犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

独立門

2012-03-02 23:18:48 | 近現代史

 コメンテイターの方から興味深い情報をいただきました。韓国観光公社のサイト(→リンク)で、独立門について説明してあります。

 独立門(ドンニンムン)のある場所は、元々使臣を迎えた迎恩門のあった場所でした。迎恩門は中国からの使臣がやって来たとき王が自ら出迎えた場所で、外交の象徴だったこの門の後に、1897年、独立門が建てられました。この門は、長い間影響を与えてきた中国や、韓国を脅かす日本やロシアに独立性を表わすためのもので、建設のための費用も国民の力によって集められました。
この独立門はパリの凱旋門をモデルに作られており、御影石の煉瓦を積み上げた高さは14.28メートル。上部にはハングルで「独立門」と書かれ、両側には韓国の国旗「太極旗(テグッキ)」が描かれています。
同じ敷地内にある西大門刑務所歴史館も是非見ておきたいところです。

 「独立門」は、「中国や、韓国を脅かす日本やロシアに独立性を表わすためのもの」なんだそうです。この門の建設の直接のきっかけとなった日清戦争についても、それによって朝鮮が中国(清)から独立したことも触れられていないばかりでなく、清と戦った日本(やロシア)に「独立性を表す」とは…。

 次にウィキペディア韓国語版の独立門を見てみましょう。(→リンク

 独立門は、独立協会が中心となって、朝鮮が独立国であることを象徴するために、迎恩門を壊した跡地に作った門で、セレディン・サバチン(Середин-Cабатин、士巴津、Sabatin)が設計し、その扁額は李完用の作品だ。
清日戦争で日本が勝利した後、建設が始まった。 1896年に工事を始め1897年に完工した。高さ14.28メートル、幅11.48メートル。約1850個の花崗岩より成り、フランス·パリの凱旋門を模して作った。扁額は李完用が書き、扁額のすぐ下には大韓帝国皇室の紋様である李(すもも)の花があしらわれている。前の柱の二つはかつての迎恩門の柱で、撤去後に残っているものという。1979年に城山大路の工事のために元の位置から北西に70メートルほど移転し、2009年10月28日に西大門独立公園の再造成工事が終わると同時に、独立門は一般に公開された。

 ウィキペディアのほうには「清日(韓国では日清ではなく清日といいます)戦争で日本が勝利した後」とあり、日清戦争について触れられていますが、日清戦争と独立門建設の因果関係がぼかされている。「~後」というつなげ方は、たまたま時期的にそうなったかのようです。そして設計者はロシア人サバチン、扁額の書いたのは、後に親日売国奴といわれる李完用。ロシア人が設計して親日派が扁額を書いた。観光公社の「日本やロシアに独立性を表すため」という文言の滑稽さがわかります。

 次は斗山百科事典。

 1963年1月21日史跡第32号に指定された。1896年独立協会が韓国の永久独立を宣言するために、清国の使者を迎えた迎恩門のあった場所に、全国民から募金を集めて建てた。創建当時の面積は2800平方メートル、総工費は当時のお金で3825ウォンかかった。完工は1897年11月20日。現在の面積は2640平方メートル。
フランスのエトワール凱旋門を徐載弼(ソ・ジェピル)がスケッチしたものをもとに、ドイツ公使館のスイス人技師が設計した。工役は建築技師の沈宜碩(シム・ウィソク)が担当し、労役は主に中国人労働者を雇用した。工事費は、主に寄付でまかない、1897年に竣工した。
 材料は主に花崗岩を使用したが、構造は中央に虹霓門があり、左側の内部から上に通じる石段がある。ドアの前には、旧迎恩門の柱礎だった二つの石柱がある。1979年、城山通りの開通にともない、もともと独立門があった場所から北西に70メートル離れた所に移転、復元し、元の場所には独立門跡地という表示板を設置した。


 建設目的は「韓国の永久独立を宣言するため」、設計は「ドイツ公使館のスイス人技師」、工役(?)はシム・ウィソク、労役は中国人労働者。日清戦争には触れられていません。そして設計者はウィキペディアと異なりスイス人。中国人労働者を使って建てたというのは新しい情報です。

 韓国でもっとも権威のある百科事典は「民族文化百科事典」。そちらの記述はというと…

 高さ14.28メートル、幅11.48メートル。史跡第32号。指定面積2715.8平方メートル。甲午更張以後、自主独立の決意を誓おうと、中国の使臣を迎えていた事大外交の象徴、迎恩門を壊してその跡に建てた門で、自主民権と自強運動の一大記念碑である。
 1896年、米国での亡命生活から戻ってき(ソ・ジェピル)が組織した独立協会の発議で国王の同意を得て、有意の多くの愛国志士と国民の広範な支持を受け、1896年11月21日定礎式を挙行し、1年後の1897年11月20日に完工した。
 この門の建築様式は、徐載弼の構想によって、フランス·パリの凱旋門を模したが、美的な配慮が不足して石の重ね方も従来の城壁の手法と異なるところはない。
 徐載弼の自叙伝によれば、設計はドイツ公使館のスイス人技師が行い、我が国の大工が施工したとなっているが、『京城府史』は、ロシア人サバチンによるものと記録されており、はっきりしない。
 構造は、花崗岩を積みあげたもので、中央に虹霓門があり、内部の左側に上方に通じる石段があり、最上階は石の欄干で囲まれている。
 虹霓門の額石には、李花紋章が刻まれており、その上の前後の扁額にはそれぞれハングルと漢字で「独立門」という字と、その左右に太極旗が刻まれている。門の前には史跡第33号に指定されている迎恩門の柱礎2つが立っている。
 この門は、1917年に修復工事をしたことがあり、1928年には基礎が沈降する危険があり、朝鮮総督府で工事費4000ウォンをかけて京城府に委託して大きな修理をしたことがある。その当時、壁材の内側に新しい材料だった鉄筋コンクリートを補強した。
 1979年城山大路の工事で移転が不可避になり、その場所に「独立門跡地。移転日時1979.7.13 ソウル特別市庁」と書かれた記念石版(70センチメートル四方)を残して、そこから西北に70メートル離れた地点に移動し、今日に至る。移転工事は、1980年1月に終わった。


 目的は「自主独立の決意の誓う」「自主民権と自強運動の一大記念碑」。設計は「ドイツ公使館のスイス人」(徐載弼の自叙伝)、「ロシア人サバチン」(京城府史)の二説ある。やはり日清戦争については触れられていません。新情報として1917年に総督府が4000ウォンをかけて修理したことがあげられている。「日本からの独立」の意味があるのであれば、そのようなモニュメントの修理に日本が巨額を投じることはないでしょう。

 では、「独立門」の意味を正しく伝えるものは、韓国にはないのか。いろいろ調べるうち、いちばん最初の韓国観光公社の韓国語ページにいきつきました(→リンク)。

 1898年1月、自主独立の象徴物建設のために、独立協会の主管で建設され、資金は協会が集めた募金が充てられた。中国の使臣を迎えた迎恩門があった場所に、韓国人技師シム・ウィソクにより中国人労働者を雇用して構築した、最初の西洋式建物である。高さ14.28メートル、幅11.48メートルで、フランスの凱旋門を模して作った建築物である。1979年城山大路の建設にともなって現在の場所に移転した。この独立門は、朝鮮末期、独立協会の代表的な事業の一つだったが、日本や外勢からの独立を意味するというより、主に中国からの自主独立を強調する象徴物だった。

 最後の一文にご注目ください。

「日本や外勢からの独立を意味するというより、主に中国からの自主独立を強調する象徴物だった。」

 日清戦争の結果、韓国が清から独立した事実は書かれていませんが、目的については正しく書かれている。しかし、同じ観光公社の日本語版との違いはなんなのでしょう。


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2 コメント

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Unknown (バボ)
2012-03-08 19:20:12
韓国の特技としか言いようがないですね。
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嘘は難しい (犬鍋)
2012-03-11 01:06:41
どこかでボロが出ちゃいますね。
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