半年間に渡って練習を繰り返してきた大曲レクイエムが無事終了した。
終わっての感じ方がいつものコンサートとちょっと違う。何だろうと思っていたら、そうだお正月みたいだ、と思い至った。一年間仕事に追われ、最後は倒れこむように年末年始のお休みに入り、年が明けてほっこりしている・・あのお正月気分なのだ。
別にクリスチャンでもないけどクリスマスにはなぜかクリスマスキャロルなど聞いて敬虔な気持ちになって、すぐ初詣して、なんとも不思議な国民なんだけど、これらの行事がないと年が越せないというのは愉快でもある。ベルディーの「レクイエム」との格闘はそんな体験が凝縮していたような気がする。
さて演奏会そのものだけど、今日ははるばる東京方面から数名の同僚が聞きに来てくれた(しかもチケットを購入してくれた)。そのことは嬉しく楽しいはずなんだけど、舞台裏からステージに出る前から手に汗をかいていた。舞台から見ると同僚たちは前のほうに席を取って笑いかけたりしてくれる。いつの間にか気合が入りすぎていたのか「DIES IRAE(怒りの日)」のフォルテシモのキザミのところで弓を取り落としそうになってしまった。この2年一度もこんなことなかったのだから、やっぱ緊張していいとこ見せようとしていたのに違いない。ひょっとしたら皆に気付かれたかもしれない。
そんな小さなハプニングがあったものの、演奏会そのものは順調に進み、1時間40分のレクイエムは大成功だったと思う。
自分はといえば、いつものとおり、本番というのは普段の8掛けの実力発揮がいいところなのだろう。今回は弾けないところははっきり自覚し、自分なりに姿勢・態度を決めての参加を志していたにもかかわらず、軽い飛び出し、音外し、見失い(今どこ?状態)が散発してしまった。でも一方で、自分の実力と「等身大」の演奏を積み重ねる境地にだんだん近づいてきているのは前進だと思おう。
そんなこんなの中で幾つか発見を書いておこう
1)優れた演奏者の音は客席から識別できるのだ・・・これは家内が明言していることなのだが、チェロ席に座っていたプロの先生の音は(トップではない)圧倒的に客席に届いていたらしい。そして「第二バイオリンの女の子の音がきれいだった」。これだけで僕にはその女性が誰なのか分かったのだ。つまり家内のような音楽素人の人にも、美しい音色を出す演奏家ははっきり識別されているといいうことだ。格好だけではだめ、本当に美しい、遠くに届く音色を出せなければ通用しないんだ!
2)女性演奏者の見る目は怖いのだ?!・・・ゲネプロでの出来事。プロの声楽家と合わせ練習をしたのだが、指揮者から声が♭になりがちとの指摘を受け、何度かその場で演奏を繰り返した場面のこと。それを楽器を休めて見ている女性団員たちの表情の変化が凄い。特に管楽器の団員はちょっとでも声が揺れたり♭あるいは♯に偏ると顔をくしゃくしゃにしてまるで「抗議している」みたいになっている。同じ呼吸を使う楽器だからなのか、感性が鋭いからなのか、単に同姓に厳しいだけなのか・・・でもその厳しさこそが管楽器奏者を独り立ちさせているのだよな。でもオッカネーっ!
3)伴奏音楽も面白い・・・このことはチェロの師匠から「結構面白いものだよ」と聞かされていたのだけど、レクイエムは始めなかなか好きになれなかったなー。それがソリストや合唱と合同演奏してみると、彼ら彼女らの呼吸と一体となって演奏しないと音楽にならないことが感じられ、練習を続けるうちに、指揮者・声楽家・オケ全体に目配りをして「合わせてゆく」楽しさが感じられるようになった。 思えば、いろいろなソナタでピアノ伴奏をしている人がいるけど、きっと合わせること、ともに音楽することの楽しさを感じているのだと思う。それがオーケストラ全体で出来たら凄いのだが・・・
4)プロの方々も楽しんでいたんだ・・・演奏会終了後にソリスト4人から講評があった。講評と言えばオケの演奏会のあといつも指揮者やトレーナーの先生から辛口の講評があるので、覚悟していたら、むしろ演奏会に参加でき嬉しかったことを率直に語ってくれていたのが新鮮だった。ベルディーのレクイエムは初めてというソプラノ、テノールの方も「難しい曲」で挑戦的であったとの趣旨をおっしゃっていた。アルトの方はイタリア留学以来10年の夢がかなったと喜ばれていた。こんな「講評」は何回聞いても楽しいだろうなーなんて思った。
さて、お正月気分はあっという間に過ぎることだろう。さ来週から定期演奏会の練習が始まる。今回のような大規模な演奏会ではないけど、一歩一歩何かをつかみとって前進したいものだ。
終わっての感じ方がいつものコンサートとちょっと違う。何だろうと思っていたら、そうだお正月みたいだ、と思い至った。一年間仕事に追われ、最後は倒れこむように年末年始のお休みに入り、年が明けてほっこりしている・・あのお正月気分なのだ。
別にクリスチャンでもないけどクリスマスにはなぜかクリスマスキャロルなど聞いて敬虔な気持ちになって、すぐ初詣して、なんとも不思議な国民なんだけど、これらの行事がないと年が越せないというのは愉快でもある。ベルディーの「レクイエム」との格闘はそんな体験が凝縮していたような気がする。
さて演奏会そのものだけど、今日ははるばる東京方面から数名の同僚が聞きに来てくれた(しかもチケットを購入してくれた)。そのことは嬉しく楽しいはずなんだけど、舞台裏からステージに出る前から手に汗をかいていた。舞台から見ると同僚たちは前のほうに席を取って笑いかけたりしてくれる。いつの間にか気合が入りすぎていたのか「DIES IRAE(怒りの日)」のフォルテシモのキザミのところで弓を取り落としそうになってしまった。この2年一度もこんなことなかったのだから、やっぱ緊張していいとこ見せようとしていたのに違いない。ひょっとしたら皆に気付かれたかもしれない。
そんな小さなハプニングがあったものの、演奏会そのものは順調に進み、1時間40分のレクイエムは大成功だったと思う。
自分はといえば、いつものとおり、本番というのは普段の8掛けの実力発揮がいいところなのだろう。今回は弾けないところははっきり自覚し、自分なりに姿勢・態度を決めての参加を志していたにもかかわらず、軽い飛び出し、音外し、見失い(今どこ?状態)が散発してしまった。でも一方で、自分の実力と「等身大」の演奏を積み重ねる境地にだんだん近づいてきているのは前進だと思おう。
そんなこんなの中で幾つか発見を書いておこう
1)優れた演奏者の音は客席から識別できるのだ・・・これは家内が明言していることなのだが、チェロ席に座っていたプロの先生の音は(トップではない)圧倒的に客席に届いていたらしい。そして「第二バイオリンの女の子の音がきれいだった」。これだけで僕にはその女性が誰なのか分かったのだ。つまり家内のような音楽素人の人にも、美しい音色を出す演奏家ははっきり識別されているといいうことだ。格好だけではだめ、本当に美しい、遠くに届く音色を出せなければ通用しないんだ!
2)女性演奏者の見る目は怖いのだ?!・・・ゲネプロでの出来事。プロの声楽家と合わせ練習をしたのだが、指揮者から声が♭になりがちとの指摘を受け、何度かその場で演奏を繰り返した場面のこと。それを楽器を休めて見ている女性団員たちの表情の変化が凄い。特に管楽器の団員はちょっとでも声が揺れたり♭あるいは♯に偏ると顔をくしゃくしゃにしてまるで「抗議している」みたいになっている。同じ呼吸を使う楽器だからなのか、感性が鋭いからなのか、単に同姓に厳しいだけなのか・・・でもその厳しさこそが管楽器奏者を独り立ちさせているのだよな。でもオッカネーっ!
3)伴奏音楽も面白い・・・このことはチェロの師匠から「結構面白いものだよ」と聞かされていたのだけど、レクイエムは始めなかなか好きになれなかったなー。それがソリストや合唱と合同演奏してみると、彼ら彼女らの呼吸と一体となって演奏しないと音楽にならないことが感じられ、練習を続けるうちに、指揮者・声楽家・オケ全体に目配りをして「合わせてゆく」楽しさが感じられるようになった。 思えば、いろいろなソナタでピアノ伴奏をしている人がいるけど、きっと合わせること、ともに音楽することの楽しさを感じているのだと思う。それがオーケストラ全体で出来たら凄いのだが・・・
4)プロの方々も楽しんでいたんだ・・・演奏会終了後にソリスト4人から講評があった。講評と言えばオケの演奏会のあといつも指揮者やトレーナーの先生から辛口の講評があるので、覚悟していたら、むしろ演奏会に参加でき嬉しかったことを率直に語ってくれていたのが新鮮だった。ベルディーのレクイエムは初めてというソプラノ、テノールの方も「難しい曲」で挑戦的であったとの趣旨をおっしゃっていた。アルトの方はイタリア留学以来10年の夢がかなったと喜ばれていた。こんな「講評」は何回聞いても楽しいだろうなーなんて思った。
さて、お正月気分はあっという間に過ぎることだろう。さ来週から定期演奏会の練習が始まる。今回のような大規模な演奏会ではないけど、一歩一歩何かをつかみとって前進したいものだ。