池田公の藤樹塾来訪
藤樹先生のもとで学問を学び、さらに王陽明を学んだ熊沢を池田光政公は大いに用い、その学んだ内容を講釈させ、その教えを藩政にも生かすようになり、その後備前岡山藩主池田光政公は江戸初期において稀にみる名君としてその名を馳せるようになった。
池田公は熊沢を通して中江藤樹先生をすこぶる尊敬していた。そこで備前岡山藩主池田光政は、正保4年(1647)参勤交代途上、近江国小川村の藤樹塾に藤樹先生を訪ねたのである。その時の逸話が次のようなものである。
池田公が小川村の藤樹塾に到着したとき藤樹先生は村の学生たちに講義の最中であった。「池田の殿様がおいでになっています」とのことづけに「今は塾生に講経をしていますので」と、すぐにの面会を断った。岡山藩32万石の殿様を待たせたのである。当時身分の格式の激しかった時代に、大藩の殿様を待たせるとはあり得ないことだが池田公も偉い。先生の講経が終わるまで何事もなかったかの如く先生の登場を待たれた。やがて招き入れられた池田公は藤樹先生に切り出した。「先生の教えと人柄のすばらしさは熊沢君から聞いています。是非とも先生にはわが藩においでいただきわが師として相談役として仕官いただけないだろうか」というものであった。普通の学者であれば32万石の大藩の領主自らが仕官してほしいと招聘があれば、すぐにでも喜んでと言うことになるだろう。しかし藤樹先生は違った。この池田公の申し出に対して、「わたくしを高く買ってくださるのはありがたく存じますが、わたくしはそもそも母への孝養のためにこの地に帰って来た身です。しかも多くの村の者たちが私のもとには学びに来ております。殿様のもとには熊沢君もおり、さらにはほかに優れた学者もありましょう。しかし、この村で学ぶものには私しか教えるものがございません。また年老いた母をそのまま置いていくこともできません。せっかくのありがたいお申し出ではありますが、お受けすることが出来ません。」と丁重に断ったのである。大藩の殿様を前に堂々と所信を述べたのである。
そこでの池田公がまたすごい。池田公は「それでは先生、処は離れてはいますが、わたくしを先生の門人の一人として名を加えてはいただけないでしょうか。それと出来ましたら先生のご子息に岡山に出仕してはいただけないでしょうか?」と申し出た。その申し出を断ることもできず、備前岡山藩主池田光政公は藤樹門下の一人としして、その名が加えられた。またそののち藤樹先生の長男が岡山藩に出仕するようになったのである。
これらの出来事は、諸国にも評判となり、藤樹先生は「近江聖人」として知られるようになっていった。全国の諸侯の中には池田公に倣って、近江の小川村の藤樹塾に藤樹先生を訪ねて、藩政の在り方などの指南を受ける者が出てくるようになったのである。
(このあたりのことは内村鑑三の「代表的日本人」に詳しく書かれている。是非一読されることをお勧めしたい。)
中江藤樹と熊沢蕃山の出会いによって陽明学が広まり日本人に進歩性と希望をもたらした
内村鑑三は「代表的日本人」の中で、この熊沢蕃山と中江藤樹先生との出会いを次のように述べている。
内村は聖書の物語を引用しながら、熊沢蕃山については「センセイとして仰ぐべき聖人を全国に求めんとして一人の青年が岡山を旅立ちました。青年のいだいたこの珍しい目的は、昔「博士」たちが、「ユダヤ人の王」を探しに出た旅と同じでした・・・・・」とはじまり、「もし藤樹の弟子がこの人一人しかいなかったとしても、藤樹は国家の最大の恩人の一人として記憶されることでしょう。・・・・・こうして神の摂理は、夜の影を好む宝石を白日の光の下にいざなったのです!」と結んでいる。(岩波文庫「代表的日本人」p126~127)
さて、この「代表的日本人」の中で、内村は中江藤樹と陽明学との出会いについて次のように述べている。
中江藤樹がもともと朱子学を学んでいたことを述べ、その朱子学的自己探求の結果神経過敏を募らせてしまったと書いています。そして、その中江藤樹が王陽明の学問と接触することを通して劇的に変化したと述べています。
陽明学に関しては内村は「代表的日本人」の中の西郷隆盛の項でも述べており、そのことをここ中江藤樹の項でも述べています。西郷は陽明学に影響を受けていました。そのことはまた別項で述べたいと思います。
(この項続きます)
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