今日もやっぱりぬこ日和 ~ぬこは扶養家族~

3ぬこと寡の日々の写真日記
でも猫画像は少ないです。

そしてぷぷぽも・・・

2012年05月15日 | 日記と飯とうちの猫
にょーぼの容体がやや悪化していたころ、実はぷぷぽにも変化訪れていました。

やたら鳴くことがことが多くなって、動きが鈍くなってきました。

そして決定づけさせたのが、トイレの回数。

5分おきに踏ん張るものの出るものなし。痛みに伴う鳴き声が響く。

病院に行く前の様子。何の抵抗もなくゲージに収まる。

医者に連れて行くとやはり尿毒症。尿道に石がつまり、毒素を含んだ尿が臓器に悪影響を与えてしまう病気です。

治療としては管を尿道に入れ強制排泄をさせます。見た画像は真っ赤でした。

最初の血液検査は異常値だらけだったけども治療をしてからの数値は範囲内に治まりました。

しかし病院から「食欲がない」と言われ、数値も戻ったので退院しました。

ちなみに63000円です。

トイレで構えても鳴きません。ああよかったなと思ったものの、出るというよりしずくが垂れる程度の量。

そりゃ水も飲まないんだから当たり前だが、とにかく食欲がないのが気になる。
挙句には力尽きてトイレに伏せてしまうように。餌を食べないから力がないのか。

それでもロフトベッドに乗る体力はあるように思えたが、ここから動かなく、わずかの排泄をちょろちょろしていたため、

ねこ鍋ベッドを床置きにし、病院から食欲促進剤の錠剤をもらう。

それでも食欲はわいておらず、水も飲む気配がなかった。
それが13日の画像です。

14日は仮眠所で過ごして15日に帰ってきても姿が見えない。

まあ押入れの奥にでもいるかと呑気にしていたけどなかなか出てこない。
所在だけでも確認しようとしたけど押入れにはいない。

どこだ?

居たとこはベッドのパイプと押入れにあるケースの間に挟まっていました。

落ちたわけでもないようですがなんかカリスマシンガーがアパートの敷地で亡くなっていたのて同じような雰囲気でした。

脚は若干硬くなっていました。目はすでに濁っていて「こんな終わり方嫌だ」と訴えている感じでした。

タオルで拭いてあげて閉じきれない眼は隠すようにしました。

きらにいわぷぷぽ 本名フク 病死 4歳9か月。

私は「虹の橋でどうとか」の表現は嫌いです。

ぷぷぽは外で生き続ける兄弟、もいちを長生きさせるため自分の命の分をもいちにあげたのです。

本日は

2012年05月14日 | 日記と飯とうちの猫
家庭裁判所に行きました。

まさか離別してから行くとは思いませんでした。
用件は義妹の相続放棄の書類を貰う為です。

まあ本来相続は私であるのに離婚したため被ることになった罪滅ぼしですがね。

婚姻を続けていても私が放棄するので、義妹に相続が移るのは変わらないんですけど、早い分だけサービスで。

↓ UFOにも見える今朝がたの月



いつの間にか

2012年05月13日 | 日記と飯とうちの猫
昼間は薄手のシャツ一枚でいいようになりましたね。

それに反して朝晩の冷えること冷えること。

昼間帰る時も夜出勤の為にジャンバーを持って帰るから暑かったりかさ張ったりするんですよね。

昼間だけ~夜だけ~行動するならさほど影響ないんですがね。

↓ 何やら神妙な顔で…



お疲れです

2012年05月12日 | 日記と飯とうちの猫
やる事がありすぎますね。期限が迫っているという事案はないんですが、なにぶん私は相続人ではないので法定相続人の義妹を交えての手続きになるんですよ。

向こうも働いているし、時間が合わなくて合った時にまとめて書類を作成しなくてはです。

でその書類はどのようなものがあるかも調べないとなりません。

専門家に任した方がいいんですがねぇ~。


17時30分~

2012年05月11日 | 日記と飯とうちの猫
宣告を受け、私は日本歯科大に電話した。献体の為に遺体を引き取ってもらう為だ。

普通なら出入り葬儀屋によって自宅なり斎場なりに搬送して
通夜を迎えて最後のお別れをすると思うが、
献体登録をするとすぐ引き取られる。

死後24時間以内が原則だからだ。

住むこともなかったアパートに運ぶとか、ちびはま達の待つ家にとも考えたが、
すぐ引き取ってもらうことにした。

検査着から白い浴衣みたいなものに着替えもらい、やがて霊安室に移された。

まぶたを閉じることはできたが、口は呼吸をしていたため閉じることができなかった。

20時15分、引き取りに来てとうとうお別れとなった。

担当医や職員も頭を下げる中、私だけがすぐ顔を上げ、天を仰いだ。

こぼれるものが多すぎるからだ。

一週忌を過ぎたので

2012年05月10日 | 日記と飯とうちの猫
ブログを再開します。

話す相手がいないって。
寂しいっていうよりきっついんですよ。

そんな口数が多いわけではないですが、
思ったこと、感じたことを言葉や文字に
できないのは意外と精神的にきますよ。

ブログは日記みたいなもんですから
日々のことを書いていきます。

そりゃ悲しいですよ。
でも「亡き妻にささげる詩」なんて
私一人思えばいいし、他人に
読んでもらうなんて悲しみの押し売りでしょ。

葬儀がない代わりに手続きとかが
色々かかります。

私にはまだ残されたちびはまたちを
育てなければなりません。

悲しいですが表に出していては
何も進みません。

明日からもよろしくお願いします。
これが祭壇。遺骨、遺灰がないため霊安室に行く前に少々の髪を切って代用としています。
他にメガネ、たばこ、ちびはまたちの写真集、飲むことのなかったビールが置いてあります。

遺影も頼もうと思いましたが、どうしても質が落ちてしまうため結婚式の時の写真をそのまま飾っています。

にょーぼの好きな色の緑のドレスをまとっています。

花はブロ友さんからいただきました。てっきり菊とかの定番を送ってくださるのかと思ったら多彩な色の花を送っていただきました。ありがとうございました。

妻を看取らば~闘い抜いた8ヶ月~

2012年05月02日 | 妻を看取らば

話は去年の8月まで遡る。

にょーぼが「お腹の調子が悪い」と口にするようになり、
行きつけの病院で診てもらうことにした。

検査をして何が原因なんだろうねと話していたある日、
にょーぼから「医師が家族も同席してほしい」と言われ、
どんな診断なのか不安にかられながらも医師の話を聞いた。

「胃がんの疑いがあります。」

初め聞いた時、なんでにょーぼがと思った。
家系にがんを患った親族はいないからである。

でも本人を前にしてそういう事を言うのだから
たいしたことないだろうと楽観的だった。

にょーぼが席を外した時、医師は改めて言った。

「胃がんに間違いありません。」
「完治は難しいでしょう」

がん細胞はリンパ腺に乗って体の至る所に転移する。

因って切除しても他のところで再発することも十分有り得る。

治療は抗がん治療ということで薬を4週間飲み続け、
5週目に入院をして溜まった薬を流し出すという、
日常生活に近い形で治療をしていくものだった。

服用が始まり、9月の第4週に早速入院をした。
10月、11月と同じ様に4週毎の入院が行われた。

こんな感じのが続くのかなと思いながら12月に引っ越しをした。

そう、にょーぼは実の、ただ一人の肉親である妹からがんであるにも関わらず、
出ていけと病床で言われたのである。

その頃から体調が芳しくなく、週4日の派遣の仕事も休みがちになった。
多分薬の影響だろうけど私は「辛くても仕事しなきゃ」と言った。

思いやりのない言葉だとは思ってはいるが、私の収入だけでは心細いのである。

そして「足が痛い」と訴えはじめた。

右大腿部に痛みがあり、それは日に日に酷くなっていった。
杖を使って歩かなければならないが、心ない奴にぶつかられたり、
ゆっくりバスを乗り降りすることに冷たい視線を浴びないか、
痛みを耐えながら懸命に歩む姿を思うと涙が滲んでしまう。

ちょっと動かすだけで痛いを連発。だき抱えて起こし、
幸い部屋が狭いのでそこいらの家具などに掴まって動くことができる。

それでも病院に行かなくてはならないときは、
格安のレンタカーを借りて乗せたり、往復タクシーの利用もやむを得なかった。

やがて新たな問題がわいた。

入院や外来の医療費が払え切れていないのである。
何故払えてないのか、今となっては知る由もないが、
この先も治療や入院があるはずだからこのままでは未払いが増えるだけである。

ソーシャルワーカーさんに相談したところ、
私の稼ぎは多過ぎて低所得での医療費軽減には該当しないと言われた。

最後の手段は離婚をしてにょーぼは生活保護を受けるというものだった。
巷では偽装離婚とか、昼からパチンコに行く夫婦とか本来の目的ではない使われ方が問題になっているが、医療費を負担しなくていいのは助かる話だ。

しかし、男としては情けなく、屈辱的なことである。
にょーぼ一人稼ぎの中で面倒見切れないのである。

私は決断を渋った。しかしにょーぼは心に決めて物件を探しだした。
病院にバス一本で通えるところだ。

その間にも足はどんどん悪化し、病院や不動産屋との打ち合わせのキャンセルが続いた。

こんなんで生活できるのか不安だった。
保護の申請が通ったらずっと入院でいいんじゃないかと考えていた。

そして4月5日、二人は離婚した。あと5ヶ月で結婚20周年というところで。

だからと蔑ろにすることは出来ない。金銭的援助は国がしてくれても
生活の援助はしてやらなくてはならない。

この時は足が痛いのは椎間板ヘルニアに因るものと診断され、
治るまでは訪問介護も必要かなと思っていた。

また、喘息みたいに呼吸が荒れてきて、息苦しいと訴えるようになった。

動けないにょーぼは寝かせ、私は複雑な思いで荷造りをしていた。
主としてのふがいなさとこれからは貯金ができる。自分の為だけにお金が使えると。

引越を前日に控えた4月10日、にょーぼは歩けなくなった。
感覚が麻痺して足に力が入らなくなっていた。

救急車で行きたいにょーぼ、タクシー代わりに使うなという私。

結局は救急車を呼んで搬送された。

たまたま担当医師が救急病棟にいて診てもらうことができた。

「奥様は大変危険な状態です。」

「いつ容態が変わってもおかしくありません。」

「体の至る所に転移して臓器の機能を悪くしています。」

医師の口から発する言葉に光は見えなかった。

歩けないのは骨が溶けてしまっているからだということだ。

肺が苦しいのは水が溜まっているからで、抜いた水は赤くなっていて
そこも冒されているということだ。

「抗がんの治療を止めて痛みを和らぐ治療にします。」

抗がんしないということは転移を繰り返し、
そこの機能を低下させるのも仕方ないということだろう。

「あと延命治療の事もお考え下さい。」

延命と言ってもあと3日の命が一週間に延びる訳ではない。
せいぜい10分というところだ。

人工呼吸器や心臓マッサージの施しをするか否かだ。

それを知らない私は「7月が誕生日だからそこまでは…」なんて言ったが、
医師ははっきりと言った。

「それは叶わぬ願いです。」

いよいよなのかなと思いながらも夜勤をこなし、翌日の引越しに立ち会った。

荷物の搬出‐搬入はあっという間に終わった。
衣装ケースや段ボールしかなかったからだろう。

区役所で転入届を出してその足で見舞いに。
前日は緊急入院でスペシャル個室しかなかったが、今日は一般に移れていた。

いろいろ報告をして翌日、ソーシャルワーカーさんと話した。
すでに役所にアクションを起こしてくれていた。

厄介なことに、10日に搬送されたので前の住所の区であり、
申請が下りても11日からの医療費に適用されると。

それは仕方がないだろうとは思う。

その前に扶養から外れたので保険を切り替えなければならない。

会社経由で書類申請をしたものの、全然こない。

ある日病院から、担当医が話したいことがあると。

「今朝方容態が変わりまして、予断を許さない状態です。」

そして延命処置は人工呼吸や心臓マッサージはせずに
苦痛を感じさせることのないように、全て病院の診療方針に従う事を伝えた。

いよいよもってかと、初めて会社に報告をした。

社長は夜勤休んで付いててやれというけど、働かないと治療費が払えなくなってしまう。

そしてその時が来た後も手筈を整えなければならない。

生前から二人で亡くなったら献体に出そうと話していた。

医大生の為に解剖の実習に身体を提供するというものだ。

登録は何故か歯科大、しかしにょーぼの母、
祖母が登録していた地元の歯科大は人数が多過ぎて
棺を安置する場所がなく、受け付けていない。

それならば火葬をするしかないのか、でも献体も諦められない。

すると日本歯科大学は受付をしているとのことだった。

申し込み書の届くのは待ってられない。
こちらから取りに行った方がいいだろうということで
4月18日に受け取り、翌日には速達で返送した。

せめて書類が届くまでは保ってくれとの思いが通じたか、
症状は治まり(決して良くはならない)
よくしゃべる様になった。

痛みを抑えるため、麻薬やモルヒネも使用している。

ある日行くと個室に移っていた。

イメージとして夜中に何が起こっても
他の患者を起こすことがない=危ないと勘繰ってしまう。
それに個室だから付き添いベッドも用意できると言われちゃ尚更だ。

また、歯科大学に行った日は見舞いに行けなかった、
翌日行くと「もう来ないかと思った」と一筋の涙が流れていた。

元々毎日行くつもりだったが、ずっと寝てて会話なしの時もあったし、
いいかと思った矢先であった。

見舞いは13時~なので、仕事の準備が終わってからの1時間程度の
空き時間に昼メシ、15時前には見舞いを終えて、駅にバイクを止めて電車で家に。

風呂、もしくは仮眠をしたのち夕飯。
出掛けには4皿にご飯を盛ってちびはま達には長時間の留守番をしてもらう。

翌日は昼メシを食べたら仮眠所で寝て、
起きたら見舞いに行くパターンを交互の繰り返してなるべく疲れない様にした。

その頃には4人部屋に移っていたが、現状悪くなるのを遅らせる治療しか行われていない。

痛いと訴えなくなったのは薬が効いているのだろうか、
しかし同時に意識が朦朧としているのがわかる。

短い答えはできるが、長くなると途中で寝てしまい、記憶することや、
考えて物を言うことが難しくなった。

以前出した書類は組合にやっと届き、国民保険の加入となり、
生活保護の相談にとりかかり、必要書類を出して申請の段階までたどり着いた。

しかしGWが役所や病院の動きを阻む。
今までの人生でこれ程GWを恨めしいと思ったことはない。

先月末辺りからろれつが回らなくなり、呼吸も荒くなった。
素人目にも明らかに容態の悪化がわかる。また肺に水溜まってんのかな?
抜いて貰わなきゃ。と呑気に考えていた4月30日のことだった。

5月1日
病院より呼吸、血圧の低下が著しいので明日来てください、とのこと。
もとより昼過ぎには行くつもりだった。

5月2日
7時過ぎに病院から電話。貧血で昨日より呼吸が弱くなって来ている、
来れるなら来て付き添って欲しい、と。

何度めの覚悟だろう。

急にどうなる事ではないが、全ての数値が低下しているので傍
に付いててあげてくださいと。

確かに酷い状態だ。目の下にはクマがあり、呼吸は逆に大人しくなった。

目は閉じたままだが時折見開く、私を認識出来たようだ。

もはや言葉は唸るだけだが、

「水が飲みたいのか?」

「あ゛、あ゛、あう」

ストローをくわえる力もなく、スポイトの様にして口の中に入れた。

これが夫婦の最期の会話であり、施しであった。

時は経ち、反応していた目も閉じたままになり、
呼吸も5秒に一回位になった。脳波はかろうじて動いているが
いつの間にか呼吸をしなくなっていた。

「お疲れ様」

「もう休んでいいよ」

「…ありがとう」

義妹の到着を待って宣告を受ける。

平成24年5月2日 17時30分 幽門前庭部胃癌により死亡 享年43。


GWは車に気をつけよう。

2012年05月01日 | 日記と飯とうちの猫
今日はトモダチと飯とか食べる予定でしたが、電車に乗ろうとしたときメールが来ました。

「横断歩道お渡っていて交通事故にあいました…」(以下略、原文のまま)隙を見てメールを打ったようで、てにをはがおかしく、句読点がありません。かなり動揺しているようです。

幸い打撲のようで一応それでも入院ということです。

多分この後の4連休は実家に帰るはずだったと思いますが・・・

痛みもさることながら精神的なものが痛いと思います。

横断歩道ですからね、止まると思っていた車が止まらなかったという裏切り行為はショックが大きいと思います。

退院後も家にはルームメイトがいますのでいろいろしてくれるとは思いますが、外に出るのが怖いとかになると社会復帰が遠くなってしまいますね。

先月末から京都や千葉で突っ込んだ事故や最近はバスが壁に激突しました。

記事にならない当事者の示談で終わるのも入れれば事故のない日はないでしょう。

原チャに乗っててもなんか運転する者の質が落ちてるなーと感じます。

皆さんも歩くときはもちろん、信号待ちの時も車道に目をやってくださいね。


うちは坂の途中にある真ん中の部屋なので車は突っ込んでこないけど…

そばにいて安心できる存在がほしいですね。