なんとなくクラシテル

獣医という仕事をしている人間の生活の例の一。
ほとんどが(多分)しょーもない話。

土用

2018年07月26日 | 
にウナギのかば焼きというのは、平賀源内が思いついた事で、江戸だけのブームだった、と思うんだけど。それをあおって日本中でウナギ食べなきゃ、みたいな強迫観念チックにしたのは、マスコミです。ということで、土用にウナギの代わりになる食材をあれこれ食べ比べ。あのタレ&山椒の粉さえあれば、なんだってかば焼きになるんじゃないかとも思うんだけど。

1)鶏肉
2)豚肉
3)ナマズ
4)うな次郎
1)&2)は肉でもってウナギの代わりにしよう、ということでしょう。かば焼きのタレと肉は、相性バッチリです。鶏肉はちょっと量が少なかったな。豚肉は、いささか噛み切りにくい。食べやすいようにちょっと包丁が入ってはいたんだけど、そこんとこがイマイチ。
3)例の近大ナマズですわね。去年は小さいのしかなかったんだけど、今年はうんと大きい奴が売られてたので。うーん、ウナギの代わりと思って食べると、なーんだ、感になっちゃう。しかし、白身淡水魚としては、かなり優秀じゃないかな。皮と身の間のプルプルはマジ旨い。
4)「うな次郎」は、要するに練り製品なんだけど、すごく再現度が高い。皮もプルプルもあるし、身の歯ごたえとか、噛み切りやすさとか、近いんです。そのまま「うな丼」にするとばれちゃうけど、海苔巻きの具にしたら分からないんじゃないかな。

 で、かば焼きって、結局「タレ」なんだなあ。タレが旨けりゃなんでも旨い。もっと色んな具材でかば焼きを作ったら、思いがけないヒットが出るかもね。
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オウム真理教

2018年07月08日 | 
がやったテロからもう23年もたったのか、という感慨。ただ飯を23年も食わせていたのか、という感慨です。

 幹部と呼ばれていた人物は、自分とほぼ同世代・かつ、理系の人間も多かった。ので、この件は本当に他人ごとではなかった。まかり間違えば、自分もはまり込んでた可能性は十二分にあったと思っている。いったい、あれは何だったんだろう。

 抑圧、だろうか、一言でいうと。子供の頃からそれは折々に感じていたことだったんだけど。今にして思うと、新興住宅地や団地が学校や地域を形成してたのがまずかったんじゃないかとも思う。そうそう、小学校の校歌、あれ、変な歌だったよなあ。オウムのヘンな歌と張るわ。「昔ながらの武蔵野に、並ぶわれらのニュータウン。団地の子らの良い学校、タウンとともに育ちましょう」ってこれ、タウンの歌だろが。ニュータウン団地なんぞに住んでいなかったので、強烈に違和感ありましたね。まあ子供だから、とにかく覚えて歌わないと怒られるから歌ってたけど。こういう強制、テロ組織と何ら変わらん。この歌、まだ使ってるのか?北小に聞いてみたいもんだ。この歌に代表されるように、訳の分からんものに帰順することを強く要求される。

 色々言われたな、教師に。団地の大人は、お互いやきもちを焼くとか。その内容はTVだの洗濯機だのを誰かが買うと、問題になる、とか。あーこれも今なら分かるのだが、要するに、団地だのマンションだのという集合住宅って、世帯収入がほぼ横並びの人達が入居するんだよね、だから、その中で誰かが収入より外れたことをやると、なんだあいつ、となるわけだ。これは今でもあるそうですけどね、ばからしい。
 最近聞いた話だが、新興住宅地というのはガッコが荒れるんだそうな。昔ながらの規範がないもんだから、どうしても力の圧力でゴリゴリやらないとまとまらないという事なのか。

 あの当時、特に女子はうっとうしかったなあ。どこか全員イライラしていたように思う。男子はケンカばかりしていた。いじめなんか日常茶飯事。大人どもがイラついてたからじゃないかと思うんだけど。確か自分らが小学生の頃、ラジオでは不況だ不況だとオウムみたいに言ってた。金が稼げない、のに働かされる、すでに大人の状況がめちゃくちゃ歪んでたんだじゃないかな。

 大人からすると、じゃあ、子供は何だったのか?邪魔だったんじゃないの。なぜそうか?多分全共闘が悪い。あいつら、親の金で大学=高等教育を受けたクセに、結局テロリストになり下がったわけで、これは当時の大人世代にはただただショッキングだったんじゃないかと。ので、教育はいいけど、なるべく従順な人間になるようにしよう、となったんじゃないですかね。勝手なことを言ったりやったりするのは、子供なら当たり前だけど、それがもう許せない、おっかない、というわけで。

 バカバカしいけど、そこに変なあおりが入った。それが例の「ノストラダムスの大予言」ですねえ。ノストラダムスって誰だよ、と思うし、書かれてた内容は荒唐無稽の一言なんだけど、子供は軽くはまった。1999に滅亡というのは当時の子供にはものすごくシリアスな話だった。だから勉強やめた、なんて子も結構いたと思う。自分的には、なにかのCMで「21世紀をになう子どもたちのために」なーんてナレーションにケッとなってた。理由の一つ目は1999に滅亡すんだから、21世紀なんかないのにってのと、もう一つは21世紀になったら、結局はしょうもない事にこき使われるだけなんでしょ、という絶望と。仕事というのに全く魅力を感じることができなかったなー。

 それに他のあおりが来る。「巨人の星」と「エースをねらえ」ですよ。この漫画の主人公は、どっちも基本的には「自分はダメな奴」で、周囲の人間のいう通りにあーだこーだやって、という、他力本願の塊みたいな人物。で、こういう自己卑下が妙にかっこいいとされた。これも全共闘の「自己批判」とやらの変形でしょうね。そうじゃない漫画も流行ったけど。それが「ベルばら」。ここに出てくる主人公は、自分の頭で考えて行動する。でも、そういう人間は最終的には死んじゃう結末で、いい事ないんですよ。

 困ったことに、エリートとされるような理系の人間が自分に自信がなくなっちゃってたんだ。これは親が悪い。もっといいガッコ・もっといい成績とケツを叩きまくって(その理由は説明しないくせに)自分の問題を子どもにかぶせてたんだ。どこまでやっても、認めてもらえない、その渇望感にすぽっとはまってきたのがオウムだったんでしょ。一生懸命やれば認めてもらって出世できる、すごく分かりやすいものね、構図が。こういう団体って、どんどん過激なことを言ったりやったりする方が認められやすい。歯止めはまず効かない。止めようとしたらこっち、あいつは一生懸命じゃないじゃないかとなって、下手すると殺されますから。

 こういう話は、ついこないだの日大アメフト部事件でも全く同じようなパターンで、監督やコーチの記者会見はホント、麻原みたいだなと思ったんだけど。今回違ってたのは、生徒側が、そういう洗脳を受けづらい、マトモなフツーの人だった、ということ。もう一つは、周囲。情報が即ネットで出回るようなスポーツだった、ということと。逆に言えば、そうじゃなければ、相変わらずそういう団体はあちこちにポコポコできてるんじゃないかと思う。DVなんかもその一種で、家庭というのも一種の団体だから。こういうの、どうすりゃいいんでしょうか?分からないんですよ。少なくとも、オウムが特別という事は絶対にないと言い切れるのだが。 
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所沢ミューズ

2018年07月01日 | 
に久しぶりに行く。今回は樫本大進君のリサイタル。ミューズは、バブル期建立の建物にありがちな、華美っぽいホールなんだけど、オルガンもなんとか使いこなしているようで何よりでございます。カザルスホールのオルガンなんか、どうしようもなくなっちゃってるみたいだものね。作った人が気の毒だ。

 リサイタルは大変熱い演奏で楽しかったんですが、気になったのは演奏自体ではなくて、一応関連はしてるけど、という奴。ピアニストの方が使っているのは、多分電子楽譜っぽい、けど、メクリストはどうなってるんだろう?
 演奏中譜面をめくる人を「メクリスト」と呼ぶ、のは音楽業界人間の業界用語っぽいんですけども。

 電子楽譜を初めて見たのは、NHKのストラドに関する番組。最後にパガニーニの曲を演奏したときに、伴奏のピアニストの方が使っていた。ただし、その時はメクリストはいたんです。その人が何やってたかというと、ボタンを押して、譜めくりしていた。便利そうで便利じゃないなあ、というのがその時の電子楽譜についての感想。ピアノ譜は大体分厚い(つまり重い)から、それが軽くなるのはよさげだけど、譜めくりは結局他人を煩わすわけかあ、と思って。そこんとこが大事なのになあ。

 ところが、今回のリサイタルではメクリスト不在。けど、演奏は滞りなく進む。なにか、秘策があるに違いない、それは休憩時間中に分かった。出てきた人が、フットスイッチのようなものをピアノ椅子の足元にセットしてたのだ。あー多分、それが譜めくり磯に違いない!!それを踏んでめくるんだ、きっと。いい物見つけたぞ~~!!

 ということで、帰ってから速攻検索。ちゃーんと出てくる。しかも、いつものアマゾンでなんと6000円弱で手に入るのか??たまげたなあ。。。。商品名は「ページターナー」というんだそうな。

 これの何が画期的かというと、暗譜から解放される~~から。

 暗譜、記憶力テストじゃあるまいし、何でやらなくちゃならんのか、全く意味不明だと思ってたんだけど。この件については、かつてN饗の指揮者をなさっていた岩城宏之さんが、の中で凄い話を書いておられたので、プロでも苦労するんだなあと感じ入ったのだ。
エピソード1:岩城さんの指揮が、若い音楽評論家にこき下ろされたことがあって、その評論家は、別の指揮者を「暗譜で振った」のがすごい、と絶賛したんだって。しかーし、その指揮者が暗譜で振った曲が「未完成」と「アイネクライネナハトムジーク」だったという。そんな曲、悪いけど自分だって振れるくらい、拍子だけなら超簡単、暗譜なんて別にしなくったって、曲を大体覚えてれば(で、クラシックファンなら誰だってほぼ覚えてるくらい有名)できるんだよね。クラシック評論家なんかそんなもん、という話。
エピソード2:変拍子の連続で超難しい「春の祭典」を暗譜で指揮して、振り間違えて、オケが止まっちゃった話。冷汗が出ますよ~~。

 暗譜して弾かなくちゃならない、という変な掟は、最近出来上がったものらしい。これも岩城さんの本に出ていたのだが、暗譜で初めて指揮したのはトスカニーニで、この人はめちゃくちゃ弱視で、暗譜しないとどうにもならない状況だったらしいのだ。必要に迫られてやむなく、だったのに、それを見た聴衆が「すご~~い」となって、他の指揮者もやらなくちゃならなくなった、ということなんだそうな。クラシックも結局はショービジネスで、評論家連中も含めて、聴く人を唸らせないと、次の仕事がしづらくなる。でもね、暗譜っていうけど、結局はただの暗記ショー、音楽表現とは全く別物の話なんだけど。

 あとね、発表会とかでも暗譜を強制されて、それで音楽がやんなっちゃう人って存外多いんじゃないかとも思っててね。

 患者さんがこないだ、こんな話をしていた。その方はエレクトーンをせっせとやっていたのだが、5級に上がれず、そこで挫折したという。5級というのはエレクトーンの先生資格が取れる級なのだそうだが、そのためになんと11曲も暗譜で弾かなくちゃならなかったんだと。無茶っすよ。その方曰く、「みーんな、そこでやめちゃってると思う」との事。エレクトーンについては、生徒の上達欲を利用して楽器を買換えさせたりする、ヤマハのえぐい商売にかなり問題ありと思っていたのだが、そんなトラップまで仕掛けとるのかい。呆れたもんだ。


 ただ、今やってるバッハについては、暗譜が必要、というより、曲の途中で何回も譜めくりが出てきちゃうので、曲を一曲通しで弾けないという困ったことが起きていて、結局曲が分かってる人に譜めくりをしてもらうか、暗譜して弾くしかないのかなあ、しかーし難しすぎて、どうやっても譜面から目が離れない。これじゃー結局、まともに弾けないじゃないかと思ってがっかりしていたのだ。

 しかーし、この画期的な道具を発見、どうにかなるんじゃないか?

 
 今回のリサイタル、伴奏の方はもちろん、樫本君も、譜面を置いて弾いていた。曲は有名な物ばかりで、彼ならおそらくもう、何回も本番にのせているはずなんだけど、それでも譜面を置く。自分的にはうんと誠実に思える。もう、こんなことどうだっていいじゃんねえ、テクノロジーに助けてもらえば、そのほうがうんと生産的ですよ。暗譜に使う時間を楽器に使えるもの。
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