かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男一首鑑賞 286

2016年02月19日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究35(16年2月)
      【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)119頁
       参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:石井 彩子
       司会と記録:鹿取 未放


286 一人のトリックスターさえもなき職場に冷えて例規集読む

     (レポート)
秩序や規範によって成り立つ組織である職場にはトリックスターが存在する余地がない、統べるのはただ例規集のみである。私はそれを諦観とした思いで、読んでいる。
 トリックスターとは「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、全く異なる二面性を併せ持つのが特徴」。(Wikipedia)
 トリックスターは既成の常識や秩序が硬直化し、人々を不当に縛るようになっているときには、批判的な威力を発揮して、束縛を解く働きをする。いわば新たな創造性を生み出すための現秩序を破壊する存在である。そのような人物の典型として、神から火を盗んで人間に与えたプロメテウスであり、日本では織田信長などがあげられる。(石井)


     (当日意見)
★何か異議申し立てをしようと思っても、それは許されない。そこで寒々とした気持ちになってい
 るんだけど、自分を押さえて例規集を読んでいる。(真帆)
★そういう職場で冷え切っていて、仕方なく例規集を読んでいる。(藤本)
★例規集の中から謀反を起こせるチャンスはないかと思っている訳ではないですよね。(真帆)
★例規集というのは過去の例だから。(藤本)
★過去の例だから、その本に突破口はないでしょうね。(鹿取)
★組織人の一人として例規集は読まざるをえないものです。(石井)


渡辺松男の一首鑑賞 285 

2016年02月18日 | 短歌一首鑑賞
 
    渡辺松男研究35(16年2月)
      【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)119頁
       参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:石井 彩子
      司会と記録:鹿取 未放


285 誤りを容易に認めなくなりし君も組織の一部を背負う

     (レポート)
組織と個人の価値観は、互いにせめぎ合うことがある、組織に入った当初は純粋で、誤りを素直に認めた友であったのだろう、それが、容易に認めることをしなくなったのは個よりも全体、組織を優先させたためである。個は組織にとって手や足であり、バラバラでは機能を全うし得ないのである。作者は組織人としての君を肯定的に描写することによって自己自身を重ねている。(石井)


      (当日意見)
★作者が組織人としての君を肯定的に見ているかというと、そうでもないようだ。(藤本)
★言っている意味は同じです。組織人はそもそもそこのルールに従わないといけないのです。その 
 ルールに従っている君を肯定的に見ていることで、自分自身の内面はいろいろとあるのですけれ
 ど、価値観は違うのですけれど、やはりそういうところに働いている以上、自分自身もそれを認
 めざるをえないので肯定的と言ったのです。(石井)
★組織の一部を担うようになったんだなと嘆いているように読めました。(M・S)
★君が変わってしまったなあと思っている。(曽我)
★君に対しては違和感もあり疑問もあるけれどそうするしかないのかなあという嘆き。複雑な
 気持ちでうたっている。(藤本)
★組織人としての君というのを強調したかった。組織に生きるとはそういうことなんです。勤
 めている以上自我とかは捨てないといけない、おそらく根底には諦めというかそういう思い
 がある。そういう君を肯定的に見ている。(石井)
★個人と組織がせめぎ合う世界と決めつけてしまうのでは前進が無い。改善の意見などは上司
 に言えるはずで、それができない君を嘆いている。市民の立場に立って個々の意見は言える
 はず。全てが個人と組織で相反するわけではない。(藤本)
★もし個人だったらね、これは誤りですと言いたいこともあるんでしょうけれど、組織人だか
 ら自分が謝罪すれば部下が困るかもしれない、組織ってそういうところです。(石井)
★石井さんの意見、全部ひっくるめて組織ってそういうものかもしれないけど、「作者は組織人と
 しての君を肯定的に描写することによって自己自身を重ねている。」というところには違和
 感を覚えます。やっぱり「君」はそうあってほしくなかった、と嘆いているように読めます。
 〈われ〉が実際どれだけ「君」と違う行動がとれるかはおいて、違う行動を取りたいと思っ 
 ている点で肯定的描写ではないし、自己自身を重ねてはいないというのが私の鑑賞です。そ 
 れから、改善意見が言えたはずという藤本さんの意見は、組織人という石井さんの反論で出
 てきたんですけど、この「君」だって改善意見はいっぱい言ったかもしれません。ここでは 
 作者は「誤りを認めない」という一点に絞って詠んでいるので、「君」が組織に対して全て 
 唯々諾々と従っているとか、ものが一切言えない環境だとか、そういうことは言っていない
 です。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 284

2016年02月17日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究35(16年2月)
      【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)118頁
       参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:石井 彩子
       司会と記録:鹿取 未放

284 蛍光灯多すぎるほど灯しいて謀反をゆるすことなき庁舎

      (レポート)
 煌々と蛍光灯が燈っていると、微妙な陰影が排除され、すべての事物が余すところなく光に晒される。白日のもとに晒されるとはこのことだ。そのような庁舎で物事を均一で均等に扱うことに慣らされてしまった公務員には内部告発や謀反など及びもつかない。
 日本の夜は明るすぎる、と谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で嘆いたのは昭和8年だった。光と闇が綾なす陰翳の微妙な濃淡のゆらめき、ひかりの戯れはすべの物を詩化する、が、公務員にはそのような詩性は不用である、煌々と蛍光灯が燈る下で働いている姿は、いかにも誠実な公僕というイメージを与える。(石井)


      (当日意見)
★蛍光灯を多すぎるほど灯すって、エコだとか資源節約とかは一切考えずにどこもかしこも明るく
 灯していることで監視されているような状況下で仕事をされていて、謀反をしようと思ってもで
 きないようなことを言っている。(真帆)
★松男さん、詩人としての感性を持った人だから、いわゆるバリバリ働く公務員ではなかったと思
 うし、もっとひろやかな心を持っていて…だから庁舎での居心地はあまりよくなかったのではな
 いか。そういう違和感の表明の歌だと思います。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 283

2016年02月16日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究35(16年2月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)118頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:石井 彩子
     司会と記録:鹿取 未放

◆お断り  渡辺松男の歌の研究をしていますが、参加者の中に渡部慧子がおり、文中で「渡辺さ
      ん」「渡部さん」と表記すると紛らわしい為、「松男さん」「慧子さん」に置き換えています。

283 テーブルのテーブルかけを外しつつ内閣のまた支持率下がる

        (レポート)
 内閣支持率が下がっているという、やがて総理も変わるだろう、この国のトップはすぐ変わる、まるでテーブルかけを外すように簡単で容易なことだ。テーブルかけを外すという行為によって、「内閣支持率が下が」っている事象を想起された。テーブルかけをつけたり外したりすることは日常的な反復行為で、また明日になれば新しいテーブルかけを付け、宴会や会議が始まるだろう、そこで国の政策や方向が決まるのかもしれない。人は束の間に現れては退場する、が、恒久的なものはなにもない。ニーチェの永劫回帰を思わせる。(石井)
※「第2次安倍内閣発足後の政党支持率の推移」として各党の支持率のグラフと、「オバマ大
   統領の支持率の推移」としてオバマとブッシュの支持率の推移のグラフが提示されたが、 
   ブログにうまく図が取り込めないため割愛させていただく。


     (当日発言)
★レポートでは「テーブルかけを外すように」とおっしゃってるけど、「外しつつ」だからちょっ
 と違う。この歌集は1997年の刊行だから、細川さんから村山さんに替わった頃かな。(藤本)
★2枚目に余ったので安倍内閣とオバマの支持率の表を載せました。(石井)
★この図は関係ないですね。時代が違うから。(藤本)
★いや、いつ作られた歌か分からなかったものですから。(石井)
★まあ、この歌は別にどの内閣の時のという具体的な話でなくていいと思うけど。この歌の主体が
  「テーブルかけを外しつつ」テレビか何かでまた内閣の支持率が下がったというニュースでも見
 ているのかと思いました。レポートの「テーブルかけを外すように」総理がすぐに変わるとい
 うのは現実にはそうかもしれないけど、歌はあくまで支持率が下がる話です。テーブル掛けを掛
 け替えるように次々トップが変わる話ではないです。(鹿取)
★「テーブルかけを外」すのは作者の行為ですが、テーブルかけを外すことによって、いつか聞い
 た内閣の支持率が下がっているということを想起した。プルーストがマドレーヌを食べながら昔
 のことを思い出したようにです。(石井)
★なるほどね、今テレビを見てるより思い出した方が自然かもしれないですね。(鹿取)
★「テーブルかけを外」すのと同じような感じで政治を見ている。飲食と同じです。日常茶飯のこ
 とでたいしたことではない、作者は政治にたいした関心を持っていない。(慧子)
★支持率が下がるという今のことを言っているから、作者が政治に関心があるとかないとか、あま
 り深い意味はないと思うけど。(藤本)
★内面的な関連が必要です。ただ事象だけを詠っているわけではないので。(石井)
★テーブルというのは組閣などのことで、まとまっているものがやがて崩れてきたりしてみんなが 
 バラバラになる。そんなことかなと読んだのですが。内閣がテーブルかけを外すのではなく、や 
 っぱり作者なのかなあ。(真帆)
★「テーブルかけを外」すという行為は下句と関連性があるようにうたわれている訳で、そうでな
 いと解釈ができないです。こじつけ的な解釈かもしれないけど。浮き世の上がったり下がったり
 を冷ややかにみていらっしゃるのかな。(石井)

馬場あき子の外国詠29(アフリカ)

2016年02月15日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
      【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159
       参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
       司会とまとめ:鹿取 未放

29 サハラ砂漠に風紋をなす音きこゆ天の目のごと大き星星

      (まとめ)
 刻一刻と変化する美しい風紋は風によって起こる。上空に瞬く星星は天の目であるかのように大きい。荒蕪としか見えなかったサハラ砂漠が闇に覆われると、何かこう美しい光景がまなうらに広がっていくようだ。それは去りがたい思いの反映によるのかもしれない。(鹿取)
 

     (レポート)
 この日はフェズで泊まりであるから延々と長距離バスで再びアトラスを越えてイフレン、フェズへと戻る。サハラの広大な景と夜の空に遮るもののない星星がきらめいている。まるで天の目のようだ。「天の目」とうたったところにこの歌の眼目がある。天の目のような星に作者は見られている。見つめられていると感じながら星を仰ぎながら夜のサハラを後にしたに違いない。サハラの一連の最後のうたとして作者の万感の思いが胸に迫り、読み手に伝わってくるうただと思う。(藤本)

馬場あき子の外国詠28(アフリカ)

2016年02月14日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
     【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159
      参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子
      司会とまとめ:鹿取 未放

28 砂漠のやうな孤独といへば気障(きざ)ながらわれに必ず近づく予感

     (まとめ)
 想像を絶した沙漠の無、それは作者の精神に深い苦しみを呼び起こしたようだ。この世の価値の何もかもを呑み込んで無化してしまうような沙漠に触れて困惑しながら、やがて自分にもそんな孤独が来ることを予感している。(鹿取)


     (レポート)
 たった一日ではあるがサハラへ踏み入ったことによる孤独感や日常では味わえない感興、その上の句を受けて自分自身に引きつけて今に必ず孤独は近づいてくるのだと。否うたっているその時点でも作者は常に孤独を味わっているのだろうか。ここでは老いてゆくもの、死にゆくもの、そのような孤独とは別の次元をうたっているように感じる。(藤本)
 

馬場あき子の外国詠27(アフリカ)

2016年02月13日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
     【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159
     参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子
      司会とまとめ:鹿取 未放

27 日本に帰ればたつた一日のサハラの記憶 深い沈黙

      (まとめ)
 何も生まない死の砂の広がるサハラの風景は想像を絶するもので、それはひいては地球そのもの、生命そのものへの畏敬の念やおそれを作者に感じさせたことであろう。そしてそのサハラが人間や生き物と交錯することで更に複雑な思いを作者に呼び起こした。だが、それは帰国すればたった一日の記憶として日に日に薄れてゆくことを嘆いている。それは死の砂の広がりの彼方から現れる偉大な太陽だったりランボーの生涯であったり、無名有名さまざまな人生であったり、使役されて苦しく生きる駱駝や山羊だったり、悠々自適のような糞ころがしの生態だったりするのだろう。また、市場経済に否応なく絡め取られている遊牧民、なかんずくいたいけな少年たちにも浸透しているその過酷さ、醜悪さに危惧も抱いたのだろう。しかしそれをどうすることもできない無力感。しかもそんな強烈な思いもやがて消えていく、そのことに対して「深い沈黙」をせざるをえないのだ。
 しかし、こうして一連の歌にできたことは、サハラで見て考えたことの一端を焼き付けるのに成功しているわけだ。自分一人の記憶ではなく読者にメッセージとして手渡している。現実の世界を何も変えることはできないかもしれないが、ささやかな短歌の力だろう。(鹿取)
 

     (レポート)
 一字空け、「深い沈黙」とうたったところに、このサハラの旅を成し遂げた、経験した作者の深いふかい思いが伝わってくるようだ。それは最初の11の歌にあるように、アトラスをついに越えたという感動と共鳴しているのだろう。(藤本) 


馬場あき子の外国詠26(アフリカ)

2016年02月12日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
      【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P159
       参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
       司会とまとめ:鹿取 未放

26 日本人の味がする手を舐めてゐし山羊を叱れり遊牧少年

     (まとめ)
 「日本人の味がする手」には意表をつかれる。山羊は現地人だ日本人だ西洋人だと、かぎ分けて舐めているのではないだろうが、確かにそれぞれ味は違うだろう。食べ物によっても労働の種類によっても手の味は違ってくるであろうが、「日本人の味がする手」と言われると何か秘密を覗いたような気もする。山羊を叱った遊牧少年も、そんな秘密の臭いを感じ取ったのだろうか。レポーターがいうように「埋めがたい距離」がどうしようもなく存在する。そんな言い難い感じを、下の句では事実だけを描写して読者に伝えようとしている。(鹿取)
 

     (レポート)
 16で少年を詠んでいるが、この歌では山羊がいて、少年がいる。上の句では作者が山羊に近寄り山羊に触れている。手を山羊になめさせている作者がいる。その山羊を少年が叱ったというのである。手を介在しながら作者と少年の距離、日本人(東洋人)とサハラの先住民であるベルベル族の少年、その埋めがたい距離をかいまみたのであろうか。結句の「遊牧少年」と名詞止めでうたったところにこの歌の眼目があり、山羊を通して、その少年をじっと見つめている、よく見ている作者がいる。(藤本)


馬場あき子の外国詠25(アフリカ)

2016年02月11日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
      【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P160
       参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子
       司会とまとめ:鹿取 未放

25 ベルベル族のテントに入りてミントティー飲む朝の顔蠅まみれなり

     (まとめ)
 馬場の旅に同行した友人によると、沙漠の真ん中に天幕を張って暮らしているベルベル族の遊牧民を訪ね、長老からミントティのもてなしにあずかったそうだ。もちろんそれも料金が払われているのである。〈われ〉も仲間もベルベル族の人たちもみんな蠅まみれになっているのだろう。土地の人は慣れているし、追い払ってもきりがないからそのままにしているのだろうが、旅行者は気になることであろう。しかしおおっぴらに追い払うのも憚られ、お互い、苦笑して耐えている図だろうか。
 レポートの気になる2カ所について触れておく。最後から2つめの段落の「原住民が推定5000万人を超えるアフリカ人が大陸から失われた。」の部分、「が」が2度出てきて意味がよく通らない。「推定5000万人を超える原住民が大陸から失われた。」なら理解できるが、レポーターが言いたかったことはこれでいいのだろうか。また最後の段落の「ゆめにさえ恋しかったアフリカ」は馬場の歌「不愛なる赤砂の地平ゆめにさへ恋しからねどアトラスを越ゆ」とは逆の意味になる。「恋しから」は形容詞「恋し」の未然形、「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形、「ど」は逆接の確定条件を表す接続助詞だから「夢にさえ恋しくはないけれども」赤砂の沙漠に入ろうとしてアトラスを越えるという歌意である。では、ほんとうに夢にさえ恋しくなかったかというとそうでもないところが微妙ではあるが、表現された意味としては打消なのである。(鹿取)
 

     (レポート)
 ミントティをのんでいるのは作者、蠅まみれの顔も作者であろう。ユーモアもペーソスも感じる歌である。16でベルベル族の少年に焦点をあててうたい、ここではミントティをのむ作者自身をうたっている。
 ここで作者の「魅惑のモロッコ周遊吟行の旅」をひもといてみよう。
 1996年9月16日から26日までの10日間、いちばん良いと言われる季節にモロッコを旅している。パリからカサブランカ、マラケシュ、ワルザザード、ワルザザードからアトラス山脈のティシカ峠を越えエルフード、メルズーカへと。9月22日、旅の7日目に長年の願いであったろうサハラへと足を踏み入れたのである。サハラの日の出、ベルベル族の遊牧民のテントやアンモナイトの採掘現場に立ち寄る。〈地球の歩き方「モロッコ」〉によると、このコースは人気のコースでもっともポピュラーなアトラス越えであるらしい。メルズーカ周辺の大砂丘すなわちサハラ砂漠へと、たった一日のサハラのツアーであったようだ。日の出を見学し、次はベルベル族のテントに立ち寄るとそこでミントティをふるまわれたりと。メルズーカ周辺の村を見学しエルフイードに戻りフェズへ向かう、この日はかなり強行軍だったのは確かだ。
 また、アトラス山脈はモロッコを大きく二つに分ける。マラケシュ、フェズといった大都市を「城壁とメディナの世界」とすれば南側はサハラ砂漠へと続く「カスバとオアシスの世界」だと、延々と広がる乾いた大地に点在するオアシスの村々、静寂、広大、開放感……アトラス越えはモロッコの旅の中でも一番のハイライトといえるそうだ。
 この一連の歌はメルズーカ周辺のサハラをうたったものだと思う。【阿弗利加-サハラ】と小題をみたときモロッコなのに何故と疑問と違和感をだいた。アフリカはあまりにも大きく、今日でもあまりにも大きな課題をわたしたちにつきつけている。原住民が推定5000万人を超えるアフリカ人が大陸から失われた。貧困、エイズの問題……
 しかし11番歌の「不愛なる赤砂の地平ゆめにさへ恋しからねどアトラスを越ゆ」に始まるこの一連は、ゆめにさえ恋しかったアフリカ、たった一日の旅ではあるがサハラに足を踏み入れることができた。長年作者は夢に描きそして渇望していたのではないか。モロッコの旅であり、サハラの旅はそういう作者の思いが実現し、この題をつけたのであろうと納得することができた。(ちなみに、モロッコは観光都市であり、日本で食べるタコのほとんどはモロッコから入ってきているとのこと)(藤本)


馬場あき子の外国詠24(アフリカ)

2016年02月10日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2007年12月)
      【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P160
        参加者:N・I、Y・S、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
       司会とまとめ:鹿取 未放

24 駱駝の腹太くて足の長き影宿命のごと沙漠に似合ふ

          (まとめ)
 沙漠の駱駝が長い影を曳いている姿が絵画にもよく描かれているが、お腹の形状はあまり記憶に無かったが、間近で見て腹の太いのに驚いたのかもしれない。映像で見ると確かにどっしりとしたお腹の下に長い足がついて、たいていは沙漠に長い影を落としている。実感によるしみじみとした詠嘆がある。(鹿取)
 

      (レポート)
 次は砂の上に影をひいている駱駝の足等、駱駝そのものをよく観察し、対象をよく見て「宿命のごと沙漠に似合ふ」とうたっている。駱駝は北アフリカからアラビアにいる一瘤駱駝と中央アジアからモンゴルにいる二瘤駱駝の2種。人間に飼養され、沙漠の重要な家畜である駱駝、沙漠と駱駝、そして人間の営み、そこを「宿命のごと」とうたったところにこのうたの眼目があるのではないか。何かこう哀愁のような情を起こさせる歌である。(藤本)