気あるじゃん?

 健さんだと強すぎる印象だし、嫌味なところが見えてこなかったりするんだよね。

 でもまあ、当時の健さんは二枚目だったってことなんだろうか?

 この5部作を初めて観たのは、大学のときだった。

 すげえな、内田吐夢、とかおもって一所懸命に観てたんだけど、

 そのときから、どうにも健さんだけは違和感があった。

 でもまあ、物語はここでようやく展開し始める。

 全体を展望すれば、

 吉岡一門は佐々木小次郎との対決に向かう前座のようなものになるんだけど、

 ふしぎなことに、

 この5部作だと、武蔵と吉岡一門の軋轢と衝突にいちばん裂かれてる、

 ような気がする。

 伏線の張られ方が、武蔵の行動と裏表になってるからもしれないね。

 ま、それはともかく、

 スタッフは第2部とほとんど変わらないんだけど、

 カメラマンだけ、変更されてる。

 当時の太秦の忙しさを想像すれば、もう順番に部署するしかなかったんだろう。

 プログラムピクチャーの時代をおもわせるよね。

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宮本武蔵 般若坂の決斗

2013年11月05日 17時52分43秒 | 邦画1961~1970年

 ◇宮本武蔵 般若坂の決斗(1962年 日本 106分)

 英題 Miyamoto Musashi Part2-Duel without End

 staff 原作/吉川英治『宮本武蔵』

     監督/内田吐夢 脚色/内田吐夢 鈴木尚之

     企画/辻野公博 小川貴也 翁長孝雄

     撮影/坪井誠 美術/鈴木孝俊 進行主任/神先頌尚

     助監督/山下耕作 鳥居元宏 加藤彰 音楽/小杉太一郎     

 cast 中村錦之助 入江若葉 木村功 三國連太郎 木暮実千代 丘さとみ 月形龍之介

 

 ◇新人プロデューサー翁長孝雄

 この大作『宮本武蔵』の5部作は、

 じっくりと見れば、第2部から第5部までが一連の作品になっていることに気づく。

 第1部はもしも当たらなかった場合も考慮に入れられたのか、

 以降の4部に対しての伏線らしいものは観られない。

 つまり、第1部は武蔵の青年時代の独立した話になっていて、

 第2部から第5部までが、修行時代の半生を描いたものになってる。

 そのためか、まず、音楽の担当が代替わりしている。

 代替わりというのは、伊福部昭から小杉太一郎になっていることだ。

 小杉太一郎は俳優にして映画監督の小杉勇の息子で、

 伊福部昭の門下生でもあった。

 長丁場の大作を門下生に譲ったという感じなんだろうけど、

 もうひとり、京都太秦の新人プロデューサーが誕生している。

 後に東映大泉撮影所の所長になった翁長孝雄だ。

 公開時でいえば、

 マキノ雅弘の『次郎長と小天狗 殴り込み甲州路』の方が3か月早いんだけど、

 この『般若坂の決斗』はシリーズ物になってるわけだから、

 企画立案から製作に入るまでの期間を考えれば、こちらが先ということになるだろう。

 1962年、翁長さんがいくつだったのかわからないけど、

 大学を出たばかりの初々しくもちょっぴり気障なプロデューサーだったんだろう。

 映画のいちばんいい時代、太秦もさぞかし活気に満ちてたんだろな~。

 そんなことを、ふとおもった。

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宮本武蔵(1961)

2013年11月04日 03時11分43秒 | 邦画1961~1970年

 ◇宮本武蔵(1961年 日本 110分)

 英題 Zen and Sword/The Sword and Zen

 staff 原作/吉川英治 監督/内田吐夢 脚色/成澤昌茂 鈴木尚之 企画/坪井与 辻野公晴 小川貴也 撮影/坪井誠 美術/鈴木孝俊 進行主任/植木良作 助監督/山下耕作 富田義治 杉野清史 音楽/伊福部昭

 cast 中村錦之助 風見章子 入江若葉 木村功 三國連太郎 木暮実千代 丘さとみ

 

 ◇慶長5年9月、関ヶ原

 宮本武蔵ほど映画の主役となった歴史上の人物はいないんじゃないだろか?少なくとも、上位5人には入るとおもうんだけど、どうなんだろ?

 戦国時代を描いたり、幕末を描いたりした映画は多いけど、どうしても綺羅星のごとく人間が横溢してるから、焦点が絞りにくいし、さらにいえば、モブシーンに予算が掛かりすぎる分、映像化しにくい。

 ところが、宮本武蔵の場合は侍大将ではなくて剣豪だから、歴史上の人物とはいえ、看板を背負える役者さえいれば、成り立つ。

 そうした武蔵物の中では、この作品はまちがいなく最高傑作だろう。ことに、この第一作は音楽が伊福部昭という凄さで、5作中、突出してる。と、ぼくなんかはおもったりする。内容の面白さというのではなくて、ある種、記念すべき映画なんじゃないかと。

 大映に『大菩薩峠』があるように、東映にはこの『宮本武蔵』がある。そういう映画だ。ちなみに、この映画でデビューしたのが入江若葉さんなんだけど、若葉さんのお母さんの入江たか子さんは東宝の専属だった女優さんだ『椿三十郎』の撮影のときには、まだ若葉さんはデビュー前で、たか子さんにくっついて撮影を見学に行ったらしい。けど、若葉さんは東映に入社してデビューした。なぜかっていえば、たか子さんをデビューさせたのが内田吐夢だからで、母子そろってひとりの監督の手によってデビューするってのは珍しい。要するに鳴り物入りでデビューしたわけだけど、映画っていうのは、当時、そんな感じで作られてた。

 邦画のいちばんいい時代の傑作なんだよね、この『宮本武蔵』全5部作は。

 しかし進行主任、植木良作か~。なるほど、そういう時代なんだね。

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