たとえば脳脊髄液減少症・・・・・・

ある日、ソレは突然やってきたかにみえました。
30年前の交通事故の記憶がよみがえる・・・・・・

フランダースの犬

2014年12月24日 | 心に残る言葉

「フランダースの犬」といえば、日本のアニメドラマの定番です。
むか~し昔、この番組で涙された方も多いかもしれませんね。

クリスマスイブの夜。。その悲劇は起こります。
(以下、ネタバレもありますので。。。)

当時(1970年代)のアニメといえば、この「世界名作劇場」が、子供たちのお楽しみの時間でした。
ほんの30分でしたが、わくわくした覚えがあります。
ただ、検索したところ、「フランダースの犬」は当時『カルピスこども劇場』と冠されていたようです。(1975年)
最終回の、感動的なシーンは、その後も何回も放映された事もあり、若い世代の方々にも、知名度はあるのかな。
リアルタイムで見た年代は、40代後半から~って感じでしょうか。

で、「フランダースの犬」を知らない方に、簡単にあらすじを。
今回、初めて、原作を読みましたが、文庫本で約60ページほどで、
翻訳は、あの「村岡花子」さん、装丁は「安野光雅」さんです。

主人公は15歳の少年ネロ、そして、愛犬パトラッシュ。
ネロは、2歳で両親を失い、祖父に引き取られ、貧しいながらも、満ちたりた日々を送っていました。

「ネロとパトラシエはこの世に取り残されたよるべない身の上だった。」(原文の冒頭文)


舞台は、19世紀のベルギーのフランダース地方。
ネロは、年老いた祖父とはミルク運搬業で生計を立てていて、いつか画家になることを夢見てました。
アントワープの中央の大聖堂の二つの祭壇画を見たいと、切望していました。
それはアントワープはもとよりベルギーが世界に誇る、17世紀の画家ルーベンスの絵画で、
見るためには高価な観覧料を必要とするため、貧しいネロにはとてもかなわぬ夢。

ネロの唯一の親友は風車小屋の一人娘である12歳の少女アロア。
アロアの父は貧乏なネロのことを快く思わず、
さらにネロ一家の唯一の収入源であるミルク買い取りの仕事を奪った上、
風車小屋の火事の放火犯の濡れ衣も着せられます。
優しかった祖父もクリスマスを数日後に控えた日に亡くなり。
これでもか、というほどの不運が彼をおそいます。
クリスマスの前日に家賃を滞納していた小屋からも追い出されることに。

クリスマス前日は、ネロが魂を込めて描いた絵画コンクールの結果発表日。
優勝すればきっと皆に認めてもらえるようになる!、コンクールに全ての望みを賭けていたのですが。。。
結果は落選。

アニメでは、少しは「救い」があるように描かれていますが、
原作は、かなりシビアで辛いです。

すべてを賭けた、絵画コンクールに落選して、
絶望したネロは、もう生きる希望を失いました。

ただ、彼の希望があったとすれば・・・・・・・・・・・・
餓えと寒さの中、なんとかたどり着いた、教会の大伽藍(だいがらん)に、
親友パトラッシュと抱き合いながら見たルーベンス。
「これが見られたら死んでもいい」とさえ思っていた、ルーベンスの絵が。。。
「十字架からおろされるキリスト」と「十字架にかけられるキリスト」の絵が。。。
偶然な光と共にくっきり浮かびあがって。

「ネロは立ち上がり両手をその方にさしのべた。はげしい歓喜の涙がその青い顔に光った。
「とうとう、見たんだ!」彼は大声で叫んだ。

「おお、神様、もうじゅうぶんでございます!」

クリスマスの朝、天使たちと旅立っていきました。

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「フランダースの犬」は、悲劇のアニメのように思われる方が多いかと思います。
ただ、今回、改めて、原作を読み直してみて。
作者が、描きたかったのは、「お涙ちょうだい」の世界ではなかったように感じました。

「死」によって救われる「魂」がある。。。

ネロも、あともう少し生きていたら、有名画家の元に引き取られたのに。。
アロア(親しい彼女)の家族に受け入れられたのに。。
とか、歯がゆい想いに掻き立てられるのですが。
でも、違うのですよね。きっと。

これはキリスト教の死生観もあるかとは思うのですが。
苦しいまま長期間、生き延びる事が幸せなのか。
短くても、「生き切る」人生はどうなのか。
「死」をもって永遠なる命を頂ける事もあるのではないか。

今。「脳脊髄液減少症」をはじめ「慢性疲労症候群」「線維筋痛症」
など、原因も治療法も確立せず、難病とも認められてない『難病』
「死んだ方がまし」というほどの症状を抱えた患者さん達にとって、
「死」は大きな救いなのかもしれない。。。

脳脊髄液減少症の患者さんの中には、かなり強力な鎮痛剤さえも効かない方がたくさんいます。
末期がんに投与されるはずの、麻薬の投与でなんとか命をつないでいらっしゃるのです。
それでも、病院では「異常なし」と見捨てられ、家族や周囲の方からも理解されず。
にもかかわらず「死」からも見放され。
その方々にとって、
「死」は、救いかも、と私は思っています。
「死」でしか救われない命もあると思っています。

だからといって、みずからの命を断ち切るのは、ルール違反です。
それは、どんな場合でも許されません。
だって、神様は、その人が背負いない荷物はお与えにはならないから。

少し前、違う病気の方とお話していて、
「完治はないかもね、改善はあるかもしれないけど。
もし完治する時があるとすれば、それは「死ぬ」時よね」って。
思わず笑っちゃいました。
確かにその通りかもしれないね。
もし「死」で、この痛みから救われるのあれば、「死」はそんなに恐れるものではありません。
哀しいものでも、悲惨なものでもありません。
もし、この闘病のゴールに、静謐(せいひつ)な「死」が待っていてくれているのであれば、
私は、その時まで、ネロのように日々を大切に懸命に、すべてに感謝して生き抜きたい。

原作の末尾の文を引用します。

「この世にながらえるよりも二人にとって死の方が情深かった。
愛には報いず、信じる心にはその信念の実現をみせようとしない世界から、
死は忠実な愛をいだいたままの犬と、信じる清い心のままの少年と、
この二つの生命を引き取ったのである」

今宵はクリスマス・イブ
「奇跡」が起こる聖夜でありますように。
アーメン


女子高校生の『願い』

2014年12月07日 | 脳脊髄液減少症

もう師走です。。。

なんだか、毎年毎年、こんな事言ってるみたいな。
闘病していても、日々は「短く」飛び去っていきます。

今年は、異常気象や噴火もあり、
いつも以上に体調を崩されていらっしゃる患者さんが多いようです。
地震とか洪水、噴火は、地球や宇宙からの何らかのメッセージなのかな。
それをモロに心身に受けてしまうのが、「病人」なのかも。。。
でも、「自然と一体化」している感があるのは、幸いなり。

若くして病気を与えられる事は、「不運」と思われがちですが、
以下の文章をお読みになって下されば、
「不運」「不幸」って、一体何なんだろう~~と。
この彼女は、中学2年生で「脳脊髄液減少症」を発症しました。
身体が思うように動けない事で、様々な夢や想いを諦め、封じ込めてきました。
それでも「感謝」の念を、健康な人より、深く豊かに受け取り、
ていねいに、懸命に生きています。

彼女は、先日の全国高等学校定時制通信制生徒生活体験発表大会で、
文部科学省初等中等教育局長賞を受賞されました。
全文は、以下のブログで掲載されています。
(高橋医師は、日本でも数少ない「脳脊髄液減少症」の専門医です)

山王病院・高橋医師のブログより
「願い」

「当たり前に過ごせる何気ない日々が、こんなにも素敵で幸せに満ちていることに気付けて、とてもうれしい。
長野西高校へ入学したことも、脳脊髄液減少症になってしまったことも、きっと私の糧となるだろう。
これまで意に反した選択を沢山してきたけれど、二十年、三十年先にふと振り返った時、懸命に過ごした毎日がかけがえのないものだったと誇らしく思いたい。

だから諦めるしかなかった辛い日々も、悔しさも、悲しさも、決して無駄にはしない。」

(『願い』の中から一部抜粋)



素晴らしいです。
彼女は神様に選ばれた少女なのですね。
おそらく、この世には「不運」「幸運」なんてものはないんです。
「その瞬間」を切り取ったら、あるのかもしれないけれど、
彼女が書いているように、何十年先に振り返った時、初めて見えてくるものがあります。

「あの辛い日々があったらからこそ」今の自分がいる。
不幸な病も、苦しい想いも、ある時、オセロゲームのように、「黒」がパラパラと「白」にひっくり返る日がきっと来ます。
社会も行政も、この少女の、魂からの『願い』を真剣に受け止め、決して無駄にはしないでほしい