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トーク・アバウト・アメリカン

トークアバウトボーラ→300C→アメリカン。最近はアメリカからだいぶ外れてきています(笑)

華麗なる遺産

2010-03-10 01:17:00 | ノンジャンル
今まで、韓流ドラマには(無事に?)ハマらないで来たのですが(笑)
ハマっちゃいました「華麗なる遺産」に(爆)
我が家の録画機正面装備がHDD対応になったことで・・録画バンバン。これが、実に恐ろしいですね。
いつものように満員電車に揺られ出勤し、酒臭い満員電車でクタクタになって帰宅。
疲れていると金太郎飴的な偏向報道一色のニュース番組を最近は見る気がせず、家内がHDDに撮ったのを1,2時間ばかり見てるわけです。その中にこの「華麗なる遺産」が。
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最初は、インフィニティ(スカイライン)クーペってこんなに格好よかったかな?なんて、ぼーっと見ていたら、段々・・「なんだ、この韓国ドラマのような展開は!!」(←って韓国ドラマやん!)と引き込まれてしまった、と言うわけです(笑)
それに、主人公の祖母であるチンソン食品創業者の言葉がいろいろ深いんだよなぁ。
あ、「蒼穹の昴」に続き、このドラマをネタにするのは・・家内に反対されたのをつけ加えておきます(笑)


トークアバウト政治

2010-03-08 21:50:00 | ノンジャンル
中国から帰国しまして・・先週一週間は関東におりました。
銀座のアバクロに続き海外ネタではなく東京ネタ・・と言うかトークアバウト政治なんで軽く読み飛ばしてください(笑)

先週の晴れた一日は・・いろいろあって国会に行ってきました。

議員会館では様々な議員の方にお会いして経済問題から勝手に防衛問題まで(爆)幅広く懇談。
特に、子供手当ての一律支給と、外国人参政権については、いちゃもんつけておきました。今の投票率なら・・かの国から人口の3%送り込まれたら占領されます。まさに平和ボケ(笑)って笑うしかないですが、いけませんね。

携帯で撮った国会議事堂(National Diet Building)

因みにワシントンに行った時に撮影したアメリカ合衆国議会(United States Congress)

まぁ、いろいろ言われていますが、これらの問題(経済や防衛問題など)に対し前政権以上に真剣に考えている議員も数多くいるんですけどね。しかし寄り合い所帯で・・国の事を考えてないプロ市民上がりのわからんちんもいるようで・・「苦労してますか?」「苦労してない訳ないでしょ」って(笑)
それで、ああなっちゃうんでしょうが、国民としてはこれ以上のカラ回りは・・堪りませんね。
これ以上の話は飲み屋で(笑)
ともかく、政治家には地球の裏にまで出かけて最前線で戦うビジネスマンの為に・・日本の将来、国益の為の政治をお願いしたいです。


200,000人

2009-12-11 23:59:00 | ノンジャンル
いつのまにか・・PVではなく、200,000人と言う大変多くの方にご訪問いただいておりました。
300Cの話題から始まり、その他もかなりマニアックな内容のブログにもかかわらず(笑)
本当に、ありがとうございます!

カウンターといえば、人気記事のカウンターも3ヶ月前より設置させていただいております。なぜかトップ10にほとんど変動ありませんが(笑)

もうひとつ、みんカラで流行ってました、どの国からご訪問いただいているか一目でわかる、この国旗カウンターも途中から設置しています。

因みに矢印のTH(タイ)とKH(カンボジア)からのアクセスですが・・ほとんど私です(笑)
カンボジア(プノンペン)ではネットはホテルのロビー備え付けのPCでしか出来ず、しかも、言語はクメール語か、英語。私のブログを探すのは苦労しました。そこで編み出した検索用語は「300C HAMANA」で、これはドンピシャです。・・ってURL覚えた方が早いじゃん(笑)

内輪の話になりますが・・フラッシュ多用のmixiアプリは、これらの国の(ホテル)PCではできません。順位もろもろ・・チャンスです(爆)

・・と、今日も出張先からでして、どうでもいい話になりました。
これからもたまにタイトルから脱線しつつもコツコツやって行きますので、よろしくお願いいたします。

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カンボジア特別法廷傍聴記

2009-12-04 21:05:00 | ノンジャンル
昨日の続きです。
しかし、ャ求Eャgの時代は小学生でリアルに知らない世代ですし・・。どえらい事書き始めたなぁ・・と(笑)
先に逃げをかましますが・・ご興味ない方はキツイですので、ここまでで(笑)

傍聴席に座り、まずは外交官の方から渡された前回までの傍聴記録(日本語)を読み返しました。
当時、尋問担当だったモン・ナイ氏が被告の証人(←被告ではない)として、
「(カン・ケ(ック)・イウ)被告がやっていた事は知らない。私が何も知ろうとしない事は当時の共産党(クメール・ルージュ)の方針にかなっていた。私達はお互い他人の事を気にしてはいけなかった。」
「犠牲となった知人家族の事を考えると悲しい。しかしあまりにも混沌としていた。あの時代、私達はどうすることもできなかった。そして沢山の人が死んでいった・・。」

当時、守衛のヒム・ホイ氏(←被告ではない)は、自分自身が処刑されるのが恐ろしかった、と何度も繰り返した上で、
「1日で100人以上の人が処刑されていった。処刑は毎日朝の9時から始まり、夜中の2時までかかった。私達は夜明け前までに処刑を終えるように命令され、とにかく急がされた。そこに被告(カン・ケ(ック)・イウ)が来ていたが、気にする余裕はなかった。」
と証言しています。
考える事もためらう事も許されず・・。まるで殺人マシーンのように人を殺していく。「他人の事を気にしてはいけない」システムが行き着く所まで行き着いていた事を示しています。
またカン・ケ(ック)・イウ被告自身、数十日にわたる公判の中で、上層部の命令とはいえ拷問や虐殺を指揮してきたのは自分・・と全ての罪を認め、
「カンボジア国民は私を非難することができる」「奪われた多くの権利に比べれば、私の権利などものの数ではない」「私を犯罪者と指さしてほしい。石を投げられても文句は言えない」
とこれまで何度も謝罪を繰り返しているようです。
downニュース画像、コピペできませんのでデジカメで撮りました(笑)

しかし、この日の最終弁論で彼が最後に述べたのは、態度を一変し「これまでの法廷協力と引き換えに釈放してほしい」と言う言葉でした・・。

・・判決が出るのは4月ごろと言う事です。自らを守るために率先して命令に従ったとはいえ、サラリーマンで言えば、部門責任者。身につまされる所もあります・・。
死刑制度がない現在のカンボジアでは最高刑でも終身刑のようですが、どのような判決がでるか、注目したいと思います。

これらャ求Eャg派の行った自国民への虐殺、残虐行為は、平和な日本で暮らす私達日本人には遠い国で起こった、特殊な出来事に映るのも無理はありません。
しかし、たった一回ですが、この法廷を傍聴して思ったのは、どこの組織、集団でも・・このような事は起こりうる事なのだ、と。

新聞からの引用で申し訳ないですが、12月1日の読売新聞に「罪と罰」という、70年代の連合赤軍による凄惨を極めた仲間内のリンチ殺人事件に関する記事中に
「本当はやりたくなかった」
「いつ誰がリンチの標的になって殺されるかわからない、と言う異常な集団心理の下で生き残るためにリンチに加わらざるを得なかった」
とありました。
誰もが他人の苦しみに目も耳も心を閉じた時、恐ろしく閉鎖的なシステムが起動します。無関心、無関与。ただ自分の足元のみを見つめることだけが生き延びる道・・。
今、私達も似たようなシステムの入り口に立ってはいないでしょうか・・。

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カンボジア特別法廷

2009-12-03 23:02:00 | ノンジャンル
プノンペンを離れる最終日の朝・・カンボジア政府のR・T氏が私達が滞在するホテルに顔を出してくれ、思いもかけないお誘いをしてくれました。
「今日が、ャ求Eャg特別法廷(1970年代の大量虐殺に関与したャ求Eャg派元幹部を裁く特別法廷)の結審日なのだが、その裁判を見ていかないか?」
R・T氏とは4年半程前、ホテルの部屋で朝まで酒を飲み交わしながらカンボジアの未来について熱く語りあったことが思い出されます。
今ではカンボジア政府の中枢にいるとのことで、今からでも傍聴席を用意できる、との事。
急な申し出でしたが、トゥール・スレンも見学に行った後でしたし、何より、「なぜ、あのような悲劇が起きたのか?」と言う事に以前より興味もありましたので、寄らしてもらうことにしました。
特別法廷が開かれている場所は、プノンペン郊外のカンボジア陸軍の隣接地にありました。
大した動画ではないですが、こんな所です。(セキュリティ2箇所を通過するところ)
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down建物内には更に手荷物検査が。カンボジア国民のほぼ全員は、親、兄弟、姉妹、親戚・・親族の誰かしらを殺されており、ャ求Eャg派には恨みを抱いてますからね・・。

downこの部屋までは日本の外交官の方が案内してくれました。
(プレス以外のカメラはここまでです)
国連マークが、これが国際裁判、ということを示しています。

この建物をはじめ、この一連の裁判費用の半分は日本が拠出している、とのことです。そんな話初めて聞いたし・・。そういう事はあまり報道されませんね。
down特別法廷グッズ?「半分はあなたの国の税金ですから・・」といただきました(笑)カンボジア特別法廷裁判・・E.C.C.C(Extraordinary Chambers in Courts of Cambodia)と、フランス語の略 C.E.T.C(Chambres Extraordinaires au sein des Tribunaux Cambodgiens)
とあります。

法廷に入ると大僧侶席のすぐ後ろ、最前列から2番目のVIP席に案内されました。後から入ってきて、居並ぶ欧米系マスコミよりも前。超ヒンシュクです(笑)
しかもジーンズですし。(今回はそもそも汚れてもいいような格好で行ってましたから(笑))
しかし、見渡してもイチハシ逮捕の時には、うじゃんこいた日本のマスコミは見当たりません。カンボジア和平当時から、日本人の関心が薄いというのもありますが・・。
ただ、前述のとおり11月28日の読売新聞の国際面には「ャ求Eャg派元幹部を裁く特別法廷、結審」の記事がありましたので、ああ、ちょろっとは来ていたんだなぁ・・。と(笑)

被告が座る所から前は、ガラス張りになっており、裁判官は10名程度。検事、弁護団、裁判官は殆ど欧米人ですが、裁判官には日本人も一人います。
通訳レシーバーで選べる言語は、英語とフランス語。
ネイティブの英語なんて半分聞ければいいところ。傍聴記どころではないですな(笑)

そうこうしているうちにこの日裁かれる被告のカン・ケ(ック)・イウ被告(67)が憲兵に連行されるようにやってきました。
特別法廷では、ャ求Eャg政権の中枢の人物から裁かれており、最後(結審に近いほう)は現場の責任者・・と言った所なのでしょう。
被告はャ香Eラルフローレンを着ていて・・どこにでもいるような穏やかそうな老人で、1万数千人の政治犯への拷問、殺害を指揮した人物には見えませんでした。

カン・ケ(ック)・イウ被告については、以下wikiからですが
(Kang Kek Iew、1942年11月17日 - )は、民主カンボジアの政治犯収容所S21の所長。別名ドッチ(Doch)。
中国系の家庭に生まれ、高校の数学教師だったがクメール・ルージュに入党し内戦時代には首都の北の公安を担当し1975年から1979年までS21を運営した。部下にも囚人にも厳しかった。1979年1月7日にベトナム軍がカンボジアに侵攻しプノンペンを制圧すると姿を消していたが、妻が殺されたことがきっかけとなりキリスト教に入信しタイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。1999年にその過去が発覚すると自らの罪を認め謝罪した。その後、起訴されてカンボジア特別法廷に送られた。
彼自身、中国系である事から粛清の標的になりやすい立場にいた為に、党中央の威光に縮み上がり、その意向に完璧に応えようとした事は想像に難くない。所長でさえこうした姿勢であった為、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。看守には10代の少年少女がなる事が多く、S21の秘密を守る為の粛清の危険に常に晒されおり、実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。

この前日に訪れたトゥール・スレンではャ求Eャgの写真共に掲示され、彼の悪の所業が書かれていましたが、しかし、あの時代のカンボジアでは誰もが、犠牲になる可能性があったのです。

right書き始めて・・一般人がこんな事書くのは無謀な事に気づいてますが・・続く(笑)

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