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ダンスとか。

中村公美 『からっぽになた』

2004-04-09 | ダンスとか
原宿・デザイン・フェスタ・ギャラリー。
非常に狭い部屋の中で、長い茶色の巻紙の山に埋もれ、ゴソゴソしていたり、ちぎって丸め、投げたり、セロテープで壁に留めたり、また山の中に潜っていったりするという行為を4時間に渡って展示する。おそらく誰もがいわゆる「パフォーマンス」(そして中村の自称する「もの派」よりもむしろ「具体」)を連想するわけだが、しかし今日(これまた本人が強調する)「ダンス」という文脈さえ踏まえてしまえば、「コンセプト」ではなく「質感」、あるいは、「理屈」ではなく「感覚」が大事なのだという言い分が一応は可能になるのだからして(?)、要するにここで起こっていることは「ダンス」による「パフォーマンス」の再解釈、ダンス史による美術史の再解釈なのだということも一応はできる。それは非常に魅力的な作業になると思う。村上三郎だのクリス・バーデンだのマリーナ・アブラモヴィッチだののダンス史的蘇生。アクションやハプニングをモダニズムの枠組に押し込めてきたのは、むしろ怠惰な美術史や批評だったのかもしれないではないか。ということはまた、ダンス史のいわゆるモダニズム(ポストモダンダンス)の部分だって書き換えられる可能性は残されているのだ。もしジャドソン教会派の最良のダンスが黒沢美香の雑巾がけのようなものであったとしたら?イヴォンヌ・レイナーとローザスの間にどれだけの質的な距離があるか?一通りはこういうアイディアを提供してくれている中村公美だが、しかし当人の表現はどうにも弱いといわざるを得ない。それこそコンセプトがあまりにも曖昧だ。紙がガサガサいう音が狭い空間にこもって、まるで波打ち際のようなサウンドスケープを立ち上げているのだが、その代わりヴィニールテープや壁を使った時のような触覚的エロティシズムは影を潜めている。フラッとのぞきに来た人を引き込んでしまうような強力な流れもなく、かといって「退屈」を売りにするには傲慢さに欠けている。即興ならばもう少し度胸が座っていてほしい、これが本音だ。ただし無謀な企画を自分で背負い込んでしまった表現者が思わず予想外のトンチンカンな展開を生んでしまう瞬間は4時間の間にいくつかあった。例えば仰向けに寝て足の方から巻紙の山にズリズリ入っていく時の、ほとんど自宅の寝室にいるかのような恐るべきリラックスぶり。腕に紙をグルグルと瘤状に巻きつけて身体を変形させていくプロセス。ところがいずれの場合も、「予想外の成り行き」の馬鹿馬鹿しさを意識すると同時に狙いすぎて臭くなってしまうことへの恐れからか、現われかけたモティーフがすぐに手放されてしまう。まさにそこが入口であるのに。
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