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「浮雲」(1955年 日本映画)

2022年02月16日 | 映画の感想・批評


 太平洋戦争の最中、農林省のタイピストとして仏印(ベトナム)へ赴いたゆき子(高峰秀子)は、農林技官の富岡(森雅之)と恋に落ちる。終戦を迎え、妻との離婚を約束して富岡は一足先に帰国するが、ゆき子が訪ねると離婚の意志はなくなっていた。終戦直後の混乱の中、ゆき子は生きていくために米兵の情婦になったり、いかがわしい新興宗教を始めた義兄に囲われながら食いつないでいく。
 富岡は伊香保温泉で飲み屋の若妻おせい(岡田茉莉子)と関係ができてしまう。妊娠に気づいたゆき子が富岡の新しい住居を訪ねると、夫から逃げ出したおせいが同居していた。失意のうちに中絶したゆき子は、病院のベッドでおせいが夫に絞殺されたことを知る。
 病死した正妻の葬儀費用を借りるために富岡はゆき子を訪ねた。これまでの修羅場が嘘であったかのようにゆき子の心に富岡への愛情が蘇ってくる。富岡が辺境の地、屋久島に単身赴任することが決まると、自分も連れて行って欲しいと懇願する。二人は屋久島に向かって旅立つが、鹿児島でゆき子は体調を崩して寝込んでしまう。富岡はゆき子を医療設備の乏しい屋久島へ連れて行くことをためらうが、ゆき子の気持ちは変わらない。やがて辺境の地へ辿り着いた二人に永遠の別れが待っていた・・・
 原作は林芙美子。成瀬巳喜男の代表作であり、映画史上に残る名作だと言われて久しいが、意外なことに「浮雲」には成瀬らしいユーモアやあいまいさがない。原作がシリアスなためにユーモアをはさむ余地がなかったのだろうか。成瀬は劇的な破局や悲劇を嫌い、結末をあいまいで不安定なままにしておくことが多いが、この作品のラストは極めて劇的でドラマチックである。これには脚本を担当した水木洋子の意向が反映していると言われている。鹿児島港を船が出る場面をラストシーンにするつもりだった成瀬に対して、水木は屋久島の場面まで描くように主張した。結末を明らかにすることにより、ゆき子の悲劇性が高まり、「浮雲」は恋愛映画として印象づけられることになった。
 原作では屋久島の場面の後に最終章があり、鹿児島に戻った富岡は<浮雲>のような己の姿を述懐する。主人公は富岡であり、タイトルの「浮雲」は富岡自身を指している。原作のテーマは富岡の人生そのものなのだが、水木は最終章を削り、ゆき子を主人公とする女性映画に作り替えたのだ。
 この作品を「男女の腐れ縁、道行、究極の恋愛映画」と論じる評論家が多いが、むしろ愛の不毛、愛の不可能性を描いた映画ではないか。富岡はかつてはゆき子を愛していたが、今は愛していない、いや愛せないのだ。ここにこの映画の隠されたテーマがある。富岡は伊香保温泉でゆき子に次のように語っている。
「君と僕の間が昔通りの激しさに戻るわけでもないし、そのくせ僕は女房にも昔のような愛情をもっているわけでもないんだよ。まったくどうにもならない魂のない人間ができちゃったものさ」
 富岡は妻にもゆき子にもおせいにも愛情を注ぐことができない。価値観を喪失した虚無主義者であり、あえて言うなら第一次世界大戦後に登場したロスト・ジェネレーションの作家達が描く主人公に近い。女とアルコールに溺れ、心に病をかかえたニヒリストであり、3人の女を破滅させたHomme fatal(オム・ファタル/運命の男)でもある。なぜ生きる気力を失ってしまったのかははっきりと描かれていないが、戦争が少なからぬ影響を及ぼしていることは想像するに難くない。
 愛や人生に意味を見出し得ない男と、どのような困難があっても生きることを疑わない女のコミュニケーション・ギャップの悲劇。これが作品の根底にある。富岡が屋久島に渡ろうとしたのは一種の遁世であり、ゆき子は最果ての地まで世捨て人を追いかけて行ったのである。富岡は何度も別れたいという意思表示をしているのに、ゆき子は諦めきれない。騙されても裏切られてもついていく。不可解で愚かとも思えるゆき子の行動に人々は驚き、悲しみ、魅了される。谷崎潤一郎の言う「愚かと云う貴い徳」を持っているゆき子に観客は感情移入してしまう。
 ゆき子と富岡は林芙美子の心が生み出した、相反する二つのキャラクターではないか。幼少の頃より貧しさの中で懸命に生きてきた林は、満たされぬ愛情を求め続ける情念の人でもあった。苦労の末に作家として認められ、特派員として南京や武漢に赴いたときには、皇軍を手放しで賛美する軍部寄りの従軍記を書いている。その一方で累々と横たわる馬や人間の死骸に感覚が麻痺していく心境を吐露し、戦争の苛酷な現実に無力感を抱き続けていた。<情念と虚無>という矛盾した感情が林の中で共存するようになり、それがゆき子と富岡の人物造形に反映したのではないか。
 ゆき子が鹿児島で病に伏せるのはいささか唐突であるが、これによって葛藤が生まれ、終盤に向けて緊張感が高まっていく。ラストシーンで富岡は仏印時代の幸福に満ちたゆき子を回想し、遺体に取りすがって号泣する。ゆき子を失って初めて彼女への愛情に気づいた、と多くの観客は思うかもしれないが(まるでフェリーニの「道」のように)、これは一時的な感傷にとらわれただけで、富岡の深層は変わっていないのではないかと思う。それよりもゆき子が病に倒れず、最果ての地で二人が末長く暮らせたら、富岡の病は徐々に癒されたかもしれない。時間と環境が空虚感を埋めてくれるからだ。ゆき子が生き続けたら、愛が虚無を乗り越える瞬間が来たかもしれない。惜しむらくは花の命のみじかさである。(KOICHI)

監督:成瀬巳喜男
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
出演:高峰秀子 森雅之 山形勲 岡田茉莉子 加藤大介