これは歌川国貞(3代目豊国・天明6~元治元・1786~1865年)
の浮世絵、「古今名婦伝・中万字の玉菊」だ。
梅素亭玄魚(ばいそてい げんぎょ)が記したとある。
玉菊とは吉原中万字屋の遊女の名で、
死後「玉菊灯籠」という年中行事になって、その名を残した名娼だ。

書き入れにそのいわれが書いてある。
「享保の頃 新吉原中万字屋の遊女玉菊は
さばかりの美女にもあらねど その素性(さが)よきうまれにして
諸人に愛せらるる事 廓中(くるわ)に比ぶものなし
その頃 拳相撲(けんずもう)というをもっぱら流行せしが
玉菊その上手のきこえありて 黒びろうどにて拳まわしを作り
錦糸をもて紋を縫わせ 拳相撲に用いしとかや
享保十一年三月二十九日死す 年二十五才
浅草光感寺に葬る
此の年の新盆より 玉菊追善の軒灯籠を始む
又 竹婦人(ちくふじん)俳人乾什(けんじゅう)が追善の浄瑠璃は
三回忌の手向けなり
玉菊も河東の三弦(さんせん)をよくひきしゆえ
十寸見蘭洲(ますみ らんしゅう)催して 水調子(みずじょうし)を綴(と)じものにいたしぬ
たまゆらの句に
灯籠に なき玉菊のくる夜かな」
十寸見蘭洲は吉原遊女屋の主で、十寸見河東の跡を継いだ人物だ。
乾什も遊女屋の主で、河東節の作詞を担った。
玉菊は河東節の三味線の名人だったといわれているから、
三味線と唄本、それと無類の酒好きだったらしいから、チロリと盃も描かれている。
の浮世絵、「古今名婦伝・中万字の玉菊」だ。
梅素亭玄魚(ばいそてい げんぎょ)が記したとある。
玉菊とは吉原中万字屋の遊女の名で、
死後「玉菊灯籠」という年中行事になって、その名を残した名娼だ。

書き入れにそのいわれが書いてある。
「享保の頃 新吉原中万字屋の遊女玉菊は
さばかりの美女にもあらねど その素性(さが)よきうまれにして
諸人に愛せらるる事 廓中(くるわ)に比ぶものなし
その頃 拳相撲(けんずもう)というをもっぱら流行せしが
玉菊その上手のきこえありて 黒びろうどにて拳まわしを作り
錦糸をもて紋を縫わせ 拳相撲に用いしとかや
享保十一年三月二十九日死す 年二十五才
浅草光感寺に葬る
此の年の新盆より 玉菊追善の軒灯籠を始む
又 竹婦人(ちくふじん)俳人乾什(けんじゅう)が追善の浄瑠璃は
三回忌の手向けなり
玉菊も河東の三弦(さんせん)をよくひきしゆえ
十寸見蘭洲(ますみ らんしゅう)催して 水調子(みずじょうし)を綴(と)じものにいたしぬ
たまゆらの句に
灯籠に なき玉菊のくる夜かな」
十寸見蘭洲は吉原遊女屋の主で、十寸見河東の跡を継いだ人物だ。
乾什も遊女屋の主で、河東節の作詞を担った。
玉菊は河東節の三味線の名人だったといわれているから、
三味線と唄本、それと無類の酒好きだったらしいから、チロリと盃も描かれている。