犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

日帝時代の検証~土地収奪

2007-06-14 06:14:56 | 近現代史

 以前ご紹介したことのあるソウル大学教授,李栄薫がこのたび『大韓民国の話』という本を刊行するそうで,その紹介記事が朝鮮日報に出ていました。

 ところで李栄薫教授は、『大韓民国の話』の中で、「“土地調査事業により全国土の40%が日本のものになった”“食糧の半分を日本に強制的に持ち去った”というのは、何ら根拠のない話」と主張している。

—日帝が土地調査事業で土地を収奪し、食糧を強制的に奪ったというのは事実ではないのか。

「1982年、金海郡庁で土地調査事業当時に作成された文書が大量に発見された。そこで、この資料を活用した研究を行ったところ、総督府は国有地を巡る紛争を公正に扱っていたことが分かった。全国484万町歩(1町歩は約0.99ヘクタール)の国有地のうち、12万7000町歩だけが国有地として残ったが、その大部分は朝鮮人農民らに有利な条件で払い下げられていた。食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない」

—それならば、なぜ日帝が土地調査事業の過程で全国土の大部分を強奪したとされているのか。

「韓国の学界には厳格なジャッジがいないためだ。先進社会では学界を支配する厳格な審査グループがあり、主張の妥当性について判定を下している。後進社会にはこうした審査を行うグループが存在しないため、何が正しく何が間違っているのかについて、大衆はもちろん、研究者さえも知ることができない状況に陥っている」

-日帝時代を扱った小説『アリラン』を「憤怒の念と狂気で満たされた作品」と批判したが、350万部も売れたベストセラーに対し、余りにひどい評価ではないだろうか。 

「土地や食糧の収奪、虐殺など、この作品が描いた内容は事実とかけ離れている。自分も学校の図書館でこの本を借りて読んだことがあるが、本には学生らがあちこちに書き込んだメモが残されていた。例えば、日本人の巡査が土地調査事業を妨害したという理由で、朝鮮人農民を裁判にもかけずに処刑する場面では、“ああ、こんなことがあってよいのか…”と怒りを示していた。このように商業化された民族主義が横行し、被害意識だけが膨れ上がった結果、(植民地支配を実際に体験した)高齢者よりも若い世代で反日感情が強くなった。これは、商業化された民族主義と間違った近現代史教科書に基づく公教育のせいだ」


 このうち「土地調査事業で韓国の土地が収奪された」という主張については,すでに10年以上前に,韓国の学者のよる論文によって否定されています。それは,韓国の高級言論誌「創作と批評」96年夏号に掲載された,趙錫坤「収奪論と近代化論を超えて-植民地時代の再認識」という論文です。私は,発売直後にこの雑誌を購入,抄訳をネットに発表したことがあります。
 韓国語原文はネットでも見ることができましたが,現在は会員登録が必要になっているようです。

「収奪論と近代化論を超えて-植民地時代の再認識」

                              趙錫坤

「事業」についての一般的は認識は「日帝が朝鮮の土地を略奪するための措置」と要約できる。収奪論によれば、「事業」は、期限付きの申告制により行われ、その手続きは複雑で、申告できなかった人が多かった。この略奪により、全国の農土の約40%が略奪され、日本人にただ同然で払い下げられた。耕作権を失った朝鮮農民の一部は海外移住を強いられた、とされる。

 このような収奪論に対し、宮嶋博史、Gragertなど、海外研究家から疑問が出され、国内においても土地申告書の実証的研究が進み、申告制を悪用して、それまでの土地所有関係を無視して土地略奪をするのはほとんど不可能であり、事業の結果生まれた国有地は、全体(490万町歩)の2・6%に過ぎなかったと指摘されている。

 このような実証的研究にもかかわらず、収奪論は今も健在で、最近公刊されたチョ・チョンレの小説「アリラン」でも、「事業を妨害したら裁判なしに死刑」「総督府は朝鮮の土地の45%を占める最大の地主になった」などと描かれている。45%という正体不明の数字もそうだが、地主総代に暴行を加えたという理由だけで、面の駐在署長が農民を裁判なしに死刑に処せるという想像力には恐れ入る。
 こんな小説が出てくる背景には、事業が「片手にピストル、片手に測量器で進められた」(シン・ヨンハ、1982)などと書いてきた「収奪論」がある。

 収奪論の論理は、①土地申告の際の不正と無申告地の略奪、②不法な所有権変更に対し農民が紛争を提起しても受け入れられなかった、③土地調査以後、農民の地税負担が増えた、と要約できる。
 収奪論者は、農民の中には、土地申告制度を知らなかったり、知っていても漢字や日本語がわからず申告できなかったり、日帝に対する反感のゆえにわざと申告しない人が多かった。それらの無申告地は国有地に編入された。また、土地申告書が提出されていないことを知った地主総代が、それらの土地を自分または自分の関係者名義にした場合があった。などと推論している。

 しかし、これらの推論は事実に反している。

 まず、無申告地について。
 申告期間が過ぎても、申告が妥当だと認められれば、土地申告書は受理された。無申告地は、別途行われた調査で地主が判明すれば申告を勧誘し、申告の意思がないことが確認された場合に無申告地として処理された。無申告地は9、335筆で、全体2千万余筆の0・05%に過ぎなかった。
 無申告地は、わずかだったとはいえ、国有地に編入されたのは事実だ。しかし、ある事例研究によれば、無申告地は墳墓地、雑種地が大部分で、性格上、本当に持ち主が不明だった可能性が高い。したがって、無申告地の存在だけでは、土地略奪の証拠にはならない。

 次に、土地申告書の不正によって土地所有権を奪うことができかどうか。

 申告書は地主本人が作成するのが原則だが、申告書を調べると、その筆跡から、地主総代など何人かの、文字がわかる人々によって代理作成されたことがわかる。しかし、この代理作成過程で、地主総代が恣意的に土地所有者を変えることは不可能だった。

 総督府は土地申告の正確を期し、申告漏れを防ぐため、1910年に作成された課税台帳を土地申告書の基礎とした。課税台帳は1910年から実際の課税に利用されていた帳簿であり、土地申告書が実際の土地所有状況から外れて作成される可能性はほとんどない。

 また、地主総代は、彼らの政治的・経済的地位からみて、現実の所有関係を変更できるほどの力はなかった。ある事例研究では、地主総代26人中、1坪の耕地ももっていない者が10人もおり、5町歩以上の土地をもつのは3人にすぎなかった。地主総代は、その名が与えるイメージとは違い、地主階級の代表でも、地域社会の有力者でもなかった。

 紛争地はすべて国有とされたか?

 申告で紛争が起きた場合、いったん和解を勧め、和解に至らなければ、紛争地審査委員会で査定した。査定に不服な場合は、高等土地調査委員会に申請できた。
 紛争地総数は33、937件99、445筆、うち国有地に関連するものは64、570筆(64・9%)で、大きな比重を占める。また、紛争地は200筆あたり1筆の比率で発生し、けっして少ないとはいえない。
 紛争地問題は、収奪論の有力な根拠になってきたが、これは日帝が、民有地を強制的に国有地と申告し、そうした「収奪」に反対する朝鮮農民の主張は紛争地審査委員会で一方的に黙殺され、国有地とされたという推論の基礎になっている。

 しかし、このような推論もまた事実に反する。

 大韓帝国樹立後、政府は財政強化のために「光武査検」といわれる国有地調査を実施した。そのとき、多くの民有地が公土(国有地)に編入され、紛争が発生した。この紛争は、内政院の強圧的姿勢のため解決を見ず、1908年、日帝によりすべて国有駅屯地に編入された。日帝はこの土地に対し駅屯地実地調査を行い、それによって作成された「度支部所管国有地台帳」が「事業」の基準帳簿になった。すなわち、事業における紛争地は、光武査検のときの紛争が持ち越されたものだ。国有地紛争が起こった原因は日帝が事業を通じて民有地を略奪しようとしたからだ、という収奪論の主張には、このような歴史的観点が欠落している。
 また、紛争地処理において、総督府が一方的に有利だったわけでもない。京城府の国有地紛争では60%が国有地と査定され、その比率は高いほうだが、金海郡では44%、パチョン郡では8・9%にすぎず、国有地化された比率が低い地域もある。
 査定に不服な場合は、高等土地調査委員会に不服申請ができたが、受け付けられた申請の半分以上は、取り下げ、または差し戻され、9、388件(46・6%)が審査対象になった。そして、その92・1%は、不服申請した人の主張が受け入れられた。
 また、不服申請地(2、872件)は原紛争地(33、937件)の10%にも満たず、これまで考えられていたのと違い、紛争地の大部分が査定に承服したことがわかる。紛争地調査に不服な農民が大挙不服申請をしたはず、という収奪論の推論は、このような基礎統計の確認さえ怠ったものだ。

「事業」における紛争地調査が、日帝の土地略奪を通した国有地創出に寄与したという収奪論の主張は、誤った事実認識に基づいている。

 最後に地税負担について。

 収奪論の立場に立つ研究者は、「事業」によって地税負担が増したことを強調する。
 その論拠は、地税賦課方式が変わり、実際に地税収入が増加したこと、地税賦課の基準になる法定地価が時価より高く設定されたことに置かれている。

 これもまた、歴史的事実に反した推論だ。

「事業」後の1918年の地税は、17年より13%増えたが、これは18年の米価が17年より60%以上増えたことを考えれば、それほど大幅なものではない。

 また、法定地価が時価より高く決められたわけでもない。

 日帝は、地価を、その土地から期待できる純収益に基づいて決めた。純収益は、総収穫から経費55%を控除した金額から、租税公課金を引いたもので、収穫量に穀価を乗じて算出する。収穫量はさまざまな斟酌率を掛けるので、実収穫量より低く表れる。穀価は道単位で決められるが、1911-13年の収穫後4か月間の中等品卸売価格の平均が用いられた。収穫後の穀価は1年の中では安い時期だ。総督府のサンプル調査でも、法定地価は全体的に時価より安かった。
 地税は、上記の方法で算出された地価に、一律1・3%を賦課した。これは、日本国内に比し、地主に有利だった。地価算定式から逆算すれば、地税は総収益の5%以下で、これは地租改正後の日本と比べ、6分の1の水準にすぎない。
 また累進税が適用されなかったため、大土地所有者は負担を相対的に軽く感じたはずである。もっとも、地税賦課方式の変更にともない、地域、地目によっては、税負担が重くなった場合もある。

 私は、「事業」により近代的土地所有が確立されたと見る。これにより資本主義が農村に浸透する契機となった。
 なお、この評価は「植民地美化論」とは無縁である。


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2 コメント

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Unknown (hana)
2007-06-14 12:39:32
最後の一行が泣かせますね。
必ずこういった文を入れないといけないのが
学者として悲しいでしょう。
勉強になりました。
日本に帰国されるのはいつごろなのですか。
このブログはどうなるのでしょうか。
返信する
帰国 (犬鍋)
2007-06-15 05:21:20
7月上旬の予定です。

ブログについては考え中。

このままの形では難しいでしょう。
返信する

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