古浄瑠璃の研究に余念のない六左衛門のところに、
一中節の「峰雲賤機帯」(おのえのくもしずはたおび)
のリメイクの依頼がきた。
(一中節については、1月25日に記載)
六左衛門の妻は一中節の名取りでもあり、
六左衛門は嬉々としてこれを長唄に編曲。
山王神社の本祭の付祭で披露された(1828年)。
すると今度は六三郎が「吾妻八景」を作曲(1829年)。
六三郎は冒頭に河東節を使い、さらに上調子をつけた。
上調子は本来浄瑠璃のもので、長唄が使うものではなかった。
それをあえて使うというのも、六左衛門が一連の浄瑠璃復活で、
上調子を頻繁に使うようになったことへのあてつけだろうか。
あるいは、「おれだったらこう使うがねー」という先輩風なのか。
50を前にした大御所が、30前の若造に過剰反応するほど、
六左衛門の才能は並外れていたということだが、
それにつけても、二人は何から何まで反りが合わない。
これまでにすでに外記節で「猿」と「傀儡師」を作り、
外記節ならおまかせあれ!の六左衛門が、今度は外記節「石橋」を作曲(1830年)。
(「石橋」については2月14日に記載)
そしてこの年、六左衛門は10世を襲名し(前名、三郎助4世)、
記念に河東節の「翁千歳三番叟」を外記節に編曲した
「翁千歳三番叟」を発表した。
この曲はすでに六三郎が悪ふざけで、廓バージョンに編曲、
「廓三番叟」などと称して発表している(1826年)。
六左衛門は「石橋」同様、これを河東節の正統に軌道修正したのだ。
「翁千歳三番叟」は今日でも特別な曲とされていて、格式の高さではピカイチ。
だが、儀式曲としての性格が強いせいか、あまり演奏されることはない。
「こしゃくな奴じゃ」と、六三郎。
六左衛門の作った「石橋」は外記節の「石橋」だ。
長唄石橋物の嚆矢は「相生獅子」に決まっておると、
今度は「相生獅子」を廓バージョンに仕立て直した「俄獅子」を発表(1834年)。
(「俄獅子」は2月13日に記載)
六左衛門は41才になった。
六左衛門の好きな河東節はすでに消滅し、
9世を継ぐべき人もいない。
六左衛門は中村歌右衛門(4代目)の八変化で、
河東節の「助六」を長唄で再現してみた(1839年・中村座)。
これがまた見事な仕上がりで、河東節と何ら遜色がない。
長唄の三味線弾きは、初期の段階から外記節などの浄瑠璃の三味線も弾いたし、
掛け合い(セッション)などで交流が密だったせいか、
何でもそれなりにこなしてしまうという、マルチタレント性を備えている。
後に大雑摩を吸収合併し、常磐津風(「靭猿」・1869年)、
義太夫風(正治郎「横笛」・1887年)などの曲が作られるようになると、
長唄の表現範疇がどんどん広がっていくのだ。
一中節の「峰雲賤機帯」(おのえのくもしずはたおび)
のリメイクの依頼がきた。
(一中節については、1月25日に記載)
六左衛門の妻は一中節の名取りでもあり、
六左衛門は嬉々としてこれを長唄に編曲。
山王神社の本祭の付祭で披露された(1828年)。
すると今度は六三郎が「吾妻八景」を作曲(1829年)。
六三郎は冒頭に河東節を使い、さらに上調子をつけた。
上調子は本来浄瑠璃のもので、長唄が使うものではなかった。
それをあえて使うというのも、六左衛門が一連の浄瑠璃復活で、
上調子を頻繁に使うようになったことへのあてつけだろうか。
あるいは、「おれだったらこう使うがねー」という先輩風なのか。
50を前にした大御所が、30前の若造に過剰反応するほど、
六左衛門の才能は並外れていたということだが、
それにつけても、二人は何から何まで反りが合わない。
これまでにすでに外記節で「猿」と「傀儡師」を作り、
外記節ならおまかせあれ!の六左衛門が、今度は外記節「石橋」を作曲(1830年)。
(「石橋」については2月14日に記載)
そしてこの年、六左衛門は10世を襲名し(前名、三郎助4世)、
記念に河東節の「翁千歳三番叟」を外記節に編曲した
「翁千歳三番叟」を発表した。
この曲はすでに六三郎が悪ふざけで、廓バージョンに編曲、
「廓三番叟」などと称して発表している(1826年)。
六左衛門は「石橋」同様、これを河東節の正統に軌道修正したのだ。
「翁千歳三番叟」は今日でも特別な曲とされていて、格式の高さではピカイチ。
だが、儀式曲としての性格が強いせいか、あまり演奏されることはない。
「こしゃくな奴じゃ」と、六三郎。
六左衛門の作った「石橋」は外記節の「石橋」だ。
長唄石橋物の嚆矢は「相生獅子」に決まっておると、
今度は「相生獅子」を廓バージョンに仕立て直した「俄獅子」を発表(1834年)。
(「俄獅子」は2月13日に記載)
六左衛門は41才になった。
六左衛門の好きな河東節はすでに消滅し、
9世を継ぐべき人もいない。
六左衛門は中村歌右衛門(4代目)の八変化で、
河東節の「助六」を長唄で再現してみた(1839年・中村座)。
これがまた見事な仕上がりで、河東節と何ら遜色がない。
長唄の三味線弾きは、初期の段階から外記節などの浄瑠璃の三味線も弾いたし、
掛け合い(セッション)などで交流が密だったせいか、
何でもそれなりにこなしてしまうという、マルチタレント性を備えている。
後に大雑摩を吸収合併し、常磐津風(「靭猿」・1869年)、
義太夫風(正治郎「横笛」・1887年)などの曲が作られるようになると、
長唄の表現範疇がどんどん広がっていくのだ。