トーク・アバウト・アメリカン

トークアバウトボーラ→300C→アメリカン。最近はアメリカからだいぶ外れてきています(笑)

カンボジア特別法廷

2009-12-03 23:02:00 | ノンジャンル
プノンペンを離れる最終日の朝・・カンボジア政府のR・T氏が私達が滞在するホテルに顔を出してくれ、思いもかけないお誘いをしてくれました。
「今日が、ャ求Eャg特別法廷(1970年代の大量虐殺に関与したャ求Eャg派元幹部を裁く特別法廷)の結審日なのだが、その裁判を見ていかないか?」
R・T氏とは4年半程前、ホテルの部屋で朝まで酒を飲み交わしながらカンボジアの未来について熱く語りあったことが思い出されます。
今ではカンボジア政府の中枢にいるとのことで、今からでも傍聴席を用意できる、との事。
急な申し出でしたが、トゥール・スレンも見学に行った後でしたし、何より、「なぜ、あのような悲劇が起きたのか?」と言う事に以前より興味もありましたので、寄らしてもらうことにしました。
特別法廷が開かれている場所は、プノンペン郊外のカンボジア陸軍の隣接地にありました。
大した動画ではないですが、こんな所です。(セキュリティ2箇所を通過するところ)
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down建物内には更に手荷物検査が。カンボジア国民のほぼ全員は、親、兄弟、姉妹、親戚・・親族の誰かしらを殺されており、ャ求Eャg派には恨みを抱いてますからね・・。

downこの部屋までは日本の外交官の方が案内してくれました。
(プレス以外のカメラはここまでです)
国連マークが、これが国際裁判、ということを示しています。

この建物をはじめ、この一連の裁判費用の半分は日本が拠出している、とのことです。そんな話初めて聞いたし・・。そういう事はあまり報道されませんね。
down特別法廷グッズ?「半分はあなたの国の税金ですから・・」といただきました(笑)カンボジア特別法廷裁判・・E.C.C.C(Extraordinary Chambers in Courts of Cambodia)と、フランス語の略 C.E.T.C(Chambres Extraordinaires au sein des Tribunaux Cambodgiens)
とあります。

法廷に入ると大僧侶席のすぐ後ろ、最前列から2番目のVIP席に案内されました。後から入ってきて、居並ぶ欧米系マスコミよりも前。超ヒンシュクです(笑)
しかもジーンズですし。(今回はそもそも汚れてもいいような格好で行ってましたから(笑))
しかし、見渡してもイチハシ逮捕の時には、うじゃんこいた日本のマスコミは見当たりません。カンボジア和平当時から、日本人の関心が薄いというのもありますが・・。
ただ、前述のとおり11月28日の読売新聞の国際面には「ャ求Eャg派元幹部を裁く特別法廷、結審」の記事がありましたので、ああ、ちょろっとは来ていたんだなぁ・・。と(笑)

被告が座る所から前は、ガラス張りになっており、裁判官は10名程度。検事、弁護団、裁判官は殆ど欧米人ですが、裁判官には日本人も一人います。
通訳レシーバーで選べる言語は、英語とフランス語。
ネイティブの英語なんて半分聞ければいいところ。傍聴記どころではないですな(笑)

そうこうしているうちにこの日裁かれる被告のカン・ケ(ック)・イウ被告(67)が憲兵に連行されるようにやってきました。
特別法廷では、ャ求Eャg政権の中枢の人物から裁かれており、最後(結審に近いほう)は現場の責任者・・と言った所なのでしょう。
被告はャ香Eラルフローレンを着ていて・・どこにでもいるような穏やかそうな老人で、1万数千人の政治犯への拷問、殺害を指揮した人物には見えませんでした。

カン・ケ(ック)・イウ被告については、以下wikiからですが
(Kang Kek Iew、1942年11月17日 - )は、民主カンボジアの政治犯収容所S21の所長。別名ドッチ(Doch)。
中国系の家庭に生まれ、高校の数学教師だったがクメール・ルージュに入党し内戦時代には首都の北の公安を担当し1975年から1979年までS21を運営した。部下にも囚人にも厳しかった。1979年1月7日にベトナム軍がカンボジアに侵攻しプノンペンを制圧すると姿を消していたが、妻が殺されたことがきっかけとなりキリスト教に入信しタイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。1999年にその過去が発覚すると自らの罪を認め謝罪した。その後、起訴されてカンボジア特別法廷に送られた。
彼自身、中国系である事から粛清の標的になりやすい立場にいた為に、党中央の威光に縮み上がり、その意向に完璧に応えようとした事は想像に難くない。所長でさえこうした姿勢であった為、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。看守には10代の少年少女がなる事が多く、S21の秘密を守る為の粛清の危険に常に晒されおり、実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。

この前日に訪れたトゥール・スレンではャ求Eャgの写真共に掲示され、彼の悪の所業が書かれていましたが、しかし、あの時代のカンボジアでは誰もが、犠牲になる可能性があったのです。

right書き始めて・・一般人がこんな事書くのは無謀な事に気づいてますが・・続く(笑)

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (はー様)
2009-12-04 23:08:53
ほうほう、勉強になります。
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Unknown (SEIDL)
2009-12-04 23:22:11
>はー様さん
第二次大戦とかの時代とは違い、自分が生きていた時代の出来事だった・・と言うのがリアルでした。
カンボジアは、これでようやく過去を精算して歩みを前に進めようとしています。
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