海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(66)

2010-08-31 08:00:30 | 歴史
 私が得た確信、すなわち蒲生郷最初の降伏人と名指しされた吉留盛美が、戦後すぐの蒲生戸長心得として名前を残した吉留盛喜と同一人物だったということは、今まで述べたように、もろもろの矛盾を解決してくれた。しかし私は、地元の郷土史家の「隊長(赤塚源太郎)を失った蒲生隊は、小隊長吉留盛喜が大隊長を兼務した」という「事実」を覆すほどの裏づけを持っているわけではない。私の確信も推論に過ぎないのだ。ただ、私の推論がもし正しいとすれば、この「西南戦争と蒲生」の著者は間違った「事実」を信じているということになる。あるいは、この人物を「悪者」にしたくない、何か別の理由があるのかもしれない。果たして、どうなのだろうか。

 私は、赤塚源太郎の投降事件を調べるために、蒲生町の郷土史を取り寄せた。ところが、これらの郷土史では、昭和版も平成版も赤塚源太郎の帰順は、とくに隠されたものではないことがわかった。いや、時間をウヤムヤにしていることを除けば、事実としてしっかり認めている。
 それゆえ、赤塚源太郎の帰順が問題というより、『血涙史』で一番最初の投降者として名指しされた吉留盛美とのちの戸長心得である吉留盛喜が同一人物なのか、あるいは本当にかれが最初に投降したのかという問題に移ってしまった。
 こういう展開は意外だった。それもこれも、私が『薩南血涙史』に対して、過剰な反感というか無関心というか、要するにあまり紐解きたくないという無意識が大いに作用した。しかしながら、この『蒲生郷土誌』のように、未だに記録とはいえない曖昧な記述で済ませているのを見ると、『血涙史』の記述が、「記録性」として格段に勝っていることに気づくようになったのである。
 そこで、少しずつだが、「見出し」や始めの部分だけでなく、本文のほうにも目を通すことにした。すると今度は、思いがけず『谷山市誌』がなぜあのようなわけのわからない書き方をしたのかという謎が解けてきたのである。
 それは、薩軍が人吉を撤退し、ジリジリと日向の飯野に追い込まれる直前の6月13日のことであった。『血涙史』の第七編第七節、「飯野越の戦と薩軍の情勢」という項目の中に以下のような記述があったのである。

・・・この夜常山隊(三番)小隊長池田庄左衛門等四十余名官軍第三方面の哨戦第十七中隊に来り降を乞ひ、且つ曰く「某等(それがしら)村田新八の命を受け詰旦(きつたん)官軍の哨戦を斫(き)らんとす、村田乃(すなわ)ち精兵を各隊より抜擢して某(それがし)に附す既にして「以為(おもえ)らく此事必成を期し難し、寧(むし)ろ今に迨(およ)びて帰順するに若かずと、因(よつ)て詐(いつわ)りて敵情を偵察すと稱(しょう)し以て此(ここ)に来るを得たり」と、此日官軍は予定の飯野越及び飯野を占領せり。・・・

西南戦争史料・拾遺(65)

2010-08-30 08:00:09 | 歴史
 それでは、なぜ戸長心得となった吉留盛喜は、自身が作った「蒲生出兵人名簿」に自分の名前を入れなかったのだろうか。
 それはたぶん、まだ政府の追及から逃れている薩軍兵士がいるのではないかという指示のもとに作られた名簿だったからではないだろうか。
 だからこそ、自分を含め、福島安や田中藤之進、鈴木弥助、また平成版郷土史で訂正された赤塚源太郎など、官軍に降伏し、のち官軍に協力した人物たちは除外したのだ、と。
在郷軍人会が、吉留の作成した名簿から「漏れた」人物たちとしているのは、ほとんど「降伏組」なのである。別な言い方をすれば、吉留や赤塚らは、辺見十郎太や淵辺高照、別府晋介らの強制的な募兵によって出陣した、いわゆる「二番立(だち)」だった。
 ところが、それにも拘らず、ここ蒲生では奇妙なことが起った。本来なら、戦後、多数派である「一番立」の帰還に伴い、「降伏組」を駆逐し、かれらが実権を握るはずなのに、ここでは、逆のことが起ったのである。
 昭和版、平成版『蒲生郷土誌』ともに、加治木でも帖佐でも重冨でもなく、なぜ赤塚ら(吉留ではない)が最初に帰順したのかということについて、「始めから郷党が分裂していたからだろう」としているが、その勢力が拮抗していたということなのだろうか。そして、「一番立」の有力者が戦死したり、あるいは懲役で不在になったりしたので、降伏組の有力者であり、政府側の覚えもよかった吉留盛喜が戸長心得となって蒲生郷の実権を握ったのだ、と。
 もっとも、こういう状況も長くは続かなかった。この辺りのことを、また、「西南戦争と蒲生」の著者に語ってもらおう。

   西南戦争の後遺症
西南戦争は、わが国最後の内乱であった。わが郷党は、はじめより、戊辰の役参加者などの戦後の恩賞の不公平や、時局の洞察などによる批判組と、私学校党の二手に分かれ、その影響は血族同胞相争う悲劇をもたらし家族へも危害が及んだ。やがて入獄者も帰ると、その後遺症は長く尾を引いた。明治十四年国会開催の大詔が下ると郷内は吏党、民党の政争に変じ、小学校子弟や農夫をもまきこむ激しい争いとなった。・・・


西南戦争史料・拾遺(64)

2010-08-29 08:41:26 | 歴史
 あるいは逆に、もし意識的に時間を無視しているのだとすれば、もっと何か重大なことをウヤムヤにしたかったのではないだろうか。
 そう考え直して、再度、この「西南戦争と蒲生」を読み直した。すると、最後のほうにこういう項目があった。

    戦後処理の様相
 西南戦争が終結すると、政府の威令は直に諸郷に浸透し、薩軍に投じた主な指揮者は投獄せられ、一方、官軍に投降したものを含め官軍に所属したものは、郷の諸役や権力の座につくという事態になった。官軍にあったものに、官軍手当て金五円が支給された。当時官軍側の一等属であった有村甚四郎は、手当金三十円を支給されている。
 蒲生の戦役参加者は、蒲生郷戸長心得吉留盛喜の蒲生警察派出所への報告書などを総合すると、出兵総数約六百八十三名、うち戦没者七十二名、懲役者十四名に及んでいる。・・・

 私のような短慮の人間には、まさか薩軍の「少数の裏切り者」たちが、故郷に帰り、そこで力を振るうことなどありえないだろうという思い込みがあった。だから、何度か読んだはずのこの部分も素通りしていたのだろう。
そして、私の早とちりを反省して、再び昭和44年版『蒲生郷土誌』を紐解いた。すると、案の定、ない、ないと思っていた赤塚源太郎に関する記述があったのである。

 どこかで、弁解の余地もない、大見得を切った私の阿呆さ加減を笑われてもしかたがあるまい。平成版の郷土史とほぼ同じような赤塚隊投降の記述を見逃していたのだから。
しかしながら、ここでようやくある確信を得た。蒲生の郷土史家たちは、その『郷土誌』でも「西南戦争と蒲生」でも、時間性を無視してでも隠蔽したかったのは、あるいはウヤムヤにしたかったのは、赤塚源太郎らの投降事件ではなく、『血涙史』で最初に、それも2度も名指しされた破竹四番中隊小隊長吉留盛美と、のちに蒲生戸長心得となった吉留盛喜が同一人物だったということではないだろうか、と。
 確かに、赤塚源太郎らは大量の投降者を出した。だが、これが蒲生士族の最初の投降ではない。おまけに、かれらは最初に投降した吉留盛美(喜)とその同調者である鈴木弥助の「教唆」によって投降したに過ぎないのだ。

西南戦争史料・拾遺(63)

2010-08-28 08:06:43 | 歴史
 この「論文」の著者は、全体を通して、全く『血涙史』については触れていない。鹿児島の郷土史家でこの本を読んでいないということはありえないし、本来なら、『血涙史』ではこう言っているが、地元の記録ではこうだ、こう語り伝えられているとか、言っていいはずなのに、ここでもそういう記述はない。まるでそういう本が存在していないかのように。
 これは、逆に言えば、『血涙史』を過剰に意識していることの証左ではないだろうか。なぜなら、『血涙史』では、最初の薩軍への裏切り行為を、それも2度にわたり追及しているのだ。つまり、これとまともに対峙すれば、この「汚名」を白日の下に晒すことになり、薩軍に積極的に参戦した蒲生士族の末裔たちの立場もなくなってしまうことになりかねない、ということなのである。
 それゆえ、まるで架空の出来事のように期日も記すこともなく、また淡々と他人事のように語っている。
 ついでだから、「蒲生隊、官軍へ投降」の次ぎにある「血縁同胞相撃つ」という項目も覗いてみよう。

   血縁同胞相撃つ
 官軍に投降した蒲生隊の一団は、別働第二旅団、岡本大尉の指揮下に入り、宮崎延岡に転戦し、山陰の戦に応援軍として薩軍を攻撃した。
 薩軍の中に、赤塚ら投降の折、傷病者として取り残された蒲生士瀬之口誠があって、彼は赤塚らの攻撃を受けるという悲運にあった。
 漆(蒲生地区内の小字であろう)出身の松永矢五郎と惣右衛門は兄弟で、弟矢五郎は一番立で出軍し、兄惣右衛門は二番立の赤塚隊に所属し官軍に投稿したため、兄弟相戦うということになった。同じく漆出身の山口岩次郎は、岡本大尉の指揮で舟で鹿児島に至り、米倉を攻める薩軍と戦った。また染川十太郎は米倉に於いて薩軍に銃撃され戦死した。

 これらも場所特定はともかく、いつごろのことかさっぱりわからない。記録性として、もっとも大事な要素の一つである「いつ」ということが抜ければ、それは歴史的記録として価値あるものとはいえまい。だが、これが無意識なのか意識的なのかもよくわからない。もし、仮に無意識の所産だとすれば、現代でも赤塚源太郎らの投降事件は触れたくない事実なのだろうか。あるいは・・・。


西南戦争史料・拾遺(62)

2010-08-27 08:15:19 | 歴史
 この論文(平成5年『鹿児島史談』第2号所載)は、平成3年刊の『蒲生郷土誌』で書けなかったことをわりに自由に、かつ詳細に語っているというようなことは以前述べた。ただ、論文というにはあまりにも裏づけがないので、そのまま信じていいのかよくわからない。この論の終りにも、一切の資料提示はなく、「重々しい」肩書きだけが並べられているだけなのだ。
 また、この著者が平成3年刊の郷土史も執筆したのかもよくわからない。が、「蒲生史談会副会長」などということから、編集等に携わったことは充分考えられる。
 では、この著者が、蒲生隊の投降事件をどのように書いているのか、そのまま抜き出してみよう。そのほうが、この著者の「論文」の全体が推察できると思うので。

   蒲生隊、官軍への投降
 球磨の千段川原の戦闘に、赤塚源太郎、黒川作兵衛は、戦に紛れ官軍に投降した。黒川は前述私学校党に就縛された松下兼清の兄である。
 隊長を失った蒲生隊は、小隊長吉留喜が大隊長を兼務した。官軍の猛攻激しく、薩軍は多いに苦戦のところ、分隊長鈴木弥助も夜陰にまぎれ投降した。鈴木は官軍将校を説得し、蒲生隊一団の投降方を求めたところ、許されて再び帰隊し、一同の投降を促し伝令や傷病者を除き、全員官軍に投降した。また川崎竜助、本村幸助は、肥後において軍艦鳳翔に降った。
 赤塚源太郎一隊七十九名、従卒合せ百四名は、投降ののち官兵となり、薩軍を攻撃した。

 これを読む限り、『血涙史』に名前のなかった黒川作兵衛なる人物も加え、赤塚源太郎らの投降は以前から自明のことのように語られている。また、場所はともかく、『血涙史』にはあった期日などは全く省略しているので、同書の記録性など無視しているようにも思える。ところが、昭和版『蒲生郷土誌』では、鈴木弥助を最初から官軍の兵として出兵したと言っているのに、それを無視し、『血涙史』と同様、「投降者」としている。
それでは、薩軍内で一番最初に投降したとされる吉留盛美という人物はいなかったのだろうか。

西南戦争史料・拾遺(61)

2010-08-26 08:26:39 | 歴史
 ただ、これですっきりしたわけではない。なるほど、吉留盛喜が赤塚源太郎らとともに投降したのでなければ、のちに蒲生戸長心得になったことは理解できる。それならなぜ、自らが作成した「明治十年役出兵名簿」に自分の名前を書かなかったのだろうか。あるいは入れなかったというべきなのだろうか。  
 昭和版・平成版『蒲生郷土誌』ともに、上記報告書に「漏れた」人物たち、すなわち、『薩南血涙史』で最初に投降したとされる、福島安、田中藤之進、鈴木弥助らと一緒に記載されているのだから。もちろん、今のところ、吉留盛美なる人物が存在するのかどうかわからないのだから、ここでは除外するしかないが、赤塚源太郎の場合はどうだろうか。
 かれの場合、昭和版の郷土史には、名前はなく、その代わり息子の源五郎の名前があった。これを平成版では、源五郎の名前ではなく源太郎に入れ替えてあった。吉留の場合、こういう改ざんというか誤記訂正というか、いわゆる修正がまったくなかったのである。
 さらにこうも考えてみた。『血涙史』では、吉留盛美の盛美を「セイビ」というルビを振っていた。だが、『血涙史』の著者が当てているルビは地名でも人名でも通常と違うルビを振っていることが多い。だから、盛喜が「モリヨシ」という読み方だとすれば、それが、どこかの段階で、盛美(モリヨシ)と誤記された可能性がある。つまり、『血涙史』の著者は、名簿に「盛美」という名前があったのを、呼び方がわからなかったため、音読みのルビを振ったのだ、と。
 のちに戸長心得となり、また源太郎のあとに破竹二番中隊長になった人物の名前が間違われるというのは、確かに奇妙なことにも聞こえるが、源太郎自身、中隊長になったのは、つい2、3日前なのである。それまでは、小隊長だったろうし、吉留などは半隊長か分隊長あたりだったのだから、薩軍内部では決して大物とはいえないだろう。それゆえ、誤記は充分考えられる。
 しかしながら、盛美も盛喜も同じ人物だったとしても、どうして戸長心得などになれたのか、という最初の疑問に戻るだけである。
 こんな堂々巡りを続けても仕方がないので、今度は『鹿児島史談』に掲載された、南實氏の「西南戦争と蒲生」に入ろう。

西南戦争史料・拾遺(60)

2010-08-25 08:26:05 | 歴史
 そして、これはどうしようもないことだと思われるのは、平成版では、赤塚源五郎の名前は、吉留の報告書の中だけになり、今度は、源五郎の代わりに父親の源太郎が在郷軍事会の「漏れた」人数の中に新たに書き加えられている有様なのである。のちの調査により、一部修正したなどという文言も(注)もなく。  
 これでは、明らかに史料改ざんと言われても仕方あるまい。だから、こんな資料を使っても何の解明にもつながらないのはわかってくるが、これ以上の手がかりはないのだから、今しばらくこれを見てみるしかない。
 さて、『血涙史』の最初の投降者たちの吉留盛美はともかく、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助は、昭和版・平成版の「漏れた」名簿の中にある。但し、福島の場合は、安(やすし)ではなく、康(やすし・だろう)としてだが、これは改名かどちらかの誤記と判断してもいいだだろう。何度も引っ掛かるのは、吉留盛喜のことである。昭和版・平成版ともに福島らと同じく「漏れた」人物たちの中にいる。しかしながら、かれが吉留盛美と同一人物だとすると、蒲生郷では、最初の「裏切り者」が、戦後、戸長心得として認められているということになる。それなら、当然、赤塚源太郎も認められていてもいいのに、平成3年の『郷土誌』まで無視されていたのである。吉留の配下の鈴木弥助の勧めによって、源太郎らが投降したとなれば、尚更おかしいことになる。
 それでは、吉留盛美と吉留盛喜が違う人物だとしたら、どうだろう。こう仮定すると、『蒲生郷土誌』の中には、かれの名前は一切出てこないのだから、赤塚源太郎以上に語れない人物として無視され続けているということになる。
 もう一つ考えられるとすれば、『薩南血涙史』の吉留盛美の名前はもっと別な人物の名前と取り違えていた可能性もある。ただ、これもはっきりと破竹四番中隊とも言っているし、それらの名簿などに基づいて記しているのだろうから、これも簡単に否定できない。おまけに、いい加減な情報を2度も繰り返しているということも考えられない。
 こんな錯綜に陥っているとき、再度開いた『鹿児島史談』(第2号)の論文「西南戦争と蒲生」に、吉留盛喜の名前が出てきていたのである。それは、破竹二番中隊赤塚隊の小隊長として、赤塚とは同調せず、赤塚が投降したあとの蒲生隊の大隊長(中隊長だと思うが)として。


西南戦争史料・拾遺(59)

2010-08-24 08:29:22 | 歴史
 くどいようだが、もう一度『薩南血涙史』の5月15日の項を引用する。

五月十五日
是(これ)より先き屋敷野越の薩軍守備破竹四番中隊半隊長吉留(よしどめ)盛美、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助なるもの夜潜(ひそか)に出でゝ官軍に降れり、此日鈴木は総督よりの帰順告諭書を以て説く所あり破竹二番中隊長赤塚源太郎、小隊長山内種徳(蒲生郷の隊)は其部下九十八名を率ゐ共に官軍に降れり・・・(下線部は黒丸点)

 これでは、どう読んでも鈴木弥助も破竹四番中隊・半隊長の吉留らの仲間になるし、そういう書き方である。但し、曖昧な表現だが、鈴木(弥助)は官軍に降伏したのち、官軍側の使者として、5月15日の赤塚源太郎の降伏に一役買ったように書かれている。『薩南血涙史』の著者・加治木常樹の間違いだったのだろうか。これもどちらを信じていいのかよくわからない。
 とにかく、わからないことはわからないこととして次に進めよう。平成版『蒲生郷土誌』では、吉留の報告書と在郷軍人会調べをどう言っているかというと、ほぼ昭和版と同じであるが、報告書総数486人、軍人会189人となっており、これは私が数えた数と矛盾しない。だが、昭和版の数が合っていないことなど何も触れていない。
 次に人名に関して論じてみよう。どうも人名を見ていくと、すべてとはいえないかもしれないが、戸長心得吉留盛喜は、投降者たちを無視して報告しているようなのだ。つまり、吉留が投降者たちを出兵人名簿の中に入れなかったために、在郷軍人会の中に加えられている投降者たちを「漏れた」人名として分けて記載しているようなのである。ただ、そう断定できる自信は私にはない。なぜなら、昭和版・平成版とも吉留盛喜自身は、「漏れた」数の中にいるのだから。これも何だかよくわからない。
 それと昭和版には赤塚源太郎の名前はどこにもない、と言ったが、吉留の報告書にも在郷軍人会の名簿にもないということだ。ところが、面白いことに、「漏れた」人名の中に、赤塚源五郎という人物がいた。私は、最初、「太」を「五」と誤記したのかと考えていたのだが、以前紹介した蒲生の郷土史家・南實氏の『西南戦争と蒲生』を読むと、何と赤塚源五郎は、源太郎の息子なのである。


西南戦争史料・拾遺(58)

2010-08-23 08:05:52 | 歴史
 では、今回からは、昭和版・平成版『蒲生郷土誌』を覗いてみよう。もちろん、昭和版に関する限り、赤塚源太郎の名前さえ出てこない。また、平成版にしたって、それほど踏み込んだ記述ではない。
 それゆえ、ここでは、以前、途中で保留にしておいた、『薩南血涙史』で一番初めに寝返ったとされる吉留盛美らについて論じようと思う。ただ、吉留盛美という人物は、「蒲生郷出兵人名簿」に名前はなく、その人物だと推定される吉留盛喜という名前があるだけであり、その人物は、その年に戸長心得になっているということも触れておいた。そして、もし吉留盛美と吉留盛喜が同一人物なら、そういうことはありうるだろうか、ということも。

 さて、この昭和版・平成版の郷土史の中で、共通して興味深い記録を載せている。それは、戸長心得の吉留盛喜名で、蒲生警視派出所へ提出した「明治10年役出兵人名簿」で、その提出期日は、同年12月30日とある。と同時に、在郷軍人会が調査したものの内、吉留盛喜の報告書から「漏れた」出兵人もそのあとに併記している。
 しかしながら、本来、どちらも百数十年前の資料であるから、同一数、同一人名であるべきなのに、それらが「微妙」に違っているのである。
 まず、私が数えた昭和版の吉留報告書数は、489人。そこから漏れた在郷軍人会調査数は、193人。次に、平成版では、前者が486人、後者が189人となっている。
これらのことを昭和版郷土史では、「戦後の混乱のため確実なる資料を見出せ得ない。したがって出兵総数も詳らかではないが明治10年12月30日蒲生郷戸長心得吉留盛喜より、蒲生警視派出所へ報告せる十年役出兵名簿(総数四百八十六名)及び在郷軍人会調査によるもののうち前期、吉留盛喜報告書に記載漏れの分(一九七名)を左にきすことにした」と書いているが、上記、私が何度も数えた数とも違っている。どうもよくわからない。
さらに、この続きとして、「然し乍ら在郷軍人会の調査による出兵人名の中には、官軍側として出兵した鈴木弥助等の氏名があり、その外氏名の誤記及び改名による重記のおそれもあるので正確なものとは断定できない」と結んでいる。
 だとすると、私はまたまた『薩南血涙史』を読み違えていたことになるのだろうか。
私は、在郷軍人会出兵人名簿に吉留盛美はともかく、福島康(安)、田中藤之進、鈴木弥助らの名前もあったし、『薩南血涙史』の書き方では、鈴木弥助もかれらと並んで書かれていたので何も疑わなかったのである。


西南戦争史料・拾遺(57)

2010-08-22 08:11:39 | 歴史
 話を野添日記に戻そう。7月1日の馬越士族の処刑から、記録は17日後に移っているが、この時期になると、もはや戦いという戦いではない。台場を築いていた中村町(宮崎県)も簡単に破られ、味方は散りぢりになって、山中へ逃げ込んだりしている。そして朝方になって戻ってきても中村町は焼かれ、食もない。その後は、食べ物の確保もままならない逃避行である。そして、高城、高原、霧島山を越え、8月1日、栗野、横川、溝辺を経由してようやく蒲生に帰り着く。それから、一旦隠れていた家から、8月3日、我が家に帰宅した。
 翌日、戸長役場に「成行伺い」のため出頭したところ、警視分署へ「帰郷書」を差し出すようにいわれたので、それを差し出している。その内容は、私が述べてきたようなことを簡単に記したものだが、これ以降は、日帳ではなく、「覚え」だとして、このことを以下のように記述している。

巳上(以上)日帳ハ中程迄書調(書きととのえ)候ヘ得共中程ヨリ末ハ覚ノ為書調タル者デ本帳ハ隊中名簿ト共ニ宮崎北野山中ニ投棄シタリ

 つまり、途中、日記の日付がかなり飛んだり、一部途中までだったりしたのは、日帳の一部を本隊の名簿とともに処分したからだということがわかった。
 ところで、このあとの「覚え」は、ある事件に関わった記録である。
 薩軍が可愛(えの)岳突破以降、神出鬼没の行動をとって鹿児島に入ってきたことは何度も述べた。そして、この蒲生郷にも8月31日に到着している。このため、政府軍に一旦恭順の意を示していた野添らは、再挙の謀議をめぐらしたらしい。このことが、政府軍の知るところとなり、9月16日、捕らえられ、野添を含めた蒲生士族15人が鹿児島の下伊敷の第2旅団本陣へ送られたのである。その8日後の9月22日、また9名の蒲生士族が収監されるに至ったが、野添はかれらの名前も記録している。そして、三官役だった4名の蒲生士族を除き、野添らは、10月2日に放免され帰宅。10月16日、加治木警視(分)署で放免されたという「覚え」で終わっている。

 これらのことは、ほぼそのまま平成版『蒲生郷土誌』にも記載されている。ということは当然、赤塚源太郎らの投降も記録しているが、いつ投降したのかも、またそれ以前の破竹四番中隊の吉留盛美や福島安、田中藤之進、鈴木弥助らのことも何も言及していない。こういうときの『薩南血涙史』は信用に足ならないのだろうか。