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ダンスとか。

お茶の水女子大学 芸術・表現行動学科 舞踊教育学コース 創作舞踊公演

2004-04-22 | ダンスとか
『Dance Performance vol.31 日独コンテンポラリー・ダンス・プロジェクト』。なかのZERO(大ホール)。
新2年生の群舞と新3年生の群舞、それと神戸のフェスで受賞した群舞作品を見た。あと卒業生作品という枠で、木野彩子『い ち』も見られた。これは林洋子とのデュオで、上手奥の椅子に二人が乗って妙な形を作り、林が下手手前に走り出してきてそこでソロを踊る。その間ずっと、木野がイスからずり落ち続けているのがヘンだった。今日の目当てはドレスデンのパルッカ国立舞踊学校の演目。グレート・パルッカはヴィグマンの弟子だが、(ごくたまに目にする限りでは)もしかして戦前のドイツのいわゆる「表現主義舞踊」がかなり面白いんではないかという気がしていて、こういう権威筋による上演とくれば見逃せない。パルッカ『セレナータ』('32)は、アルベニスのピアノ曲を使った短いソロで、マリア・ツィンマーマンという人が踊った。衣装はえんじ色の長スカートにヘソ出しトップス、裸足。派手な動きも形も、わざとらしい見せ場もなく非常にシンプルな振りで、使っている部位もごく限られているのだが、踊りというものに対する誠実さというか、デリカシーを感じさせる素朴な良さがあった。力を漲らせて左右に広げた両腕を、目を斜め下に伏せつつ、全体を一斉にジワッと弛緩させるなど。次はドーレ・ホイヤー『アフェクトス・フマーノス』('62)、ユリア・カトゥリーナによるソロ。コテコテの「ドイツもの」で、パーカッションによるメロディのない音楽、黒い頭巾に怪しい組織みたいな衣装、そして裸足。全身を有機的に動員せず特定の部位に集中した短いフレーズばかりで、その一個一個を滑らかに流さずカチンカチンと区切ってから次へ連結していくという、古いドイツものの一つの典型ともいえるものだった。「虚栄」「憎悪」「愛情」と三部に分かれており、「愛情」だけは柔らかく流れる動きになるあたりも説明的。三本目はブリギット・シェルツァー『ベニスの舟歌』('02)。これはパルッカ生誕100周年の際に作られたものらしく、ツィンマーマンとカトゥリーナによるデュオ。メンデルスゾーンの曲を使い、黒いレオタードの上に黒いロングスカートをつけ、やはり裸足。タンツテアターには行かなかった「表現主義舞踊」(=非フォルクヴァンク?)という感じだが、あまり新しいものを取り入れてはいない代わりに、著しく旧態依然ということもなく、単に平凡という印象をもった。ここで休憩が入り、後半は新4年生による小品七本と群舞一本。特にデュオとかソロは見てみたい気もしたが、疲れていたのでパスしてしまった。こういう場所に来るたびに、一般に新しいと思われているものが本当に新しいのか、あるいは、古いと思われているものがどれだけ古いのかを改めて冷静に考えさせられる。そして、本当の問題は「新しい/古い」ではなく、それをやる人が疑いを持ちながらやっているかどうかなのだという結論に至る。
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