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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

CIE

2012-02-02 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
CIE


CIEは戦後日本の文化・教育等、
社会学的な問題に関する施策をGHQに
助言するために、1945年(昭和20)9月に設けられた機関。

教育全般・教育関係者の適格審査・各種メディア・芸術・宗教・
世論調査・文化祭保護など、広範囲の諸改革を指導、監督した。

中でも各種教育制度改革案に関しては、
GHQの要請により設けられた教育刷新委員会等を通じて関与した。

教育刷新委員会は文部省からの影響力が及ばないように、
総理大臣の直属にあった。

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第三次吉田内閣

2012-02-01 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
第三次吉田内閣


しかし、なんの効果もなく虚しく年は明け(昭和24・1949年)、
残された時間が迫る。

決死の陳情を続ける中、またしても吉田内閣が総辞職。
第三次吉田内閣が発足した(2月16日)。

今度の文部大臣、天野貞祐は哲学者で、
しかも小宮の友人だ。

こんなことしていては大学昇格決定までに時間切れとなってしまう。

3月の終り頃、吉川は邦楽科設置委員数名を伴って、
当時 内幸町にあったNHKの一室に局を置く
GHQの民間情報教育局(CIE)に直訴に出向いた。


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photo by 和尚
 

邦楽科教官総辞職

2012-01-31 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
邦楽科教官総辞職


国会陳情は、回を重ねても目に見えるような効果は現れない。
それどころか、邦楽科教授という権益を守りたいために
ごねている、と解釈をするマスコミ、識者も現れ始めた。

邦楽科設置委員会の志はそんな次元の低いものではない。 
真に邦楽の行末を危惧してのことだ。

教官たちは最後の手段として、
職を辞して運動を続ける決意をした。

12月10日、箏曲の宮城道雄・能の宝生重英
長唄の稀音家六治(山田抄太郎)ら教官25名は、
声明書を作成して潔く総辞職した。

この大変なニュースは、早速翌日の朝日新聞に掲載された。


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photo by 和尚

再び国会陳情

2012-01-30 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
再び国会陳情


懸念されていた教授会は小宮の骨折入院で中止となり、
邦楽科設置委員会は10月18日、お茶の水分教場で緊急協議会を開いて、
対策を協議し、声明文を発表した。

再び国会への陳情が始まったが、
芦田内閣から第二次吉田内閣に変わったばかりで、陳情の相手も変わる。
一からのやり直しを余儀なくされ、お先はまっ暗だ。

白足袋に着物、袴をつけた吉住小三八教官などは、
陳情の道すがら吉田内閣反対のデモ隊に取り囲まれ、
「吉田の子分か」と、詰め寄られ怖い思いをしたという。

吉田首相は着物好きで、白足袋内閣といわれていたのだ。

実際のところ、小三八は国民服以外の洋服をまだ持っていなかったのだとか。
だから着物を着て陳情に行くのは嫌だったらしいのだが、
議院食堂の鰻丼につられて行っていたのだそうだ。
この頃、まだ鰻丼も珍しい。
時に小三八、41歳。


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photo by 和尚

吉川、反論文を起草

2012-01-27 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
吉川、反論文を起草


小宮はこの掲載文を東京音楽学校の全教官に見せ、
1週間後に教授会を開くという。

驚いた邦楽科設置委員会は、吉川に反論文の作成を頼んだ。

吉川としては恩ある小宮校長に反旗を翻すわけだから、
心情的には辛い。
しかし、邦楽の将来を考えれば躊躇している暇はない。

複雑な思いで起草した反論文は10月3日、洋楽の教官全員に配布された。


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photo by 和尚