今回はブログにそぐわない内容ですが、大事な事に思いましたので、書きとどめておきたいと思います。ご容赦を。
(重い内容ですので、お読みとばしください。)
4年前に続き2回目になりますが・・
カンボジア国立のトゥール・スレン虐殺博物館に行ってまいりました。
今回は博物館ガイド(英語)の方をつけましたので、簡単に解説していきたいと思います。
トゥール・スレンは(通称S21収容所)は、元は「トゥール・スヴァイ・プレイ」という「リセ(高校)」でした。「革命に学問は不要」と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、1976年4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子、を尋問しその係累を暴くための施設に転用しました。
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トゥール・スレン収容所には当初、前政府の政治家、高官、裁判官や弁護士、大学教授、医者などの知識層が収容されましたが、やがて、その家族や全教師、警官やエンジニア、クメール・ルージュの幹部(内部告発で疑いの目を向けられた者)にまで対象が広げられ、対象は無差別の様相となって行きます。
教室の殆どは、このようにレンガで仕切られていました。この空間に親子2人等複数の人が収容され、連日の拷問が繰り広げられたのです。
収容所は処刑する場所ではなく、最終的には郊外に連れて行かれて殺害された(通称キリングフィールド)のですが、常軌を逸した激しい拷問により2万人近くの方が亡くなったと言われています・・。
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1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンを制圧しトゥール・スレン収容所を解放した時にはA棟1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人、収容所全体では50人程度の遺体がありました。
このベットの部屋の壁にはその時の遺体の写真があります・・。
![down](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/down.png)
展示されている写真から。
1975年4月17日にクメール・ルージュがプノンペンを占領した時、プノンペンの人々は歓喜に沸きました。しかし、わずか30分~40分の間に、クメール・ルージュはプノンペンの街の人々に、銃剣をつきつけ郊外に強制移住させる作業を開始しました。(下は廃墟となった、東洋のパリ、プノンペン)
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向かって左はャ求Eャg(Pol Pot)と、右はトゥール・スレン収容所の所長だった、カン・ケ・イウ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/e4/72308a870409a4264a765a8327737d78.jpg)
カン・ケ・イウ被告の現在写真は、昨日(28日)の読売新聞の国際面に出ていましたので、ご興味のある方は・・。
実は、このカン・ケ・イウ被告の裁判「1970年代のカンボジアで大量虐殺に関与したャ求Eャg派元幹部を裁く特別法廷」を傍聴する機会がありましたので、次回も・・。