本来は弾き唄いという、地歌の組唄から派生した長歌が、
かぶきに付随した江戸長唄となってからは、
恐らくは先行芸能の浄瑠璃の形体を真似たのだろう、
唄と三味線が分業になった。
もっと、もちょっと前までの(少なくとも昭和後期)の唄うたいは
稽古でも三味線は弾かず、地弾き(じひき・伴奏者)に弾かせていたという。
昭和48年(1973)に亡くなった7世芳村伊十郎師は
「弾き唄いをすると、芸が小さくなる」
とおっしゃっていたと、文子先生から伺ったことがある。
今でも国宝の宮田哲男師は、稽古には地弾きを連れるという。
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tea break・海中百景
photo by 和尚
