バッハ(ブゾーニ編曲):トッカータ、アダージョとフーガBWV.564
コラール「主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ」BWV.639
コラール「今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ」BWV.734
バッハ(リスト編曲):プレリュードとフーガBWV.543
リスト:ハンガリー狂詩曲(第1番~第6番)
ピアノ:サンソン・フランソワ
CD:EMI CLASSICS 7243 5 68731 2 4
このCDは、フランスの名ピアニストのサンソン・フランソワ(1924年―1970年)がバッハとリストの曲を1枚に収録したもので、フランソワ独特の激しい情念が渦巻いたフランソワファンにとっては誠に貴重な録音である。フランソワは、ラテン系のテンペラメントをベースとしており、ドイツ・オーストリア系のピアニズムとは一線を画した演奏スタイルに終生徹した。得意なレパートリーは、ショパン、ラヴェル、ドヴュッシーなどフランス系の作曲家の作品で、優れた録音を現在に残している。晩年にはジャズに関心を示し、自ら演奏したほど。ラヴェルも自らの作品にジャズの要素を取り込んだものがあり、両者の感性には共通するものがあるようだ。フランソワの演奏は、型に嵌ったものとは無縁で、演奏自体が即興演奏になっている。一旦興に乗ると一気呵成に弾きこなし、圧倒的な迫力でリスナーを酔わす。フランソワが苦手とするのがドイツ・オーストリア系の作品で、「ベートーヴェンの作品は嫌いだ」と公言して憚らなかったという。ところが、そんなフランソワが録音したベートーヴェンのピアノソナタのCDは、ドイツ・オーストリア系のピアニストには到底真似できない独特な演奏スタイルの名演となっている。
フランソワの今回のバッハの演奏もベートーヴェンのピアノソナタに似たことが言える。通常のバッハの演奏とは、いささかどころか大いに異なり、急-緩-急の「急」の部分は、感性の赴くまま、これでもかと言うように一気呵成に弾き進む。逆に急-緩-急の「緩」の部分は、情念の限りを尽くして、ロマンチックな曲を弾くように弾き進む。この結果、いつもの聴きなれたバッハの曲が、新しい光が当って光り輝くような不思議な体験の世界に引きずり込まれる。バッハの曲がこんなにも精気を帯びて聴こえることは滅多にないであろう。フランソワのピアノは、既成概念をテンから認めようとしないようにも聴こえる。そして、そんなフランソワの世界に浸っていると、バッハとリスナーとの距離が狭まり、親近感溢れるものに変貌を遂げる。バッハの曲は、何となく宗教っぽく、威厳ががあり近づきがたいという印象が強いが、フランソワの演奏を聴くと「バッハの曲は現代人にも通じる音楽性に溢れており、楽しい音楽だよ」とでも主張しているかのように感じる。そう言えば、以前バッハの曲をジャズにアレンジして大ヒットしたことがあったことを思い出した。フランソワのバッハ演奏は、そんなことを思い出させる名演なのだ。
このCDに収められたもう一つの曲が、リスト:ハンガリー狂詩曲(第1番~第6番)である。リストは、2011年は生誕200年の記念すべき年に当っている。リストと聞くと私などは、"奇行のピアニスト”といった通俗的イメージを直ぐ思い浮かべるが、実はバッハなど古典曲の発掘に誰よりも熱心に取り組むなど、地道な活動を行っていた音楽家でもあった。例えば、ベートーヴェンの交響曲の全曲をピアノ曲に編曲したのもリストであったし、このCDでも取り上げられいるバッハ:プレリュードとフーガBWV.543の編曲なども手掛けている。現在、我々はなにげなく“クラシック音楽”という言葉を使っているが、リストが古典曲を発掘し、現代に蘇えらすことがなければ、現在のような豊かな作品が揃っていなかったのかもしれないのだ。このほか、リストは現在の“リサイタル”の形式を創造するなど、後のクラシック音楽界に大きな足跡を残している功労者でもあるのだ。生誕200年の今年は、リストの作品を改めて聴いてみるいいチャンスでもある。
そんなわけで、フランソワの弾いたリスト:ハンガリー狂詩曲(第1番~第6番)を聴いてみよう。リストはハンガリー出身であり、ハンガリー古来の民謡を取り入れて作曲したと自分では信じていたようだが、少々違っていたようだ。実際にはロマ(ジプシー)のバンドが演奏していた曲だったようなのだ。まあ、その辺はリストがジプシー風の曲を作曲したのがハンガリー狂詩曲なんだと思っておけば事は済む。フランソワの演奏は、水を得た魚の如くリスト:ハンガリー狂詩曲を弾く。もう感性が先にあって、手が自然に動き始めるといった感じだ。劇的な表情を随所に見せながら、物悲しいジプシーの音楽を鍵盤いっぱい叩き出す。もうこうなると、ドイツ・オーストリア系のピアニストでは到底表現できない、ラテン系ピアニストだけに許された特権であるとでも主張しているかのような演奏なのだ。何か聴き進むうちにオペラのアリアを聴いているようでもあり、単なるピアノ曲というより、劇の附随音楽みたいに、背後に何か物語が隠されているかのようでもある。シフラもこんな曲を得意とするピアニストであったが、フランソワの演奏は、時折見せる知的なセンスが光るところが大いに違う。(蔵 志津久)