村上春樹のエッセイ、『猫を棄てる― 父親について語るとき』を、最近出た文庫版で読みました。
初出は『文藝春秋』2019年6月号、単行本は2020年4月、文庫は2022年11月です。
村上春樹のエッセイと言えば、ウィットに富んだ軽妙な文章が思い浮かびますが、本書は10年ほど前に亡くなった父親を回想したもので、真摯な文章で重い内容が込められています。
きわめて個人的なエッセイでありながら、戦争について、父親について、人生について、いろいろなことを考えさせられました。
村上春樹は1949年生まれですから、私よりも一回り上。
父親、村上千秋は1917年(大正6年)生まれ。2008年に90歳で亡くなったそうです。
少し時代はずれますが、私はこの本を、自分の父(大正15年生まれ)と重ね合わせながら読みました。
以下、本書の内容をご紹介します(ネタばれ注意)。
京都のお寺の次男として生まれた村上千秋が幼少期を送ったころの時代背景は…。
日本は第一次世界大戦で戦勝国となり戦時景気に沸いた後、アメリカに端を発する世界恐慌、軍部の台頭、太平洋戦争へと向かっていきました。
千秋の人生は、戦争に翻弄されます。
男のみ6人兄弟のうち、3人が戦争に行き、一人はビルマ戦線に従軍、もう一人は特攻隊の生き残り、千秋もまた3度召集されながら、九死に一生を得たということです。
千秋は、幼時に奈良の別の寺に養子含みで小僧として出され、体を壊して実家に戻りましたが、そのときの体験は父親の心の傷となって残っていたのではないかと、春樹は想像しています。
千秋は寺の息子として、仏教系の専門学校に進みましたが、うっかり徴兵猶予の申請手続きを怠ったため、1938年8月、20歳で徴兵。当時、日本は中国と宣戦布告なき戦争を戦っていました。
配属されたのは輜重兵第16連隊(補給担当)、10月に中国戦線に赴き、歩兵第20連隊とともに中国各地を転戦しました。歩兵第20連隊は1937年12月に南京城攻略一番乗りで勇名を馳せた部隊。
春樹は、父がいたのが歩兵第20連隊で、ひょっとすると「南京虐殺」に関わっていたのではないかという疑念から、父に戦争の話を聞くことがなかったそうです。ところが父の死後に調べてわかったところでは、千秋が入隊したのは南京事件から10か月あとのことでした。
千秋は戦争体験をほとんど語りませんでしたが、唯一、春樹がまだ小学校低学年の時、自分の部隊が中国兵の捕虜を軍刀で斬首したことがあるという経験を話します。「そのときの中国兵は実に見上げた態度だった」と。
千秋は毎朝、戦争で死んでいった人(仲間の兵隊や敵であった中国の人々)のために、お経を読むことを日課としていたそうです。
千秋は、通常二年間の兵役を一年で除隊、復学しました。専門学校では俳句に目覚め、たくさんの句を書いていました。
1941年に卒業するとその年の9月に二度目の召集。前年に第16師団が満州に駐屯した代わりに、京都で編成された第53師団の輜重兵第53連隊でした。
しかし、千秋は召集を受けてからわずか二か月後の11月30日に召集を解除されます。理由はよくわかりません。真珠湾攻撃のわずか8日前のことでした。
満州にいた16師団は、太平洋戦争開戦後にフィリピン攻撃に向かい、大きな犠牲を出しながらルソン島に上陸した後、バターン半島攻略戦に出動、圧倒的に優勢な米軍の火力の前に壊滅的打撃を被りました。兵を補充し再編成された16師団は、戦況が悪化した44年にレイテ島に送られ、艦砲射撃と海岸での戦闘で玉砕、敗残兵は密林の中で飢餓とマラリアのために倒れました。戦死率は96%に達したということです。
一方、第53師団は戦争末期の44年にビルマに派遣され、最も悲惨な戦いといわれたインパール作戦でほぼ全滅。
2回目の召集後わずか2か月で除隊になった千秋が「九死に一生を得た」と言っていたのは、このような事情からでした。
千秋はその後、1944年10月に京都帝国大学文学部に入学、翌年6月に3回目の召集を受け、国内の部隊に配属されたのち、8月に終戦を迎えました。10月に京大に復学。ときに千秋27歳。
学究肌だった千秋は47年に大学院に進みましたが、結婚し、49年に春樹が生まれたため、生活のために大学院を退学、私立高校の国語教師となりました。
同じ国語教師をしていた妻(春樹の母)は結婚を機に退職。婚約していた男性が戦死したため、千秋に嫁いだとのこと。彼女の実家は空襲で焼失、彼女もグラマンから機銃掃射を受けて逃げ回りましたが、千秋と同じように九死に一生を得ます。
千秋は若いころ生活が荒れており、よく酒を飲んだそうです。春樹の出生後は落ち着きを見せ、国語教師として勤めながら、春樹とはいっしょに映画や野球を見に行ったりしたそうで、よい家庭人でもあったと思われます。
千秋は文学、特に俳句を愛好し、家には本があふれていました。10代の春樹が熱心に読書をしたのは父親の影響もあるのでしょう。千秋は、学業成績は常に優秀でしたが、時代のせいで学問の道に進むことができませんでした。そのため、一人息子の春樹には、自分ができなかったことしてほしいと期待する気持ちがありました。
一方、春樹は読書は好きだったものの、勉学に打ち込む気になれず、父の期待に応えませんでした。「学校の授業はおおむね退屈だったし、その教育システムはあまりに画一的、抑圧的だった」。学校でいい成績をとるより、好きな本を読み、好きな音楽を聴き、運動をし、麻雀をやり、ガール・フレンドとデートすることのほうが「より大事な意味を持つことがらに思えた」。
父は春樹に対して慢性的に不満を抱き、春樹もまたそれに「怒りを含んだ痛み」を感じるようになったのでした。
春樹が18歳で家を出て、若くして結婚し、仕事を始めるようになってからは、父親とはすっかり疎遠になり、最後は絶縁状態になりました。「二十年以上まったく顔を合せなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態が続いた」。
父子が「和解」したのは、なんと千秋が90歳を越えて亡くなる少し前、春樹が60歳近くになったときのことだそうです。
父の死後、春樹は父に関係するいろいろな人に会い、話を聞いたり記録を調べたりして、本書を書くに至りました。
もし父が兵役解除にならず、フィリピンかビルマで戦死していたら、あるいは母の婚約者が戦死していなかったら、「僕という人間はこの地上に存在しなかった」、「僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる」。
「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことではあるまいか」。
本書の最後で語られている内容は、このエッセイの直後に書かれたと思われる「一人称単数」(同名の短編集に所収)のテーマに重なります。
「一人称単数」もまた、「今の自分があるのは偶然にすぎない」という似たテーマが語られます。
私のこれまでの人生には――たいていの人の人生がおそらくそうであるように――いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行ってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。
『猫を捨てる』では、父親が戦争の時代を偶然生き延び、そのおかげで偶然、自分もこの世に生を受けたことが語られました。
『一人称単数』は、そのようにして生まれた自分の人生もまた自分の選択のみによって切り拓かれてきた必然では決してなく、多分に偶然によるものだということが語られているように思います。
あるとき、偶然にも右でなく左を選んでいたら、小説家ではなく、服飾業界に進み、「どこかの水辺で」、女性におぞましい行為をしていたかもしれない…。
父、千秋が、ちょっとした偶然で兵役解除にならず、フィリピン戦線に送られていたら、現地住民に斬首されていたかもしれなかったように。
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