チェロ五十代からの手習い

57才でチェロに初めて触れ、発見やら驚きを書いてきました。今では前期高齢者ですが気楽に書いてゆこうと思います。

レッスンでつかめたこと (プロレッスン4)

2007年08月31日 01時44分58秒 | レッスン
 先生のお宅に向かうのが正直、憂鬱だった。G線のダウンボーイングの繰り返しなのだが、たったそれだけのことがつかめない。やればやるほど迷いが出てくる。その挙句前よりも悪くなってゆく気がする。
 先生に様々なアドバイスをいただいてきたが、今日行ってもさらに迷宮に入り込んでしまうんじゃないか。先生のがっかりした顔を見るのがつらい・・

 気を取り直し、時間通り、元気を出して笑顔で訪問。そして2時間が経過。迷宮にはまり込んでいる自分を完全にもてあましている。この2時間、何とかしたいと思うから、様々な質問をし、先生はその都度真剣に答えてくれた。しかし上手く行かない。
 疲れきった挙句、先生も僕もはっきり気づいた。「いろいろ考えるのは止めましょう」「全部忘れてゼロから」と指示してくれたことが今日のヒントになった。

 (これまでの時間いろいろ試してみた。『弓の中ほどからは、弓を向こうに押すように』『右手を折り曲げるように』『曲げるんじゃなくて、畳むというほうが分かりやすいかな』『そのとき右ひじは・・そうですね少しひねってますね』・・・僕が発する言葉、言葉、言葉。質問の洪水に先生も付き合わされてしまって、きっと本来の練習から逸脱していたんだ)

 で、最終アプローチとは・・

 <弓を親指と中指の二本だけでもって(持ち方はどうでもいいです)、ただひたすら長く鳴らしてください。何も考えず、今までのことは全部忘れて、力を抜いて、弓が落ちないように、弓の角度だけを意識して弾いてください>

 全てを忘れて、ただ長く音が鳴り続けるようにするとどうだろう。二本の指先だけけなので、弦をプレスする力も弓を持ち上げる力もほとんどゼロなのに、楽器が大きく鳴ってくれた。しかも弓は落っこちない!!

 <出来たじゃないですか。それでいいんです>

 あぜん。分かっているつもりだった。リラックスして、全ての緊張をほぐして、力を抜いて、弓を引くだけだと。
 でも、今回のエクササイズで「体感」したのはそんなことじゃなかった。一番の驚きは「弓は落ちない!」ということ。そして身体の緊張が楽器を押さえつけていることを。
 心のどこかで思っていたんだろう。「重力で弓は落ちる。弦は押さえつけないと大きく鳴ってくれない。そして右腕は手首を返して、フィニッシュはこんな形に・・云々」

 今日「身体がつかんだ」ことと、自分への教訓を書いておこう
①弓は弦を噛んでいるので落ちない。弓の角度によっては弦を上り始める。
②力を抜いた人に、楽器は豊かに応えてくれる
③左手の押さえも力を抜き、ただ留めるだけのほうが、大きな音がする。
④楽器が鳴るんであって、自分が鳴らしているのではないのだ

自分に・・
⑤頭の中の常識、整合性は、現実に起きることとは異なる。
⑥形から入るだけではだめ。形と本質は異なる
⑦自分は極端に、言葉・論理による「理解」に走る傾向が強い
⑧理論(理解)と実践は全く異なることを、身体も心も信じていない(かった)
⑨分かっているようで、全く分かってない!

 ああ、やんぬるかな! こんなまとめ方をすること自体が自分の癖、これが落とし穴だと、書いてみて再度認識。でも書かないと「気がすまない」のが自分の「癖」なんだなー。
 言葉言葉の無限ループ。言葉の洪水・・夜の寝言・・それらの出口、曙光が見えた気がする。
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仕事の不安からちょっと抜け出し CDと合奏してみる

2007年08月30日 01時47分32秒 | その他雑感
 仕事が続きオケの練習に参加できないでいる。仕事のせいで帰宅は夜中ばかり。でも仕事は悪くないんだ。この仕事は自分で選択した道。好きな仕事をしながら、あこがれていたチェロも始めたのだから。仕事も中途半端、チェロも中途半端なのは嫌なので、優先順位は「まず仕事」の形をつけてから、チェロという順番。

 それでも不安とストレスが夜中に出る。仕事と一部チェロの夢を見てうなされているらしい。
 妻に言われた「あなたは夜寝てる間も仕事をしてる。少し言葉を発するのを止めたらどう。静かに瞑想するのもいいわよ」 うーん、おっしゃるとおりだけど・・
 仕事の仲間にも出張先で言われた。「寝ながら仕事してますね。はっきり分からないけど、商談してるのはわかりますよ」
 さらに学友の山小屋作りを手伝っていた夜には・・「健全じゃないぜ、その状態だと、夜休んでないということだろう、何とかしたほうがいいぜ」

 こう立て続けに指摘されると、確かに追いこまれていたようだ。それでもいつしか仕事の山場は過ぎ(心のプレッシャーが通過したのであって、仕事の本質は変わってないのだが・・)ようやく、ほっこりできそうな時間も取れるようになった。

 思えば50数年間、何とか生きてこれたんだから、これからだって新しい壁を乗り越えてゆけるし、そう簡単にへこたれたり、人様からの信頼を失ったりするなんてないんだと感じるべきなんだと思う。
 私には「心の癖」というものがあって、不安や心配が先に立ち、いつの間にか不安心理の中に浸りこんでしまうことが多い。そのことを私の仕事のパートナーであるプロの仕事人に話すと「要は悩んでるのが好きなんですね」と言ってのけてた。

 「ちきしょう、なんちゅうこと言うの!」と思っても、確かに不安や心配を味わっているのが好きなのかもしれないと思いなおす。これってマゾ的傾向? 
 でも もうそろそろそんな癖=心の傾向を脱してもいい年頃になっているんだ。冷静に実績・経験・これまでの自分の歩んだ足跡を振り返り、受け止めて「自己信頼」してあげよう。
 「明日もきっとうまくゆく」「顧客もきっと自分への信頼を裏切ることはない」と楽観的に見られるように脱皮してもいいんだから。

 本日も「不安」に駆られて、ある社長をホテルオークラで捕まえ、仕事の途中経過を共有したりした。その結果は・・予測どおり(これ嘘です、不安の中では予想もできなかったのですが)、なんら自分への信頼は失われていず、むしろ社長との2時間のコミュニケーションを楽しむことができ、さらに相手も私との時間から刺激を受け取ってくれたと実感できたのだった。

 だったら、結局そういう結果の連続が、今の自分をつくってくれているんだから、もっと自分を信頼し、人生を楽しむべきだと思う。楽観的に、大きな構えで、自分自身をも可愛がってあげないと。
 「自分を信じることが出来ない人間に、人を信頼することはできない」とその社長も話の合間で言っていたなー。

 かくして、久しぶりにチェロを取り出し、ギコギコやってみた。毎日10分でいいからチェロも可愛がってあげよう。CDのベト7にチューニングを合わせて、オケと一緒に練習している気分。次にチャイコフスキーのバレー組曲にも挑戦。
 オケで置いてけぼりの状態が再現されるけど、無用な不安、自責から少しばかり離れ始めているのを感じることができた。
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チェロの技能向上への道は遠かった!?!?

2007年08月20日 22時29分47秒 | チェロ
 夏はチェロの遅れを一気に追いつけるチャンス!休みに入ったら練習するぞ!と意気込んでいたのに、そんな簡単には行かないのが技術や技能の世界なんだ。練習し、失敗し積み重ねた時間だけ前に進めることは分かってはいても、目と手と頭がバラバラで楽譜に沿った演奏はできない。

 まるで小学生の夏休みの宿題と同じ。僕が小学校4年生のとき、8月31日に一気に1月分の宿題をやりきろうと取り組み始めた。気がつくと夜の10時。ドリルやら研究やらは出来ても、最後に残ったお裁縫が終わらない。枕カバーを作って明日は学校に持って行かなければ・・花柄の図案を決めたのはようやく夜中の11時。一針一針刺繍してゆくものの、全然進まない。

 とうとう柱時計が12時の時を告げる。ボーンボーン。そのあとはただコチコチと柱時計の音だけが起きている。当時の小学生にとって夜中の12時を過ぎるなんて別世界。なんで出来ないのか涙が出てくる。すると母親がやってきて、そっと針と布を手に取ると、さっさっと仕上げてゆく。その見事さに驚くものの「これじゃ僕の作品にならないよ」と駄々をこねる。でも一方で絶対自分じゃできないことも分かっている、ただ泣きじゃくるしかできなかった・・・

 そんな遠い記憶がよみがえる夏の一日。今でもおんなじだ。チェロ。全然上手くならない。

 何が悪いんだろう。一つには、オケの譜面は、今の自分のレベルの運指では不可能なフレーズがある。そうだ!指板の上でどんなポジションがあるのか、一覧表を作ろう。早速パソコンに向かって、1弦から4弦まで全てのポジションの一覧を作る。すると、オクターブまで行かなくても案外隣や、さらにお隣の弦で音が取れることが分かる。これはいい発見! なんだかチェロが弾けるようになった気分だ。しかし分かっていたのだ。ポジションが分かっても、目と・指と頭が連動しなきゃ弾けない。一覧表つくりになんだかんだで1日費やしてしまった。

 もう一度、地道に行こう!と練習を始めると、今度はシャープ5つとかフラット5つとかの譜面に全く歯が立たないという壁にぶち当たる。つまりCDで聞く曲と、自分が演奏するチェロパートでは感じが全然異なり、何が正しい音程か、全くわからない。

 そうだ!チェロで弾く前に、自分が演奏しようとしているのはどんなフレーズなのか歌えなけりゃ!そのためには、何かキーボードが必要だ・・と今度はロフトの中からカシオートーンを引っ張り出す。しかし探せども探せども電源装置が見つからない。代替品を探し続けてとうとう2日目が終了。

 そして練習3日目。やはりピアノが欲しくなった。たしかにリビングにはあるが、でっかい音をマンションでは出せないし、チェロのそばで使えない!そうだ!第二のカシオトーンを買おう!きっと数千円だろう・・しかしいまやカシオも1万以下のピアノはなかった。

 それでも諦めずに捜していたら、何とぴったりのピアノを見つけた!まるで紙のようにくるくる巻きにして、しかも音が出る「ロールピアノ」というものがDIYセンターで販売されていた。
 ほとんど試し弾きもせず、購入。自宅の机の上にクルクルと広げると61鍵の立派なピアノに・・・

 でも でも、そうなんです。チェロ向上への道のりを歩んでいるように見えて、実は、チェロそのものの技術は何にも進歩してなかったのです。
 本当の中心課題、真ん中を放っておいて、周辺を一生懸命かき回している・・・こうした自分の行動パターンが子供時代と全く変化していないことにあきれるやら、自らを哀れむやら・・こうして夏休みは終了したのでありました。



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プロレッスン 鉛筆を持つことで小さな前進に

2007年08月09日 21時37分50秒 | レッスン
 プロオケの先生のレッスンの3回目。練習に入る前に、アマオケの譜面を見て、さわりを少し弾いて見せてくれた。それから弓によって音が異なることも教えていただいた。僕の10万円代の弓、先生所有のカーボン製で1万ちょっとの弓、そして先生が使用しているプロ仕様の弓。
 微妙な違いだけど全然違う。先生の弓だけが、ソリッドというか、くっきりとしたまとまった音が飛び出してくる。僕の弓は「けっこう音が芯まで届くのに時間がかかりますね」とのこと。
 音が楽器の芯から出てくることかな・・先生はいつも楽器と対話しているようだ。少し弾いてボディーを十分鳴らした後「これでずいぶん鳴るようになったでしょ」という。芯・・音にも芯の音と、表面をなぜただけの音があるのだと思う。

 今の練習は、G線の開放弦を、ただひたすらダウンで弾ききるだけ。「これができればチェロの60%は出来たことになるから」と何度も何度も繰り返す。アップの返しはダウンが出来てからでいいそうだ。
 同じ楽器でもG線開放弦を同じ弓で先生が弾くと、全然豊かさがちがう。ドーっと滝のような太い音が連続してあふれ出してくる。僕が弾くと小川のように、ときに途切れ途切れになったり、何しろ安定しない
 要するに、どこかに、無駄な力、力みが入っていて「楽器は押し付けるような演奏をするとすぐ反応する」らしい。全ての力を抜いて、ひたすら弦と糸とが噛み合った状態からスタートして、その状態を維持する。決して弦に対して圧力を加えないこと・・何度も何度もやってはみるものの、「力を抜く」ことができない。

 悪戦苦闘したものの、これで次には前進できるという確証が得られぬまま、あっという間に2時間近く経ってしまった。どうも行きつ戻りつして、前回前々回の状態より悪くなっているような、重苦しい気分になってきた。
 そのとき、先生はとうとう鉛筆をもってきた。「これを弓の代わりに持ってみて」。先生ももう一本の鉛筆を持って比べたところ、「あっ親指の向きが違う!」と気づいた。

 これまでチェロの教則本も、ゴーシュさんのHPからも、沢山の情報を得ていたが、アマオケに入って力ずくで演奏に加わっているうちに、親指が伸びきってしまい、あるいはなんとか速いパッセージに追いつかんとして爪を立てたり、めちゃめちゃ力みかえった持ち方になっていたんだと思う。その挙句、腕や親指の痛さをカバーしようと、脱力しすぎたり・・

 右手の中に小さくたたまれた親指の形状は、なかなか外からは発見できない。先生はひたすら音を聞き分けて「力が入っている」「角度が変わった」と指摘してくれていた。
 最後は、鉛筆を持つ状態にして、初めて気づいた「小さな間違い」。しかしその小さな間違いが身体全体、演奏全体の大きな間違いに繋がってりまう恐ろしさ。

 ちょっとだけ、次に繋がるヒントを得てレッスンを終了。諦めず、しょうもない初心者にとことん、あの手この手で付き添っていただける先生を持てて幸せだ。
基本の基本、小さな違いにこそ土台であることは、全ての世界で共通していると感じる。
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オケの練習日の前夜に・・

2007年08月05日 00時36分45秒 | オケの練習
 ハイトーンと、8分音符の一部をさらったけど、とても練習には間に合わない。Blogに向かうより、チェロを抱えて譜面台に向かったほうがいいんだけど、さすがに夜中に音を出すのは気が引けるし、今からアリバイ工作的に、指の動かし方を練習してもたかがしれてるし、疲れてるし(今日は土曜なのに朝から夜9時半まで会社にいた)、練習してもすぐどうにかなれないし、し、し、し・・・てな、てな言い訳をしてる。

 よし、少し譜面くらい見よう!せめてヘ音記号だけでなく、テナー記号(だったけな)を読めるようにしておこう。あのアルトとかテナーのマークを見ただけで、即、両手が止まってしまうという情けない状態だけでも、明日は抜け出そう(だから鉛筆でソとかラとかレとか書き込んじゃった)。


 ジャカジャカ、ジャカジャカの高速運転は当分参加できそうもないけど、明日は四ポジションでぎりぎりの世界にも、果敢にチャレンジしよう。白鳥の導入にも、チャレンジするのだ!(いつも下向いて黙っているなんて、哀しいから)

 あー明日終わったとき、これらの決意はどのような結果になっているのやら・・「不安」が結果を予告するとろくなことはない。「決意」が結果を予測すると勢いはつくけど成果が伴わない。「身の丈」が自らを解放し、現実に直面し、その結果を受け入れるなら、きっとその先につながるだろう。

 そう、これから「身の丈」を大事に、一歩一歩積み重ねる生き方を学んでゆこうと思う。

 思えば、一歩一歩なんていう階段の昇りかたをしたのは、今日が生まれて初めてだった気がする。これまでは一段飛ばしとか、駆け上がり、駆け下りる生き方をしてきた。先週右膝をひねってしまい、やむを得ずこの一週間は、全ての上り下りにエスカレーターやエレベーターを利用したが「これではまずい」と感じた。

 やはり一段一段でいいから、しっかり足の裏全体で階段を踏みしめるように登ることにした。やってみたらなかなか味わい深いものだ。一歩一歩、足を踏み出せば、一段一段頂上に近づいてゆく。そして終わりのない階段はないんだ。こんなシンプルな出来事が、なんだか嬉しい一日だった。

 そう、あしたはそのチェロの階段を一段だけ昇る日なんだと思って、大切な一日にしようと思う。
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全く歯が立たない8分音符の山、到達できないハイトーン

2007年08月01日 00時02分17秒 | オケの練習
 このところ、オケの練習は「白鳥の湖」「ベートーベン交響曲第7番」「イーゴリ公」「ゴジラ」と週代わりで行われている。好きな曲と馴染みがない曲があるのはしかたない。好きな曲なら、どんなに歯が立たないフレーズでも、それなりに何度でも聴いて「いつかぼくだって近づいてやるー」とファイトも沸くんだけど・・(正直、白鳥はとてもまともな音程を取れそうもないハイトーンが出てくる。4ポジションから先、小指までならなんとかハッタリで出せても、指板を離れ、空中をさまよい、更に先のシとかレとか、とても怖くて挑戦できない。それに、何と表現したらいいか、痙攣レベルの速さで弓を動かしつつ、その速度で左指が弦の間を渡り歩くなんて「不可能」と思ってしまう。)

 それも結構。その苦労は、いずれ・近い将来・きっと美しい音楽のサウンドで報われると信じて・・。

 でも、なんで「イーゴリ公」が「ダッタン人の踊り」じゃないんだろう。ダッタン人ならStranger in PradiseとしてJazzのスタンダードナンバーにもなっているし、せつないオーボエのフレーズ、それを追っかける弦の響きに癒される思気持ちになれるのに・・・なんでOuvertureなの?
(指揮者も「こういう曲はね、シカゴフィルとか技術を誇示するプロの大オーケストラがやるとかっこいいんだけどね」などとおっしゃっていました)

 これ、つまり八つ当たり?馴染みのない、やたらスピードの速い、とても追いつけそうもない世界に、完全に置いてけぼり。まだまだ未熟な僕に何も言えないけど、周回遅れの中距離マラソンランナーの気分。せめて、途中気持ちの良い風が吹き抜ける峠とか、清水の湧き出る木陰なんかがあってさ、それなりの人でも楽しいコースを走りたいというわけ。

 それに比べると、自分で聴くことはなかったけど(今年の初めに草刈民代さんと国立レニングラードバレーをたまたま見てきていたのは全くの偶然)、チャイコフスキーの曲にはちょっとした湧き水も、美しい眺めもあって「参加していて」嬉しい。残念ながら、まだ「参加」としかいえないのが苦しいけど、でも部分でも参加しがいがあるというもの。

 うーん、あまり音楽的にどうということは僕にはいえないけど、きれいな曲はきれい。センチメンタルも好き。果たして聞く人にとってはどうかわからないけど、難しい曲より、美しい曲の方が耳に心地よくて喜ばれるのではないだろうか。

 少し仕事しすぎて疲れ気味のときも、分かりやすい曲は慰めになるし、初心者の励みと思って、この夏特訓にはげもう。
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