海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(43)

2010-08-07 17:08:07 | 歴史
 これは重大なことのように思われる。なぜなら、もし土岐が大口本営の誰かではなく、直接辺見へ訴え出て、情実はできないと断られているとしたら、辺見が直接12人に手を下さなかったとしても、4月3日、4日頃には大口周辺にいたということになる。だとすると、『薩南血涙史』で言っていたことは嘘になってしまうのである。では、その部分の詳細を私の『西南之役異聞』から引用して説明しよう。

・・・『薩南血涙史』によれば、辺見十郎太や別府晋介らは、3月25日に大口に本営を設け、それ以前から集めた兵士1,500名をそこに収容し、一大隊として編制し直し、指揮長を別府晋介、辺見十郎太の二人としている。そして、3月31日、かれらはその兵を引き連れて熊本の人吉に移動しているのである。今度はそこに本営を築き、翌日は、一日休息して、人馬の英気を養ったと記している。それというのも、これより以前、官軍が八代(やつしろ)に上陸し、そこから熊本城の鎮台に武器弾薬食料を運びこもうとするのを、熊本の薩軍と辺見らの新しい部隊が挟み撃ちをして、かれらを殲滅しようという作戦を立てていたのである。そこで、休養明けの4月2日には、官軍のいる八代まで部隊を進めようと、人吉を出発して球磨(くま)川沿いの湯治村というところまで来て、その日はそこに宿陣した。翌日の3日には、そこを出て、中村というところまで軍を進めたが、敵状を偵察させると、官軍は八代より少し球磨川を上った坂本というところに陣を敷いていることがわかった。そうとわかると、別府は熊本本営の桐野利秋へ、辺見は宇土(うと)本営の永山弥一郎にそれぞれ書状を出し、明日4日の坂本攻撃を知らせたという。『薩南血涙史』は、その書状も掲載している。・・・

 これは、出水市教育委員会が現場に建てた案内板の内容が違うのではないかと論証したものなのだが、ついでだから、案内板の一部も引用してみる。

・・・十二人は、四月三日、辺見の前に引き出され、再度従軍を勧められたが、頑として節を曲げず屈しなかった。辺見らは士気高揚のために、仕方なく、この十二人を、大口平出水を通り、クマザサにおおわれたここ上場に連行し、山桜が薫風にのって散る四月四日、斬首に処した。・・・

 私は、『薩南血涙史』に引用されている辺見の手紙を実際に確認したわけではない。しかしながら、著者がわざわざ捏造までして、辺見のアリバイ工作をする必要も認められないので、辺見は大口周辺にはいなかったと考えていたのである。今までのところは。