が毎日新聞に連載されている「クロストーク」に自分が書いた意見。採用されるかどうか、わからんけど。
この話が露見し、記者会見を見て、週刊文春を読んだ感想は「旧石器捏造事件とそっくり」だった。渦中の人物がいわゆる「素人あがり」であること、騙していた期間の長さ、だんだんと当人が神格化されるような話が増えていったこと、それを証明するような行動を当人がとり続けていた点(旧石器捏造事件を起こした人物は発掘現場の周辺をやたら歩き回って『昔の地形を読んで』いたそうです)、周囲の専門家軍団がコロッと騙されていたこと、批判や疑問はぽつぽつではあるがまっとうな手段で提出されていたにもかかわらず黙殺されていたこと、捏造に加担した人物について「いい人」という人物評が現れたこと・・・・・・。違うのは一つ。旧石器捏造事件については、毎日新聞が綿密に取材を重ね、決定的な証拠を積み上げた上で本人に認めさせる、ジャーナリズムの力量をとことん感じさせるものだったんです。私はずうっと毎日新聞の読者なわけですが、その理由として、このスクープに感じ入ったことが大きい。「この新聞の報道はその内容も、姿勢も、信頼に足る」と思わせるものがあった。メディアへの信頼感は、原則こんな感じで育てられるものじゃないかと思うんです。
それに対してこの事件は、単純な、当事者からのリークがスクープの源らしい。この件の暴露について、メディア側からのアクセスはなかったらしい(というふうに解釈できるんですが)。リーク先の週刊文春は大ホクホクだったでしょうけど。今度ばかりは毎日新聞も連載特集なんぞ組んで渦中の人物について神話作成の片棒を担いでましたよね。自分としては「メディアの取材力はどこに行っちゃったわけ?」という文脈で問題をとらえていたわけです。つまり、受け手の問題ではなく、取材側の問題。旧石器捏造事件のスクープに携わった方々がまだ毎日新聞に在籍されておられるなら、ぜひ、なんでだまされたのか、連載記事を書いた記者に取材して検証記事を書いてほしいもんだ、と思っています。
怖いと思うのは、一歩間違えばこの件は第二の「オウム真理教」になりかねなかったのではないかという危機感。オウム真理教も、最初の頃のメディアの取り上げ方は「純粋な若者たちが・・・・」風な好意的なものだったように思う。それに加えて「奇跡がどうの」だの「つらい修行に耐えて」みたいな持ち上げ方。この宗教が殺人集団に成り果てても、メディア側はへっぴり腰のままで、結局サリン事件までもっていかれてしまった。今回は渦中の人物の仕事(仕事してなかったようですけど)がたまたま「作曲家」で新興宗教の教祖様ではなかったから、殺人には至らなかったけれど。しかし、生じた精神的被害は甚大だ。オリンピック選手のことはさておき、渦中の人物の売名の演出のためにダシに使われた子供達のことを考えると、憤りで体が震えるような感じがするんです。子供は何も訴えることができませんから。情報の受け手がその手の「感動話が好きだから」そういう話を捏造したのだ、それを報じたメディアを簡単に信頼してはならない、だけで、こうした問題がなくなるでしょうか?メディアの取材力は、メディアだって一企業である以上その企業力の根幹なんですから、死に物狂いで企業レベルを上げるべく努力するのが筋。それを怠ってるからこういうことになるんだ、と言いたくなる。
この件についていうと、この捏造話を最初に拡散したのはNHKなわけですが、なぜNHKが取り上げたかを考えています。私はクラシック音楽が好きな人間ですが、クラシック音楽の衰退ぶりには危機感を感じています。これは、NHKのようなメディアも同様に感じているのではないでしょうか。NHKは、地味な芸術や伝統技術をきちんと紹介する番組を作り続けていて、それはそうした芸術や技術分野をこれ以上すたれさせたくない、という熱意があるからだと思う。しかし、こうした芸術をただ紹介する番組は全然一般受けしないから、何らかの「物語性」を加味したくなる。音楽の場合だと「障害に立ち向かって」みたいな物語とセットにすると、実に受けがいい。NHKが発端のクラシックブームのほとんどが、そうした物語とセットになっていると思うんです。これはどういうことかというと、そうでもしないと誰も聴いてくれない、クラシック音楽という産業分野がそこまで衰退している、ということだと思う。
だから、桐朋学園の学生諸君が、リークした人物が桐朋を去るようなことにならないようにしてほしい、という嘆願署名を集めて申し入れをした、という話に呆れています。諸君は、自分たちが将来関わることになるであろう、クラシック音楽の社会的影響力をどう考えているのか?今回精神的被害をこうむった子供たちのことをどう考えている?リークした人物は、そんなことに18年も加担したんだ。社会的制裁を受けて当然なんですよ。自分たちの仕事が社会に及ぼす影響力について思い至らない人の作品なんぞ、社会が受け入れると思いますか?「いい人だから、いい先生だから、寛大な対応を」なんて、あまりに内向きで、社会性のない人間の言い分です。これでは、クラシック音楽がダメになってもしょうがないなあ、と思って心底がっかりしています。で、音楽を志す若い方たちに対して、そうした社会的道義的責任をきちんと教えていない桐朋学園にも。どういう教育をなさっているのでしょうか?
誰もが「いい話」にアクセスしたがる理由は、メディアから持ち込まれる記事の大半が「やな話」だからでしょうね。そうでなくても、新聞記事を読むと記事の最後尾に「しかし・・・・」というセンテンスでケチをつける式の記事が圧倒的。読後感が悪い。だから、最後までケチのつけようのない「いい話」にアクセスしたくなるわけ。日本語の特徴として、最後に書かれた文章の印象が一番強くなる傾向があるので、先にケチつけときゃいいのに、と思うことが多々あります。言ってみれば「酒飲みだけどよく働く」か「よく働くけど酒飲みだ」の違い。同じことを言っているのに、内容が違うように読める。ここはいつも新聞記事を読むときに用心しています。というか、この程度しか用心のしようがない。新聞には「酒飲みだけどよく働く」文脈の記事を増やすべきなんじゃないの、と言いたいです。
この話が露見し、記者会見を見て、週刊文春を読んだ感想は「旧石器捏造事件とそっくり」だった。渦中の人物がいわゆる「素人あがり」であること、騙していた期間の長さ、だんだんと当人が神格化されるような話が増えていったこと、それを証明するような行動を当人がとり続けていた点(旧石器捏造事件を起こした人物は発掘現場の周辺をやたら歩き回って『昔の地形を読んで』いたそうです)、周囲の専門家軍団がコロッと騙されていたこと、批判や疑問はぽつぽつではあるがまっとうな手段で提出されていたにもかかわらず黙殺されていたこと、捏造に加担した人物について「いい人」という人物評が現れたこと・・・・・・。違うのは一つ。旧石器捏造事件については、毎日新聞が綿密に取材を重ね、決定的な証拠を積み上げた上で本人に認めさせる、ジャーナリズムの力量をとことん感じさせるものだったんです。私はずうっと毎日新聞の読者なわけですが、その理由として、このスクープに感じ入ったことが大きい。「この新聞の報道はその内容も、姿勢も、信頼に足る」と思わせるものがあった。メディアへの信頼感は、原則こんな感じで育てられるものじゃないかと思うんです。
それに対してこの事件は、単純な、当事者からのリークがスクープの源らしい。この件の暴露について、メディア側からのアクセスはなかったらしい(というふうに解釈できるんですが)。リーク先の週刊文春は大ホクホクだったでしょうけど。今度ばかりは毎日新聞も連載特集なんぞ組んで渦中の人物について神話作成の片棒を担いでましたよね。自分としては「メディアの取材力はどこに行っちゃったわけ?」という文脈で問題をとらえていたわけです。つまり、受け手の問題ではなく、取材側の問題。旧石器捏造事件のスクープに携わった方々がまだ毎日新聞に在籍されておられるなら、ぜひ、なんでだまされたのか、連載記事を書いた記者に取材して検証記事を書いてほしいもんだ、と思っています。
怖いと思うのは、一歩間違えばこの件は第二の「オウム真理教」になりかねなかったのではないかという危機感。オウム真理教も、最初の頃のメディアの取り上げ方は「純粋な若者たちが・・・・」風な好意的なものだったように思う。それに加えて「奇跡がどうの」だの「つらい修行に耐えて」みたいな持ち上げ方。この宗教が殺人集団に成り果てても、メディア側はへっぴり腰のままで、結局サリン事件までもっていかれてしまった。今回は渦中の人物の仕事(仕事してなかったようですけど)がたまたま「作曲家」で新興宗教の教祖様ではなかったから、殺人には至らなかったけれど。しかし、生じた精神的被害は甚大だ。オリンピック選手のことはさておき、渦中の人物の売名の演出のためにダシに使われた子供達のことを考えると、憤りで体が震えるような感じがするんです。子供は何も訴えることができませんから。情報の受け手がその手の「感動話が好きだから」そういう話を捏造したのだ、それを報じたメディアを簡単に信頼してはならない、だけで、こうした問題がなくなるでしょうか?メディアの取材力は、メディアだって一企業である以上その企業力の根幹なんですから、死に物狂いで企業レベルを上げるべく努力するのが筋。それを怠ってるからこういうことになるんだ、と言いたくなる。
この件についていうと、この捏造話を最初に拡散したのはNHKなわけですが、なぜNHKが取り上げたかを考えています。私はクラシック音楽が好きな人間ですが、クラシック音楽の衰退ぶりには危機感を感じています。これは、NHKのようなメディアも同様に感じているのではないでしょうか。NHKは、地味な芸術や伝統技術をきちんと紹介する番組を作り続けていて、それはそうした芸術や技術分野をこれ以上すたれさせたくない、という熱意があるからだと思う。しかし、こうした芸術をただ紹介する番組は全然一般受けしないから、何らかの「物語性」を加味したくなる。音楽の場合だと「障害に立ち向かって」みたいな物語とセットにすると、実に受けがいい。NHKが発端のクラシックブームのほとんどが、そうした物語とセットになっていると思うんです。これはどういうことかというと、そうでもしないと誰も聴いてくれない、クラシック音楽という産業分野がそこまで衰退している、ということだと思う。
だから、桐朋学園の学生諸君が、リークした人物が桐朋を去るようなことにならないようにしてほしい、という嘆願署名を集めて申し入れをした、という話に呆れています。諸君は、自分たちが将来関わることになるであろう、クラシック音楽の社会的影響力をどう考えているのか?今回精神的被害をこうむった子供たちのことをどう考えている?リークした人物は、そんなことに18年も加担したんだ。社会的制裁を受けて当然なんですよ。自分たちの仕事が社会に及ぼす影響力について思い至らない人の作品なんぞ、社会が受け入れると思いますか?「いい人だから、いい先生だから、寛大な対応を」なんて、あまりに内向きで、社会性のない人間の言い分です。これでは、クラシック音楽がダメになってもしょうがないなあ、と思って心底がっかりしています。で、音楽を志す若い方たちに対して、そうした社会的道義的責任をきちんと教えていない桐朋学園にも。どういう教育をなさっているのでしょうか?
誰もが「いい話」にアクセスしたがる理由は、メディアから持ち込まれる記事の大半が「やな話」だからでしょうね。そうでなくても、新聞記事を読むと記事の最後尾に「しかし・・・・」というセンテンスでケチをつける式の記事が圧倒的。読後感が悪い。だから、最後までケチのつけようのない「いい話」にアクセスしたくなるわけ。日本語の特徴として、最後に書かれた文章の印象が一番強くなる傾向があるので、先にケチつけときゃいいのに、と思うことが多々あります。言ってみれば「酒飲みだけどよく働く」か「よく働くけど酒飲みだ」の違い。同じことを言っているのに、内容が違うように読める。ここはいつも新聞記事を読むときに用心しています。というか、この程度しか用心のしようがない。新聞には「酒飲みだけどよく働く」文脈の記事を増やすべきなんじゃないの、と言いたいです。
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