海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年 (二)の附

2021-10-31 07:49:57 | 歴史

 この事件から百二十年ほど経った昭和五十九(一九八四)年八月、喜八郎の孫という人物が、同家に伝わる話として、英国人リチャードソンを最初に斬り付けたのは、自分の祖父である喜八郎(繁)だと新聞紙上で発表した。周囲の人は、ほとんど誰も信じなかったが、私は信じて疑わない。

*特に断りのない場合、和暦で通した。


沈黙の百二十年 (二)の附

2021-10-30 08:12:18 | 歴史

 それでは、その喜八郎は行列のどこにいたのか。これまで名前をあげた中で、配置がわかっているのは、喜左衛門、海江田、それと松方だけで、松方は久光の駕籠周りにいたとされる。御近習番になっていたのだから、これも不自然さはない。

 結論を先にいえば、喜八郎は久光の駕籠前を行進していた三十人ほどの御小姓組の前にいた、と私は推測する。供目付でもあり、かつ御近習番でもあるのだから、これも全く不自然さはない。そしてのちのちの様々な情報からも、私にはこれが一番妥当な位置である。

そして、初めて大名行列に遭遇し、どうしてよいかわからず、最初は間延びした行列の脇をすり抜けるようにやって来た英国商人たちも、ついに御小姓組の前で立ち往生することになる。もう生麦村の茶屋が立ち並ぶ狭い道なのである。馬に乗っていては、これ以上前に進むことはできない。おまけに、御小姓組を含め、様々なところから「どけ、どけ」とか「馬から降りろ」などという罵声(ばせい)が飛んでくる。先頭にいたリチャードソンという若い商人は、馬の踵(きびす)を返して引き返そうとするが、時遅しである。籠脇から駆け付けた供頭の喜左衛門に斬りつけられ、致命傷を与えられる。TVドラマなどで見られる場面である。

 しかし私は、こういうドラマ場面に遭遇すると、『薩藩海軍史』の喜左衛門説を無理やり当てはめたシーンとしか思えないのである。まるでリチャードソンは、走って来る喜左衛門に斬られるのを待っているかのように。

 そもそも、喜左衛門が数十メートル離れた駕籠脇から、御小姓組の前にいるリチャードソンまで、どの位の時間を要するだろうか。久光の指嗾(しそう)があろうがなかろうが、喜左衛門が数十メートル先の馬に乗っているところまでは相当な距離があり、そこまで行きつくまでもかなりの時間が必要なのである。もし喜左衛門が、異人たちを制止しようと、混乱している御小姓組の間を五メートル、十メートルでも走って来たら、馬上のリチャードソンたちからすぐ視認できるのだ。要するに、刀を振りかざし、血相をかかえて走って来る男がいたら、すぐに踵を返し逃げられる時間は充分過ぎるほどあるはずなのである。

 道幅が二間(三・六メートル)だろうと、三間(五・四メートル)だろうと、リチャードソンは楽々と逃げられただろう。こういう光景を想像するほうが自然なのである。

 では誰が最初に斬りつけたのか。それは、御小姓組の前にいたと推定できる弟の喜八郎しかいない、と私は考えている。行列責任者の兄が駆け付けてくるのを見て、これは斬り捨ててよいのだと、判断して。

 これは大正期まで生きた駕籠かきの一人の証言ともよく符合している。

 


沈黙の百二十年 (二)の附

2021-10-29 08:18:43 | 歴史

 昭和三(一九二八)年刊行の『薩藩海軍史』(中巻)という厚冊の本は、日露戦争で活躍した東郷平八郎を筆頭とする薩摩藩出身者を讃(たた)える意味合いをこめている。つまり、明治以降、勝ち残った内輪の人たちを意識した本だから、あまり鵜呑みにしてはいけないということだ。特に生麦事件の項目などは素人が読んでも杜撰(ずさん)としかいいようがない箇所がある。困るのは、現代の歴史研究者が本来やるべき史料批判もせず、しばしばそういう箇所を引用していることである。そして、この本が下敷きとなって、今も通用している『鹿児島県史』に、奈良原喜左衛門が、生麦事件の犯人として現在の定説となっている。

 ただ、『薩藩海軍史』の生麦事件の項目で疑問の余地のないものがあるとすれば、道中行列の配列を含めた、島津久光や当日の行列の責任者である供頭(ともがしら)の喜左衛門たちの位置関係だろう。薩摩藩の職階制では、供頭というのは、通常、供目付の役回りのようである。近代の兵制に置き換えると、大尉クラス辺りではなかろうか。まず、下級武士が武官として徒(かち)目付になると、士官としての扱いになる。西郷や大久保など下級武士の履歴に、徒目付が一人前の藩士となった証(あかし)として必ず記されているからだ。それから、何らかの査定で供目付に上がり、その供目付格が、大名行列の責任者、つまり供頭となる。そして供頭は、殿様を警護する一番の責任者なのだから、駕籠(かご)廻りにいて何の違和感もない。だから当然、『薩藩海軍史』では、喜左衛門は、島津久光の駕籠脇にいたとしている。私にも異論はない。そして、非番の供頭である海江田信義は、行列の先頭の方にいた。これも通常の配置だろう。

 ここで問題になるのは、喜左衛門の弟・喜八郎がどこにいたのか、ということである。『薩藩海軍史』には、明治後、男爵までなった弟・喜八郎(繁)がどこにいたのかなど、全く記載はない。それどころか、この行列にいなかかったように完全に消えている。   

 ところで、五か月ほど前の寺田屋事件後、徒目付から供目付になった人物たちがいた。奈良原喜八郎(繁)、海江田武次(信義)、大山格之助(綱良)、江夏(こうか)仲左衛門の四人で、海江田を除けば、寺田屋事件で鎮撫使になった者たちである。さらに、久光一行が江戸に着いて一か月以上経った七月十九日、久光の面前に呼び出された喜八郎は、森岡善助、山口金之進、松方助左衛門(正義)らとともに御近習番(ごきんじゅうばん)として、役料、扶持米、心付け銀、反物などを拝領している。松方はよくわからないが、森岡も山口も、寺田屋事件の鎮撫使側だった。これで喜八郎らはいかに久光のおぼえが愛(め)でたかったかわかるだろう。特に、喜八郎の場合は、明治後まで久光の懐刀として重用されている。


沈黙の百二十年 附(つけたり)

2021-10-28 07:32:08 | 歴史

 明治も二十年ほど経過した頃、その行列の非番の供頭だった海江田信義子爵は、喜左衛門は病気で亡くなった、と周囲に伝えている。そしてそれが、喜左衛門病死説の根拠になっている。だが私は、そんな可能性はほとんどないと考えている。なぜなら、喜左衛門は、その年の二月末、京都にいる大久保一蔵(利通)へ書状を携えて鹿児島から出立しているのだ。だから三月初めか、遅くとも半ば頃までには京都に着いているはずである。その元気な彼が、そのおよそ三か月後の閏五月十八日に京都で病死するとは考えにくいのである。というより、この三か月間というのは、喜左衛門に詰腹(つめばら)を切らせるための説得時間として充分な時間だった、と私は考えている。実際は、最初に弟の喜八郎(繁)がリチャードソンを斬りつけたのに、偶々、行列の責任者だった兄を説得させるための時間が。そして、奈良原喜八郎(繁)家の子孫関係者に残っていた文書記録にも、病死を匂わせる記載は一切なかった。 


沈黙の百二十年 附(つけたり)

2021-10-27 08:23:56 | 歴史

 彼が日本に着任した約一年後の慶応二(一八六六)年六月、薩摩藩主の招待で鹿児島を訪問し、藩主(忠義)の父親である久光と会談した。このことを本国の外務次官ハモンドに報告している。それを掲げてみよう。

 

「・・・藩主の父(久光)は、リチャードソンの殺害(生麦事件)に関係のあった大名であり、われわれがあの事件を忘れ、そして許す意向があるかどうかという自分の心配をなくして安心したいということが、われわれを鹿児島に招待したかれの目的のひとつであることは、疑いえない。いうまでもないことであるが、この問題に言及されることはなかった。もっとも、かれらは、鹿児島の戦闘(薩英戦争)のことは、自由に語っていたが。」(  )は筆者注<1866年8月2日(陽暦)付け、ハモンド外務次官宛パークスの半交信>

 

 原文を目にしていないので、ややまどろっこしい訳文から判断するしかないが、先ず私の推定した通りに解釈してみる。

 久光は、喜左衛門をリチャードソン殺害犯として処分したにもかかわらず、高圧的な新任公使がそれを許したかどうかはっきりせず心配していた。そして、そのパークスが、一年近く経っても、生麦一件のことはもう何も言ってこない。それなら、と、久光はその最終確認と今後の友好関係を含めて鹿児島へ招待した。

 他方、パークスには、もうそれは長崎の会談で済んだことだ、だから「いうまでもない」ことであり、今さら話題にあげる必要もなかった。それをまだ気にかけていた様子の久光は、パークスがもう話題にしない以上、生麦の一件はもう触れたくもないから、もっぱら薩英戦争の話ばかり「自由に」していた、ということになる。

 しかしながら、私の前提を無視すれば、パークスが、何を指して「いうまでもない」と言っているのかはっきりしない。単に、生麦一件に関しては、充分な賠償金を得ているのだから、また犯人が処分されようがされまいが、事件が起きたのは、私の赴任前で、前任者の問題であり、私には「いうまでもなく」関係のないことだ、などと解釈できないこともない。また、私の推論通り、それは長崎で話し合い、犯人もすでに処分されて済んだことだから「いうまでもない」と、解釈することも可能だ。つまり、パークスは具体的なことは何も言っていないので、記録からは証明できないということになる。ただ、この書面から、久光は、喜左衛門に責任を取らせた後も、パークスがどう反応したか、かなり心配していたかよくわかる。また彼自身、生麦一件にはもう触れたくもない、ということが。

 記録でも判断できない私の推論は、馬鹿げている、と頭の固い研究者は言うだろう。そうかもしれない。私の推測は間違っているかもしれない。しかしながら、前任者オールコック含め、本国に影響を及ぼさない限り、記録に残さない密談など少しも珍しいことではない。生麦事件の犯人処刑の問題など、彼らの一存で済んでしまう程度のことに過ぎない。特命全権公使ならなおさらだ。

 イギリス(最初はエゲレス)はイングランドが訛って日本語となったようだが、当時のイギリスはイングランドという狭小な国ではない。産業革命以降、世界に冠たるグレート・ブリテン、大英帝国なのである。彼らは、二世紀もの間、武力を背景にはしているが、むしろ巧みな外交で世界を支配してきたのである。武力を前面に押し出し過ぎれば、ポルトガルやスペインのように短い覇権国家で終っていたかもしれない。大英帝国は、自国の利益のためなら、時には言葉巧みに、時には二枚舌、三枚舌を使ってでも交渉相手を篭絡してきた国なのである。そうでもしなければ、ヨーロッパの小さな島国が、武力のみで世界支配を続けていくのは不可能だったろう。

 それゆえ、アロー戦争(第二次アヘン戦争)後の南京条約や天津・北京条約など、現場の広東領事として清国との交渉に携わってきたパークスにとって、もし薩摩藩が生麦事件の犯人を内密に処分する、と言ってきたら、何の問題もなく、承諾したに違いないのだ。パークスにとっては、公使赴任直後の満足できる初仕事であり、自分の威光も確認できたのだから。と同時に、英国側にとっても何の蟠(わだかま)りもなくなり、「いうまでもなく」生麦事件は完全に終わったことになるのである。

 一方、薩摩藩は前任者のオールコックより十九歳も若く、エネルギッシュなパークスの信頼を得なければならなかった。そのため、奈良原喜左衛門に詰め腹を切らしたのである。彼が、リチャードソンを斬り付けたという当時の横浜居留区の噂もあったし、英国側もそれで充分納得できただろう。


沈黙の百二十年 附(つけたり)

2021-10-26 07:37:16 | 歴史

 パークスは、幼い時に両親を失い、初等教育を終えた後、アヘン戦争中の一八四一年、十三歳で姉たちのいるマカオに渡った。そして十五歳で清国語の審査に合格し、広東の領事館員として出発する。その後、厦門(アモイ)領事館に異動し、そこに赴任して来たオールコック領事の通訳として、福州、上海と五年間、彼に帯同している。その後、最初の賜暇を得て帰国し、アヘン戦争を強硬に主導した外務大臣・パーマストンの知遇を得、彼の熱烈な崇拝者となる。また、パーマストンの厚い信頼を得ていた外務省東洋部主任(のち外務次官)のハモンドとも知己となっている。そして、その休暇から戻った三年後の一八五四年には、アモイ領事に就任。二十六歳だった。その後、広東領事になったばかりの安政三(一八五六)年九月、目前でアロー号事件が起こり、第二次アヘン戦争の渦中に巻き込まれたのである。その間、その後の天津条約や北京条約の過程で、清国軍の捕虜にもなっている。

 元治元(一八六四)年、二年間の賜暇を終えて清国に戻ったパークスは、清国領事部門の頂点とされる上海領事に就任する。三十六歳だった。そして同年十一月、オールコックが日本を去り、上海に立ち寄った際には、後任の公使はまだ決まっていなかったが、彼は上海領事であるパークスに日本の情勢をつぶさに伝えていたに違いない。翌年三月、外相ラッセルがパークスを特命全権公使に指名すると、権限の限られた領事職にあきたらなかった彼は、すぐに承諾し、前任地の上海から日本に向かった。そして彼が長崎に到着したのは、慶応元(一八六五)年閏五月五日のことだった。

 こうしてみる限り、パークスは、当時ですら、正規の外交官僚とは言い難く、実社会の荒波にもまれて出世していった、いわば叩き上げの外交官だった。また砲艦外交の親玉であるパーマストンに心酔する純朴な男であり、東洋人を劣等な民族と見做し、アロー戦争を画策し、それをパーマストンに進言したというオールコック以上に、強圧的な人物だった。

 ところで、英国と緊密な関係にあった薩摩藩は、このパークスという人物がどういう人物かは、かなりの情報は得ていただろう。繰り返すまでもないが、この年の三月には、十九人の留学生を英国に密航させているのである。薩摩藩にとって、次の英国公使が誰になるかは切実で重要な問題だった。それゆえ、文久二(一八六二)年の生麦事件直後に来日した通訳官アーネスト・サトウなどと頻繁に連絡を取り合って情報を得ていたに違いない。彼は、二年程で日本語の読み書きに精通したといわれ、書簡のやり取りにも何の問題もなかった。

 こうして、閏五月五日に長崎に着いたパークスは、そこに四日ほど滞在する。表向きは天候待ちなどと言われているが、当然、薩摩藩の外向方と話し合いをしていた、と私は考えている。明確な記録はない。ところがパークスは、九日に長崎を出港し、翌日、下関に立ち寄り、木戸孝允、井上馨らと会談している。これは、はっきりしている。ということは、パークスは長崎で長州藩関係者と接触し、木戸や井上と会合予定を組んでいたということである。そうでなければ、十日に、偶然木戸や井上らと会談などできるはずがないからだ。つまりパークスは、長崎で長州藩ばかりでなく、薩摩藩の外交方と何らかの話し合いをしていたとしても何の不思議もない、ということになる。いや、何らかの話ではなく、私は生麦事件の犯人処刑の話をしたと推定している。というのも、パークスは、下関寄港後、瀬戸内海、大坂湾を経由して十六日に横浜に着く。その二日後の閏五月十八日、生麦事件時の当番供頭(責任者)だった奈良原喜左衛門が亡くなっているからである。 

 これを単なる偶然といえるだろうか。文久二(一八六二)年の生麦事件以降、薩摩藩は英国側の犯人引き渡し要求や賠償金の請求を頑なに拒否してきた。しかし、翌年の薩英戦争後、その方針を一変し、英国側に急接近したのである。ただここで問題だったのは、薩摩藩側は、英国側との最後の会談で、生麦事件の犯人処刑を要求されたにもかかわらず、それを果してこなかったということなのだ。言い換えれば、薩摩藩は、パークスが赴任するまで、この問題を曖昧に済ましてきたということにほかならない。そして、新しい駐日公使が上海からやって来る。薩摩藩は、清国で叩き上げた、強面(こわもて)の外交官の前では、もう誤魔化しがきかないと判断し、生麦事件の責任者を処分することにした。そして、そのことを長崎に到着した新任公使のパークスと話し合ったのである。

 しかしながら、私のこの推論を必ずしも否定するものではないものの、何ともいいようのない記録も残っている。後にパークス自身が生麦事件に触れた書簡が存在するのである。


沈黙の百二十年 附(つけたり)

2021-10-25 08:18:17 | 歴史

 この時期の奈良原兄弟はというと、兄・喜左衛門は、百二十人ほどの部隊を率いた隊長だったが、生麦事件以降ほとんど出世しているようには見えない。一方、弟・幸五郎は、禁門の変以前、城中に設けられた議政所の掛を命じられ、小納戸役になっている。いわば、藩の重役と言っていいほどの地位に就いていたのである。言い方を変えれば、喜左衛門は、誰かに取って替われる存在にすぎないが、幸五郎は、久光の手元から離せない存在になっていたということでもある。

 さて、この間の目まぐるしく動く政治状況を経て、着々と押し進めていた薩摩藩の英国留学生十九人は、翌慶応元(一八六五)年三月二十二日、薩摩領内の串木野から出港した。

 これからは英国側の話に移る。文久二(一八六二)年八月、生麦事件が起こった時、英国公使・ラザフォード・オールコックは、賜暇で帰国中だった。そのため、ジョン・ニール陸軍中佐が代理を務めていた。そして、オールコックが、約二年の賜暇を終えて日本に戻ったのは、元治元(一八六四)年一月二十四日のことだった。そのため彼は、生麦事件や薩英戦争に関しては英国で聞いていたが、その後の薩摩藩との戦後交渉は事後報告を受けただけだったろう。彼がこの交渉に何か不満があったかなどはよくわからない。この交渉の責任者であったニール代理公使は、薩英戦争に関しては本国から行き過ぎた行動だと批判はされたが、その後はすぐ解任されることもなかったことから、オールコックは彼の報告を受け、了解したのだろう。だから、生麦事件で、リチャードソンを殺害した犯人処刑の問題はともかく、多額の賠償金を得たことで満足したのかもしれない。当時、この種の紛争で英国が他国に要求する十倍ほどの金額をせしめているのだから、犯人処刑の不実行など、オールコックにとって些末なことだったに違いない。そんなことより彼にとって問題だったのは、彼が不在の間、日本の情勢が一変していたことだった。

 一昨年の生麦事件や前年七月の薩英戦争はともかく、この戦争の二か月ほど前、長州藩が馬関(下関)海峡を通る米、仏、蘭船に対して砲撃していたのである。それは、半年後の米、仏軍の報復によって砲台が破壊されたものの、その後小倉藩領側に別な砲台を造り、また馬関海峡を封鎖し続けているのだった。これは、オールコック帰任後の最初の大きな問題だった。なぜなら、英国商船がここを安全に通れないことは、英国の貿易に大きな損害を与えることになるからである。これが彼の一番の関心事であることは、上海領事時代、貿易拡大のため、パーマストン首相に清国との再戦を進言し、第二次アヘン戦争を誘導するような男だったことからもわかる。そうして日本でも、彼は、アメリカ、フランス、オランダに呼びかけ、元治元(一八六四)年七月、いわゆる四国艦隊下関砲撃事件を引き起こすのである。しかし、このことが、オールコックの解任劇に発展してしまう。本国に事前の了解を得る前に、行動してしまったためである。外相ジョン・ラッセルは、オールコックからの下関へ遠征するという報告に対して、禁止の通達を送っていたのである。ところが、これが事後に届いてしまった。そのため、四国下関砲撃事件の結果が本国に報告されると、それに激怒したラッセルは、命令違反として、オールコックに帰国を命じるのである。

 当時、英国と日本との通信連絡には一か月以上もかかったので、こういう行き違いは無理もないのだが、後にオールコックの弁明書を読んだラッセルは、一転してオールコックを承認し、彼が帰国後、再度日本への赴任を要請している。しかし、オールコックは拒否した。もっとも、その年、アジアでは一番地位の高い清国特命全権公使として赴任しているが。

 こうした曲折を経て、二代目駐日英国公使は、上海領事だったハリー・S・パークスに決まった。


沈黙の百二十年 附(つけたり)

2021-10-24 08:44:55 | 歴史

 この間、薩摩藩は多事多難だった。薩英戦争の約一か月半後、公武合体派だった薩摩藩と会津藩が協力し、攘夷の急先鋒であり、京都政局を牛耳っていた長州藩をそこから追い払うという、いわゆる八月十八日の政変を起こす。この政変に関して、生麦事件で問題となった奈良原喜左衛門・喜八郎(明治以降は繁)兄弟の動向について触れておかなければなるまい。薩英戦争には兄・喜左衛門は加わっていたが、幸五郎と改名していた喜八郎は、久光の命で、京都留守居・吉井友実(ともざね)<幸輔>らとともに朝廷工作のため京都にいた。だから戦闘には参加していない。そして幸五郎は、薩英戦争が終わっておよそ二週間後の七月二十日に、久光の上京を促す孝明天皇の沙汰書とそれを願った近衛家の建白書を持って帰国。その三日後には、今度は久光の返書を持って上京し、八月四日に京に着いてからは、高崎佐太郎(正風)らとともに会津藩との連携に奔走し、八・一八政変を成功に導いている。この八面六臂の活躍のため、十月には、近衛家や久光から報奨を貰っている。まさに、弟・幸五郎は、もう久光の懐(ふところ)刀(がたな)の一人といってよく、兄・喜左衛門とは、もはや歴然たる差がついていたのである。

 さて、この翌年の元治元(一八六四)年のことである。政変後の起死回生をもくろみ、一部の長州藩士らは京に潜伏して情報収集に当たっていた。そこで、長州や土佐、肥後藩の尊攘派の過激浪士たちが密かに会合を持とうと池田屋に集結していた。六月五日のことである。ところが、これが事前に漏れ、新選組らの急襲に遭(あ)う。世にいう池田屋事件である。この事件で桂小五郎(木戸孝允)のような大物は運よく難を逃れたものの、多数の死傷者を出してしまう。その知らせを聞いた長州藩は怒りに燃え、また八・一八政変での屈辱もあり、兵力をもって上京。これが七月十九日に起こった禁門の変という戦いとなった。そしてまたもや、長州藩は、薩摩藩と会津藩を主力とした部隊に敗れ、潰走(かいそう)させられたのである。


沈黙の百二十年 (一)の附(つけたり)

2021-10-23 07:04:22 | 歴史

 文久三(一八六三)年七月二日未明、薩摩藩が鹿児島湾奥に隠していた三隻の軍艦を英国側が襲撃し、それらを拿捕(だほ)したことから、同藩は各台場から英国艦への砲撃を開始した。そして二日間の戦闘で、薩摩藩側は、その年の春に購入したばかりの、三十万ドル相当の軍艦三隻を焼失し、また城下の一割ほども焼かれてしまうが、戦死五名、重軽傷者は十数名にすぎなかった。それに対して英国側は、旗艦の艦長や副長を含む十数名の戦死者、また五十数名の重軽傷者を出し、さらに一部の軍艦の損傷もひどく、六日には七隻の艦隊が鹿児島湾を退去する。結果的には、薩摩藩と英国側は、五分五分という戦いで終わったように見える。しかし、たとえ軍艦を三隻失ったとしても、また城下を一割ほど焼かれたとしても、戦いはたった二日で止み、その三日後には英国艦隊はヨタヨタと引き上げてしまったのである。だから、戦闘に参加し昂揚していた藩士たちには、戦勝気分のほうが強かっただろう。もっとも、戦闘を冷静に見ていた藩首脳部は、深刻な打撃を受けた。大砲の射程距離の違いや火力(アームストロング砲)の威力をまざまざと見せつけられたからである。要するに、このままでは、攘夷など不可能だと思い知らされたのである。そのため、前年の生麦事件以降、頑なに拒否して来た英国との交渉を何とかしなければならなかった。七月六日に英国艦隊が去って、二十日も経たない七月二十三日には、藩首脳部は、和睦交渉者を送っている。その後、年内に四回の交渉を重ね、十一月一日の最後の交渉で、一応の妥結をみた。結局、薩摩藩は、生麦事件で既に幕府が支払っていた十一万ポンド(三十四万二千百両)の賠償金のほかに、英国側に二万五千ポンド(六万三百三十三両一歩)の支払いと生麦事件の下手人の処刑を約束する証書を渡したとされている。ただ薩摩藩は、一銭も支払わなかった。幕府に肩代わりさせたからである。そしてその後、生麦事件の犯人を処刑したという記録もない。これが当時の薩摩藩の幕府に対する勢いだったといえば言えただろう。ところが、この最後の交渉で、英国側は、薩摩藩に軍艦購入の周旋をするという証書を交わしている。このことから、以後、薩摩藩も英国側とは、うまく渡り合わなければならなくなった。そのうえ薩摩藩は、幕府に隠れて、着々と別な計画を押し進めるようになる。

 この英国側と隠密裏に進めていた計画とは、藩士を英国に留学させることだった。すでに長州藩は、文久三(一八六三)年五月、後に長州五傑(ファイブ)として知られるようになった、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、山尾庸三など五人を英国に密行させている。薩摩藩は当然このことを洩れ聞いていたと思うが、よくわからない。どちらにしても、薩英戦争で英国の文明度に畏怖した薩摩藩は、いち早くそれを学ぶ必要を感じていただろう。しかし実際にこれを実行するには、一年以上待たなければならなかった。


沈黙の百二十年

2021-10-22 07:18:20 | 歴史

 福島ヨネ女史の最後にも触れなければなるまい。昭和三十九(一九六四)年に亡くなったことはすでに述べたたが、正確には東京オリンピックが終わった後の十一月六日であった。享年七十三。全国モーターボート競走連合会葬だった。葬儀委員長に笹川良一。副委員長は藤吉男。参列者の中には、参議院議員・植竹春彦、修養団創設者・蓮沼門三などがいたという。

 尚、ヨネさんの家に出入りしていた貢氏は、昭和四十五(一九七〇)年、東京から横浜に移った。それまでもリチャードソンの墓参りはしていたが、横浜の方が近くて便利だったかららしい。父親の吉之助氏は、昭和三十五(一九六〇)年、北海道で亡くなったが、貢氏は、平成十二(二〇〇〇)年、横浜で亡くなっている。父親は、七十八歳。貢氏は七十九歳だった。

 私は、三次や緑子の墓を探したが、今のところ、見つけていない。しかしながら、現在では、音次郎が建てた稲毛の記念碑で充分だと思っている。それを見て、幸薄かった緑子や、半ば無理やり離縁させられ、若くして亡くなった彼女の母親が偲ばれれば、と。

(奈良原繁及び三次は、歴史上の人物として敬称を省いたが、資料提供者の子孫氏は現在も係累に当たる人たちが存命のため、敬称を用いた。尚、伊藤音次郎氏は(平木國夫氏は著者として)歴史上の人物と見做していいと思っているが、氏の場合は、緑子嬢と同じように、むしろ私の感情移入による親近性から、敬称を省いたことをお断りしておく。尚、「伊藤音次郎日記」を公開したご子孫氏に、また、それを翻刻し、ネット上で公開した日本航空協会(財団法人)、さらに奈良原別家及び福島ヨネ両子孫家の寛大な資料提供に対しても改めて感謝申し上げたい。それらの資料や音次郎日記等が存在しなかったら、この作品はありえなかったし、それ以上に私の長年の疑問が氷解したことに、深く謝意を表する次第です。)