犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

金時鐘の場合

2007-04-25 05:58:51 | 日帝時代の証言
 次にご紹介するのも,やはり在日韓国人の証言ですが,そこで語られている経験は,まだ日本に渡る前,韓半島でのものです。

 金時鐘の『「在日」のはざまで』からの一節。


 朝鮮人の私が,朝鮮語を朝鮮で失くしたのは小学校二年のときであった,と先ほど言った。それが私には「真なること」を学びとる手始めであったわけだが,早くもそれは,朋輩を出し抜く競り合いの始まりでもあったものだった。

 週はじめに十枚ずつのカードが配られ,級友同士が目を光らせ合って,「国語」を使わない生徒を摘発し合った。獲物をせしめるすばしこさで,うかつに口を衝いて出る「朝鮮語」に飛びつき,一等速いものがお目当ての「カード」を一枚取り上げるのだ。そのカードは「国語」の成績はもちろんのこと,「修身」「操行」から期末の席次にまで影響がおよぶ特権の「罰券」であった。私はこのスリリングなゲームでも,目立って堅実なプレーぶりを発揮した。

 少年の私を気おくれさせた人に,厳然と父はいたのだ。

 時節に合わない親を持って,皇国少年の憂愁は深かった。とりわけ好きな父であっただけに,その父が負い目であることがつらかった。植民地朝鮮で,少年達がただ与えられて皇国臣民になったというのは,あれは嘘だ。なるのが当然の私でさえ,天皇陛下の赤子となるには,親と子の心に刺さるせめぎがあったのだ。親を超えなければ「日本人」にはなれなかった小さい魂の喘ぎなど,植民地の歴史をどのように操ったところで見えはしまい。背くことでしか真実に近づけなかったのは,努めることがそのまま背理でしかなかった私の,成長とも兼ね合っている「真実」である。しんそこ信じて努めたればこそ,私の「植民地」は根が深いのだ。そこでは損ね合うことが暮らしの日常であり,その日常の繋がりの中にしか真実も背理も存在しはしなかったからだ。父と私の関係がそのことを明かして余りある。良い子であればあるほど,私は父の思いからはずれていった息子であった。

 それを知らずに私が努め,それを知って父が黙った。よしんば口を開いていたとしても,なおのこと私は,その言葉に硬直していったに違いない。揚句が親と子の,度し難い断絶であったはずである。それほどにも私は時代向きの良い子であったばかりか,父もまた同じく,そうでなければならない時代をそのように生きた,けっしてよくない父ではなかったのだ。

 すべてが侵されることでねじれていった愛であった。朝鮮で朝鮮をうとましくさせた教育によって個々人の人格は否応もなく失われていき,親子の間にあってさえ,親子が親子でない関係をつくりだした最たるものに,かつての日本がしでかした「朝鮮語廃止」があった。そこに教師がおり,私がいた。彼らには教えることが真実であり,私には学ぶことが真実であった。良い子の私は励んだ。教えられるままに家にまで「国語常用」を持ち込んで、「国語」を知らない母を困らせた。めし,みず,といったたぐいの単語だけを押しつけるのだが,それでも母はおおよそのところを淋しい笑みで間に合わせてくれていた。

 しかし父だけはやはり別だった。めったなことで表情を変えない父が,もろに不愉快さを隠さないようになっていた。

金時鐘『「在日」のはざまで』(1986年立風書房)

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