犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

『帝国の慰安婦』書評 1 

2014-07-14 23:15:02 | 慰安婦問題

 朴裕河教授の『帝国の慰安婦』についての、市井の人の書評を見つけたので紹介します。(→リンク

 書評子は、弁理士さんだそうです。

帝国の慰安婦書評1

投稿者:iamwoo

 
朴裕河の『帝国の慰安婦』についての私の考えを、シリーズでまとめてみます。複雑で難しいので、ゆっくりと慎重に私の立場を明らかにしていくつもりです。


 『帝国の慰安婦』は、二つの大枝と数本の小枝よりなっています。第一の大枝は、慰安婦に対する韓国人の「公的記憶」が間違っているということであり、第二は、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)という「権力」に対する告発です。最初の枝と二つ目の枝の間には因果関係があります。著者は、挺対協が韓国人の公的記憶を加工するうえで中心的役割を果たしたと考えているからです。

 しかし、実際にこの本が引き起こした波動は、この本の大枝に由来するものではありません。数本の小枝が、読者に果てしない疑問を抱かせるからです。ある読者にとっては、嫌悪感という反作用を引き起こすかもしれません。しかし、読者としての私にとって、無数の小さな疑問がわき起こるのを抑えようがなかったことを告白しておきます。まず、大きな枝について述べます。

編集について

 内容の真偽、論争、波動とは別に、本の完成度について述べるのも、書評では意味あることです。まず、この本の編集はかなり粗雑です。おそらく著者は、慰安婦問題に関し、挺対協の態度に強い敵愾心をもっていたと思われます。それはつまるところ、著者の良心から来る正義感かもしれません。「和解のために」という美しい修飾語がつけられてはいても、彼女はいわゆる「加工された記憶」を作った活動家の権力に対する闘争心から、本を書いたと思われます。著者のこうした過剰な思いが、本書に慰安婦問題についての百科事典風の構成をとらせ、そうした構成のために、この本の完成度が落ちたように思います。

 さらに、「解決」への道を提示する際の著者の性急さも、この本がさまようことになる原因になりました。公の議論が行われてこそ、適切な解決策が生まれるものです。著者の記述が事実であり、慰安婦問題の公的記憶(これも公の議論の基礎になります)が誤ったものであるのなら、その記憶を矯正することこそ、最善の解決策になるはずです。ようするに、その公的記憶を揺さぶる第一部が最も重要なのであって、この本の他の部分は第一部の話の邪魔をすべきではありません。なので、本を三巻の分冊にして、まず慰安婦に対する韓国人の公的記憶と植民地時代の認識についての著者の立場、次に挺対協の問題、最後に慰安婦問題を見る日本人、日本政府、日本の歴史観という三巻構成にすればよかったのにと思うと、残念です。

 著者自身、日本文学を専攻しており、本書には、小説の話がたくさん出てきます。そうした話は「文学の中の慰安婦」をテーマに研究分析する論文には似つかわしくとも、本書には適切ではありません。本書は非常にデリケートな問題を扱っています。客観的史料、史実をもとに、迷宮に入った事件を解決するのに、重要な役割を果たす証人の証言を次々に聞いていきます。しかし、小説の中の話を頻繁に紹介してしまっているため、著者が引用した実際の証人の証言の信憑性まで落としてしまいます。これは多分文学を研究する著者の習慣なのでしょう。細かいことを言えば、「クロンハン(そうする限り)」という著者独特の表現が何度も使われます。このような日本的表現は、現代韓国語にほとんど使われないので、編集者が修正すべきだったと思います。もちろん、ふつう教授の文章に、編集者が手をいれるのは難しいので、編集者の苦労を察しますが、残念に思います。

お前はどっちの味方だ?

 排他感情が支配的なところでは、いつも二分法が横行します。原理主義はあらゆる排他感情の源泉です。宗教的な原理主義だけでなく、さまざまな政治的原理主義、たとえば全体主義、民族主義、さらに少数意見への配慮を欠いた民主主義でさえ、習慣的に敵味方を区別します。彼我の区別のための排他感情は、必ずしも保守主義者の特徴ではありません。自分を進歩的と思っている人でも、ひどい排他性を見せることがあります。理念に忠実でない主張と反論に対しては、あらためてお前は味方なのか敵なのかと尋問することになります。韓国現代史の歴史認識は、二種類の排他性を見せてくれます。一つはアカ(共産主義者)のイデオロギーであり、もう一つは親日派のイデオロギーです。この二つのイデオロギーの共通点は、文脈を無視し、片言隻句や文章の結論のみを追及するという点です。ともかく使った言葉や文が左よりであればアカのイデオロギーに入れられ、同じく言葉や文が日本に利すれば親日派イデオロギーに分類されます。そして魔女狩りが繰り広げられます。彼/彼女の文脈と本心は、排他感情の前では無視されます。

 『帝国の慰安婦』は、確かに韓国側(慰安婦の加工された公的記憶を作るのに一役買ったり、傍観をした韓国政府、韓国の市民団体、韓国の活動家)より、日本側(日本政府、日本の一部団体、活動家)の肩を持っているように読めます。慰安婦問題解決のために日本側が本気で努力したことを認め擁護する一方、韓国側は事実を歪曲し誤った記憶を作りあげたために、慰安婦問題の解決をより困難にしてしまったという趣旨のことを、著者は述べています。もし「真実」が政治主体次第であって、韓国と日本が戦争状態にあったとしたら、著者は間違いなく反逆罪に問われるでしょう。

 しかし、真実が政治主体に影響を受けず、韓国と日本の和解を語ることのできる状況ならば、著者の態度そのものを問題にしてはなりません。学問、思想、表現の自由はどこか遠くにあるものではありません。ある歴史的探求を行うとき、著者が日本人であるか韓国人であるかはまったく重要ではありません。同様に、彼がどこの国に寛容な態度を取るかも重要ではありません。重要なのは、彼の発言が意図された嘘からなされたものか、あるいは良心から出た発言なのかを調べることであり、もしそうであればその主張の客観性と合理性を吟味することです。

 著者は、日本の立場を理解し擁護する態度を見せますが、それは「和解のために」まず「こちら」の誤解を解くためのものだと解釈できます。著者は「あちら」の理解より「こちら」の誤解がひどいために、和解への道が遠いと考えたようです。著者の主張をまとめると、次の通りです。日本政府が慰安婦問題を解決するために行った一連の措置、たとえば河野談話(1993)とアジア女性基金は、日本政府が慰安婦問題に対する責任を痛感したことにともなう行為であり、特に民間基金は、謝罪の手段であっただけでなく、日韓条約と日本の政治状況を日本政府が合理的に考えながら立案した政策であって、韓国政府と慰安婦支援団体は、それを受け入れるべきだったということです。韓国側が日本政府の態度を誤解し、慰安婦についての歴史的事実を歪曲したために、日本社会に「嫌韓」が生まれ、広がる原因を提供したと、著者は批判します。

 こうした著者の態度は、これまでの韓国における常識、つまり韓国側がさんざん要求してきた慰安婦問題に対する責任の認定と謝罪を、日本政府が無視してきたという理解とは、あまりにも大きな違いがあります。解釈の違いにとどまるものではなく、事実そのものが異なります。著者は、その根拠として、次のように述べます。

 「自民党議員の数が三倍にもなる国会で、慰安婦問題解決のための法律が通る可能性のほとんどない状況で、「国会」抜きで「政府」を中心に作られたのが「基金」だった。つまり、「基金」は、「責任を回避するため」ではなく「責任をとるため」に作られたものだった。ただ、その主体が国会ではなく、政府だっただけだ。さらにいえば国会を通過しにくい理由は、必ずしも「自民党」が実質的に支配していたからと言えないことは、「基金」の成立と実施の先頭に立った人たちが、自民党の人だったことからもわかる」(178P)

 「1965年の日韓基本条約という制約と、「強制連行」に対する疑いのため、国会で合意を得ることができず、その責任主体が政府に移っただけだ。形は「民間」だったが、実際には政府が「国庫金」を半分以上使った補償だった。国民からの募金が足りなかった場合には、政府が最後まで関わることを約束し、実際に事業が終了した時点で、日本政府が国庫金から支出した金額は、事業費全体の90%近い金額だったので、実質的には国家補償であった。」(183P)

 個人的には、「帝国の慰安婦」の著者の主張は、かなり説得力がありました。当事者同士の問題を解決する際、「こちら」の「理想的な立場」だけを考えることはできないからです。こちらの政治的結束という目的だけではなく、本当に問題を解決するつもりがあるのなら、当然のことながら「あちら」の「現実的な状況」を考えるのが、人間の社会的な関係です。さらに、こちらの理想的な立場の後押しをしている「公的記憶」そのものが間違っていると主張するのが『帝国の慰安婦』の核心です。日本側の立場を代弁しているからといって、この本に問題があるとみなすことはしません(もしそうした理由で、この本は「害悪」だと思う人は、自分の内なる排他性を点検してみてはいかがでしょうか)。著者の見解と主張が誤っているのなら、その誤りを、公の議論の場に持ち込めばいいのです。この本に反対の立場をとる人々の、説得力のある反論が必要になるだけです。

 この本に引用された1993年の河野談話は、次の通りです。最近、安倍政府は河野談話を検証を試みましたが、日本政府と韓国政府の協議によって河野談話が作られたのではなく、日本政府の独自の調査と判断によって談話が作成されたというのが韓国政府の立場です。この韓国政府の立場に従って吟味してみても、日本政府が過去20年間、慰安婦問題に対する責任を回避しようとしていたと見ることは難しいように思います。「独自の調査と判断」の下に、次のような談話を発表したからです。ただし、著者はこうした日本政府の態度に反し、むしろ韓国社会が、過去20年間、「朝鮮人慰安婦」についての公的記憶を歪曲することで、日本社会の韓国に対する悪感情を引き起こしてきたと信じているようです。

 「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」

(つづく)

 最後に「河野談話」の引用がありますが、いちばん重要な部分に誤訳があります。前に一度書いたことがありますが、あらためて指摘しておきます。

官憲等が直接これに加担したことが明らかになった。

 原文の日本語は、

官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。

です。

 朴教授の著書にある引用文そのものが間違っているのか、書評子が原稿を書くときに韓国ウィキペディアあたりの訳をコピペしたのかは、原書をもっていないのでわかりません。

 韓国政府は、河野談話の誤訳の見直しを一刻も早く行うべきです。(→リンク


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4 コメント

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Unknown ()
2014-07-19 16:42:51
犬肉 食べるな
返信する
コメントありがとうございます (犬鍋)
2014-07-20 21:55:10
でも、コメントする場所が適切ではなかったようです。

こちらへのコメントだったらよかったのに。

http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/5f37140ae1bb400bf7cd86efdcde8876
返信する
イデオロギー論争を超えて (mopetto2012)
2014-07-28 00:27:45
『日韓(朝)問題』における、植民地問題、「戦争責任」の問題は、すぐれて政治的な含意を持った論争ですから、「歴史的事実」の解明はもとより、ポスト冷戦の国際社会の「政治」も読んで誤謬がないように丁寧に分析しなければならないと思います。

長い歳月、思惑からイデオロギー論争の種にされて、今日では理論の難所で座礁してしまっているのですから、この混迷から抜け出すための評論には、「歴史」の基礎知識は必須であり、また、客観的な説明と誠実な態度が肝要であると思います。

ブログ主さまの(1)の批評は、社会的な意味、歴史的な意味を咀嚼したうえで、「テキスト」を丁寧に読んだうえで、矛盾点を一つ一つ列挙しながら客観的に分析されています。その誠実には感動しました。

ところが、書評2、および書評3を読んで冷水を浴びたように醒めました。

ブログ主さんが、人々の歓迎する分かりやすい二項対立に持ち込まないように、隅々にまで配慮しようとの誠意は感じられます。これは容易いことではなかったと思います。

とはいえ「続き」では、冷静な観察眼よりも人間的ヒューマニズムがロマンティシズムに先行して、評価が様変わりしてしまいます。
それは、ブログ主さんが長期韓国に滞在された経験からの実感、韓国の巷で感じた民族意識の熱情というものが背景にあるのではないかと思われます。固有な経験からの、自己組織性はアイデンティティーの共有により促進されるからです。

とはいえ、(2)、(3)への移行においては、鋭い分析的区別という理論、方法論がなおざりにされていると感じました。
私は「歴史認識」において、ブログ主さまとは立場を異にします。
ブログ主さまが、(1)の次の(2)において急転直下するように価値観を変容され、(3)においては確信を語られているからです。

誰もが、自分の立場から意見表明してよいのです。
そうして、その意見が、真実の究明のために批判されることもあるとの認識もされておられるようです。批判、議論は絶え間なく続いていくと思います。それは、真実が追及されるための複雑なプロセスであると思います。

異なる意見との遭遇によって、自分が完全に否定されるわけではなないのですが、その被傷性を引きずる人が多くいます。新たなこととの遭遇は、本質的には弁証法的総合によって発展につながっていくものです。

しかし、(2)および(3)を読むと、実は、ブログ主さまの意見は、緻密な資料によって、時代を考察し、歴史的背景を洞察し、「歴史的事実」とは何かを唯物論的に検証されたものではなかったとわかります。
日本軍隊には性奴隷制度という「慰安所」があったという罪(事実)は消去されません。
その仔細、また評価はさまざまに論説されていますが、しかし、謝罪されていないものを「赦す」とは、「慰安婦」の立場からみれば本末転倒なことです。

ほんの僅かな事実の断片を切り抜いて、パッチワークのように張り付けて、そうして文学的に語って「これこそが真実」と言ってのけるのですから、手厳しい批判を受けることになると思います。

返信する
mopetto2012さん (犬鍋)
2014-07-29 01:18:18
長大なコメント、ありがとうございます。

「書評3」のコメントで、belboさんが指摘してくださっているとおり、私(ブログ主=犬鍋)は、韓国人のiamwooさんが書いた、朴裕河著「帝国の慰安婦」に対する書評の紹介者・訳者です。

「帝国の慰安婦」の日本語版はまだ発刊されておらず、韓国語版も入手できていないので、私はまだ「帝国の慰安婦」を読んでいません。

そのため、「帝国の慰安婦」そのものや、その書評に対する内容的なコメントはしようがないのです。

mopetto2012さんはすでに韓国語版でお読みになったようですね。

日本語版が刊行されたら早速読もうと思っています。
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