海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(62)

2010-08-27 08:15:19 | 歴史
 この論文(平成5年『鹿児島史談』第2号所載)は、平成3年刊の『蒲生郷土誌』で書けなかったことをわりに自由に、かつ詳細に語っているというようなことは以前述べた。ただ、論文というにはあまりにも裏づけがないので、そのまま信じていいのかよくわからない。この論の終りにも、一切の資料提示はなく、「重々しい」肩書きだけが並べられているだけなのだ。
 また、この著者が平成3年刊の郷土史も執筆したのかもよくわからない。が、「蒲生史談会副会長」などということから、編集等に携わったことは充分考えられる。
 では、この著者が、蒲生隊の投降事件をどのように書いているのか、そのまま抜き出してみよう。そのほうが、この著者の「論文」の全体が推察できると思うので。

   蒲生隊、官軍への投降
 球磨の千段川原の戦闘に、赤塚源太郎、黒川作兵衛は、戦に紛れ官軍に投降した。黒川は前述私学校党に就縛された松下兼清の兄である。
 隊長を失った蒲生隊は、小隊長吉留喜が大隊長を兼務した。官軍の猛攻激しく、薩軍は多いに苦戦のところ、分隊長鈴木弥助も夜陰にまぎれ投降した。鈴木は官軍将校を説得し、蒲生隊一団の投降方を求めたところ、許されて再び帰隊し、一同の投降を促し伝令や傷病者を除き、全員官軍に投降した。また川崎竜助、本村幸助は、肥後において軍艦鳳翔に降った。
 赤塚源太郎一隊七十九名、従卒合せ百四名は、投降ののち官兵となり、薩軍を攻撃した。

 これを読む限り、『血涙史』に名前のなかった黒川作兵衛なる人物も加え、赤塚源太郎らの投降は以前から自明のことのように語られている。また、場所はともかく、『血涙史』にはあった期日などは全く省略しているので、同書の記録性など無視しているようにも思える。ところが、昭和版『蒲生郷土誌』では、鈴木弥助を最初から官軍の兵として出兵したと言っているのに、それを無視し、『血涙史』と同様、「投降者」としている。
それでは、薩軍内で一番最初に投降したとされる吉留盛美という人物はいなかったのだろうか。