「 敗北 」 という言葉があるなら、「 勝南 」 と言う言葉もあるのかと言うと、南には「 勝つ 」 とか 「 勝っておいかける 」 というような表現は無いようです。
北の反対は南だから・・・、という考え方は必ずしも有りと言うことには生らないようです。
しかし、一応は単純に考えて、「 お前はバカか?」 と言われるかも知れませんが、口外しなければ他人にはわかりませんから(アッ、言っちゃった~)、ひょっとするとあるのかな?と思って調べて見ても良いかも知れません。他の例でですが、そういう形で考えてしらべてみたら、ある場合もあるかも知れないし。
今日は、地域の社会福祉協議会の行事に参加しました。もっとも、私は参加と言うより主催者側の一員ですが。
先ずは、この炎天下に常陸太田市という古い町の見学です。ここは米屋さんです。
古い家です。左側には米つき機もありますが、写真ではうまく写りません。それよりも梁がむき出しになっていて、天井裏にあたる部分の木組みがよくわかります。
左はフランス料理店だったところで、右は元の銀行で今は蕎麦屋さんになっています。
この蕎麦屋さんには、何度か行ったことがあります。鴨南蛮が美味しいですね。
そのすぐ近くにある坂道。女学校である太田第二高等学校、略して 太田二髙 の生徒が登下校するのに上り下りする坂道としてNHKの不確かですが、たぶん 「 小さな旅 」 で紹介されたことのある坂道です。
これは醤油屋さん、自家製の醤油を販売しています。店の中が古いですね。
私は、福助人形があったので、それもイイナと思って撮って見ました。
ここの建物は奥に住まいがあるのですが、築300年だそうです。
その昔、この町出身の人で函館で成功した人が町に寄付をした建物
鯨のような形をしている丘のうえにお城があったのだそうで、それを中心に発達した城下町です。
元は江戸時代になってから秋田に移封された佐竹氏が納めていた土地です。
新羅三郎義光と言われた源 義光の子が、この土地の佐竹というところに住み着いたことで、佐竹を名乗るようになったのだとか。
その後、徳川御三家は水戸に本拠地を構えて、常陸太田は空っぽになったので、隠居後に二代目の藩主である光圀(いわゆる水戸黄門)が隠居を作りここに住みました。
この建物はそのレプリカというそうですが、この地に住み 「 西山荘(せいざんそう) 」 と称しました。テレビドラマの「水戸黄門」ではときどき、この西山荘が出てきたことがあります。
高台から見た町の様子
その後は、本格的な研修です。障害者支援施設を見学しました。知的障害者の社会的自立のための生活作業 支援業務 を行っている施設です。
いろいろと難しいことに取り組んでいて、説明してくれた職員の方は自分で障害のある子を持っている方で、さまざまな苦労の話と、施設と作ることに大きな実績をあげたその苦労話をきかせてくれました。
一緒に見学に行ったメンバーの中に、そう言う子を6歳まで預かる施設にいる人がいたのですが、そこの施設を出た人がここに何人も来ていることを知り、感動の再開があったりして、とても嬉しかったようでした。
ちらっと、数十分いただけで、あれこれ述べられる立場には無いのですが、とても考えさせられる見学でした。