無縁仏

昨日、叔母様が亡くなられた。
彼女から最後の時までを託された司法書士の先生から連絡が入った。

78歳だった。
30数年前から可愛がってもらった。
ここ1年位は逢ってなかった。

父の知人だったが父とは何故か疎遠になっていた。

彼女との付き合いは父の紹介
当時割烹旅館を営む女将の彼女に頼まれ
急がし大晦日からお正月泊りがけで
高校生の初アルバイトをしたのがきっかけだったと思う。

その後も付き合いが続き
私の大学時代の友人は皆彼女のファンで、
皆で押しかけ、旅館の大広間で朝まで騒ぎそのまま寝た。
結構お世話になった。

彼女の人生は正しく波乱万丈だった。
良家の子女として生まれ
とても年の離れた旦那様と国家の要人クラスで海外を渡り歩き
旦那様が亡くなってからは
和風庭園の美しい庭を持つ割烹旅館を営み
最後は場所を秩父に移し小さなラブホテルを経営した。

当時、彼女は父に絶大の信用があったので
お目付け役という事で
二人で計画して旅行も行った。
彼女と当時大学に入ったばかりの私。
二人は親に隠れて不良の限りだった。
最高のホテルに泊まり
夜はカジノにディスコ
思う存分遊び
夜遅くまで語り合った。
姉妹に近い親子みたいだった。

大学に行く為に
都内にマンションを購入して貰った時も
彼女は父から依頼を受け
二人で決めた。
彼女は都内を簡単に車で回り
商売柄、不動産に関わる知人も多く居たので
父の条件と私の理想の叶うマンションは直ぐに決まった。

今そのマンションは大学生の次女と従妹が住んでいる。
時はもう30年近く過ぎていた。

子供の居ない彼女は
私と親子に見えることを、とても喜んだ。

何処に行っても
物怖じせず
粋に着物を身にまとい
時にはロングドレスをなびかせた。
いつも彼女の大きな旅行バックは
美しい衣類と宝石でいっぱいだった。

船の旅は特に好きで
トンでもなく凄い友人達と
豪華客船で世界旅行も楽しんだ。

最後の旅行は5年前のチベットの巡業だった。
後から聞いて
すでにこの時彼女は何かを決めていたらしい。

葬儀の3時間前に到着した。
誰も居なかった。
線香を立て
彼女を見舞った。

昔の顔に戻っていた。
彼女が気にしていた皺は消え
私達が馬鹿みたいに遊んでた頃の顔だった。
私の妹も来た。
親が疎遠になっても
引き続き3人兄妹皆が彼女を慕っい
付き合いはずっと続いていた。

小さな葬儀場に
私と妹、そして弟
私の従妹の生花が飾られていた。
たった4っつ
それだけだった。
並んだ生花は兄妹なのに苗字が違う事が
また長い時を感じさせた。

祭壇の花は見たこともないほど少ない。
正面の慰霊の写真も空だった。

彼女の人生が終わる時
ここはあまりに質素で静かだった。

皆の香典で葬儀を賄わなくてはならない事を後で知った。

家の近い妹が急いで写真を取りに戻り
葬儀場に頼んで慰霊の写真に伸ばしてもらった。
とてもいい写真だった。
着物姿に髪をアップにした
上品さが漂う、いつもの優しい
彼女の笑顔だった。

葬儀場の方が
「お身内は居ないと言っておられましたが
お子さんですか?
失礼!とても似てらしゃるので・・」
彼女の目の前だった。
彼女の耳に確かに届いたであろうこの言葉が・・・

想像も出来きなかった目の前のものすべてを
冷静に見ながら
とにかく今彼女の為に出来る事のみを考えていた。

通夜と告別式が一緒だった。
総勢で10人の参列者があった。
喪主は彼女から依頼を受けた司法書士の先生だった。

清めの席では
その人たちの話から
晩年も良き友がいて
幸せだったことが分かった。
それが何よりの救いだった。

最後の半年
彼女は入退院を繰り返し
生活保護を受けていた。
それでも友人に最後までカッコウ付け
意地っ張りだったと言う。
いつでも華があり
この辺に居る人じゃないと言っていた。

彼女のパジャマを取りに行った友人は驚いたそうだ。
彼女はパジャマを持っていない。
すべてシルクのネグリジェだったと言った。
彼女から再度聞いて
昔の古い古い着物の寝巻きを探し出し病院に届けたそうだ。
洗濯物もその友人が引き受けてくれた。

当時の華やかな友人は誰一人居なかった。
彼女の意向で知らせて居ない。
ガスを届けていたガス屋さんの親子。
近所の人
でもその人達が入院中の彼女を暖めてくれていた。
妹も半年前くらいまで
自宅にお弁当を届けたり良く面倒をみたらしい。
その事を随分感謝してたと言っていた。

親に口答えは出来なったが
彼女とはお互い譲らなかった。
最後はどちらかが
「まったく意地っ張りなんだから」と言って
二人笑った。
どちらも意地っ張りで
その上、笑い上戸だった。
笑いが止まらず涙を流し、
痛む腹筋を押さえた。
彼女との思い出の欠けらを集めていたら明け方になった。

今日は火葬場に行く前に
彼女の家に行き
御棺に入れるものを探した。
部屋の壁に私からの12枚の子供写真入り年賀状が
きれいにラップに包まれハガキを傷つけないように
画鋲で止めて飾ってあった。
妹からの子供入りの年賀状も飾ってあった。
彼女にしたらこの子達は孫だったのかもしれない。

年賀状は欠かさなかった。
残りの年賀状が大事に保管されていた。
妹と私のハガキだった。
全部既に処分したのだろう
彼女は私達がここに来ることを知っていた。

高価な物はすべて処分したらしい。
それでも多くの着物とドレスがまだ残っていた。
彼女のお気に入りと見られる着物一枚
おもちゃのようなイヤリングを一つ
ドレス2着を持ち出した。

電気も切られ
カーテンを開けても薄暗かった。
きれいに整理がされていた。
もう随分前に覚悟が出来ていたらしい。

私が最後に逢ったのは
一年前、病院にお見舞いに行った時だった。
狭い病室に沢山のベッドがあった。
私は、彼女を探した。
彼女と目が合った瞬間
彼女は驚き戸惑って
動きづらい指で髪を直した。
そして、号泣した。

もう来なくて良いと言われた。
沢山の思い出があるから
それをゆっくり何度も思い出せるから。
それで十分と言った。

私がもって行ったシルクのガウンは
後でそのまま戻って来た。
理由は理解出来た。

その後退院の話を聞いて良くなったと思っていた。
そのうち行こうと思っていた。
でも気が付くと一年が経っていた・・・

私が彼女の生活の変化に気が付かないほど
彼女は私に実に巧みだった。
豪華な旅行の話と
昔と変った今の気楽な生き方を面白がって私に話した。
ホテルに来る常連さんのカップルとも仲良しだった。

昨日に続き火葬場にも皆が集まってくれた。
誰もが彼女を想う人ばかりだった。
小さくとも暖かな葬儀だった。

彼女は私達がこうする事を知っていた。
最後は私が骨を拾うことを知っていた。

彼女の骨壷は、小さかった。
「無縁墓」に入るからだという。
入るだけの骨しか用意されていなかった。
無縁仏になる。

「無縁仏」の響きがどうにもならないほど
心の臓の底をえぐった。

無縁墓への納骨は
私と妹と司法書士の奥さんの三人に限られた。
司法書士の奥さんが皆に謝っていた。
理由は良く分からない。

無縁仏はかなりのショックだったが
行ってみると武甲山が美しくそびえ
大きな観音様の懐に入れられた。
観音様もいいお顔だった。

いい人生だったに違いないと思った。
彼女は私の中のいつも通りの彼女に戻って行った。

司法書士のご夫婦は彼女との20年来の友人だったらしい。
入院中の彼女を良く見舞ってくれたらしい。
病院を抜け出し
ラーメンや寿しを食べたという。
良かった、本当に嬉しかった。

昔連れて行ってもらった
彼女の馴染みの美味しい銀座の寿し屋が浮かんだ。
彼女はとても美食家だった。

司法書士の奥さんが差し入れた大福
こっそり食べて看護婦さんに見つかり叱られたり・・・
昔から甘いものは目がなかった。
病院でも看護婦さん達に人気だったという。

武甲山を見渡しながら暫らく話した。

依頼されたことは最後まで終わらせる事と
私達姉妹への連絡だけだったそうだ。

「そう言えば」
最後に司法書士の奥さんが言った。
強い薬で意識が朦朧とする中
「今、船で長瀞に行って来た」とヘンな事言っていた。
初めてたまらなく泣けて泣けた。

彼女は彼女のまま
旅立った。
美しく大きな観音様の後ろにはきれいなきれいな武甲山がそびえ
「やるじゃ~ん!!」と
昔のように格好いい彼女に言った。

持ち帰った彼女のお気に入りの写真は
背丈より高いシャンパングラスの塔に
ナイスガイとシャンパンを注ぐ
豪華客船の中の一枚の写真。

彼女は多彩な人生を楽しみ
その時々、多くの人々に囲まれ愛された。
しかしやはり彼女はやっぱこれだろう!

今彼女はこの豪華客船に乗っていることだろう。
きっと先に旅立った素敵なご主人
大切な兄妹、愛する両親、友人。
そして、多くの衣装箱を運ぶイケメンポーター達を従えて・・・


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