海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-06-30 11:30:50 | 歴史

     (3)日本における英国とオランダ

 さて、1623年に起きたアンボイナ事件までの香辛料貿易を巡って、イギリス東インド会社(EIC)とオランダ東インド会社(VOC)の覇権闘争で、なぜ英国ではなくオランダが日本との貿易が可能になったか、ほぼその理由がわかってきた。ここでまた、慶長5(1600)年の日本に戻ろう。

 豊後(大分)の臼杵に漂着したオランダ船の船員たちが救助されると、この話は、秀吉(1537~1598)亡きあとの大坂に届く。そこで五大老筆頭になっていた徳川家康(1543~1616)は、ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンらに引見し、彼らの話を聞いた。家康は、イエズス会士からリーフデ号は海賊船だから即刻処刑すべきだという要求も耳にしていたので、始めは疑っていた。しかし、彼らの航海の目的、カトリック(旧教)やプロテスタント(新教)の違いなど、臆せず回答するのを見て、宣教師たちの忠告を黙殺することにした。そして、一旦、投獄したものの、その後も何度か引見し、ついには彼らを江戸に招くことにする。

 ところで、家康が彼らに引見する2年前の1598年8月18日、秀吉が伏見城で亡くなった。その後家康は、マニラから日本に来て潜伏していたフランシスコ会士・ジェロニモ・デ・ジェデスを探し出して引見している。というのは、スペイン船を関東に寄港させ、貿易を始めたいので、ルソン総督府に仲介するようにと彼に説得していたのである(『近世日本とルソン』清水有子)。

 最初の頃、家康は経済的地盤が秀吉のように盤石でなかったこともあり、宗教問題はともかく、信長(1534~1582)や秀吉のように海外貿易で利を得るべく、関東(浦賀)にマニラからのスペイン船を引き入れたかった。そして、あわよくば、メキシコとの直接交易にも乗り出したかったが、なかなか彼の思惑通りには進まなかった。一つは、マニラ総督府側に秀吉以来の対日警戒心があり、また彼自身に宣教師の活動への嫌悪、ないし警戒の念があったからだという(『バテレンの世紀』)。

 以後、家康の死に至るまでのマニラ総督府との交渉を綴(つづ)るのは、カトリック会派の問題も含めて煩雑すぎるきらいがあるので、詳細は別な機会に譲ることにしたい。ご承知のように、家康が禁教令を敷き、スペインとの貿易が絶たれることになるのだが。

 それでは、本題のオランダ東インド会社(VOC)やEICがどのように日本と交わることになったのかについて触れることにする。

 アダムズやヤン・ヨーステンらは、いつ頃江戸に出向いたのか、調べてもよくわからない。家康が彼らと大坂で引見したのは、漂着の2週間後の3月30日で、その後、彼は上杉氏討伐のため、7月2日に江戸入りしている。それから、関ヶ原へ向かったのは9月となっているので、私はその間に呼び寄せたと推測している。というのも、関ヶ原の戦いが終わった後、家康はその残務処理のためほぼ、伏見城や二条城を拠点にしている。そして、慶長8(1603)年2月、後陽成天皇より征夷大将軍の宣旨を受けた後も、しばらく二条城を拠点にしていたからである。ただはっきりしているのは、慶長9(1604)年に、アダムズは、伊豆の伊東で80トンのリーフデ号型帆船を完成させていることだ。これは、当然、アダムズらが早くに江戸に行き、帰国を願い出ても許されず、禄高を与えられ、家臣となってからそれなりの時間が経過したことを意味するであろう。今度は、慶長12(1607)年に、2隻目となる120トンの帆船を竣工させているのである。こういう仕事が可能なのは、仮に家康が現地で指令しなくとも、江戸城にいる秀忠に命じることで済むだろう。この2年後の慶長14年(1609)年、オランダ船が平戸に入港し、その代表が家康に謁見している。そして、布教(プロテスタント)をしないという条件で、貿易が許され、この年、平戸に商館を建設した。渡辺京二の『バテレンの世紀』には、これには、アダムズが関与していなかったとあるが、ジャワ島のバンテン(現ジャカルタ)はともかく、日本では英国より一歩先に足場を築いている。アダムズがVOC(オランダ東インド会社)と関与したのは、慶長16(1611)年、オランダ商館長のスペックスが家康を訪問した時で、スペックス自身が事前に幕臣になっていたアダムズに助力を乞うているようである。このときアダムズは、ジャワ島に英国人がいるのを聞き、彼らに向けて手紙を出した。その返信で、EIC側が日本に派遣船を出すことを知り、それを家康に報告すると、家康は大喜びしたとある(『バテレンの世紀』)。

 こうしてEIC側は、ジョン・セーリス航海司令官を派遣し、慶長18(1613)年6月に平戸に入港した。オランダから遅れること4年、そこに商館を設けて日本との貿易に従事することになった。アダムズは、当然、同国人のセーリスと家康を取り持ったが、初めからそりが合わなかったようで、本来、セーリスの船で英国へ戻ろうと、家康に暇乞いもしたのだが、間際になって取りやめたという。

 オランダ商館側も競争相手ができたことに神経を尖らせていた。4年前ならともかく、この頃には平戸には数棟の倉庫も建てられ、何より平戸は、交易よりマカオと長崎をルートにしていたポルトガル船捕獲の出撃基地として、また日本人要員(浪人等)を東南アジアのオランダの拠点へ送り出す基地として機能していたからである。要するに、VOC側はポルトガル船や明国船を襲い、その略奪品を日本に輸出することを是とし、実際、そうしていたのである。

 セーリスが去った後、平戸のEIC初代商館長はリチャード・コックスがなったが、アダムズを臨時の館員として雇い、彼に2度ほど東南アジア貿易を担わせて真っ当な商売を試みていた。しかしながら、マカオ・長崎ルートを確立していたポルトガルや、その上前を掠め盗っていたオランダに挟まれて、思うような成果は上がらなかったようである。こうして、元和2(1616)年4月、前年に大坂城を落とした徳川家康が亡くなると、アダムズは2代秀忠に、平戸・長崎以外の地である京・大坂での取引を願い出た。しかしながら、家康のような対応は望むべくもなかった。そしてアダムズは、この4年後の元和6(1620)年4月、平戸で死去する。55歳だった。日本妻との間に一男一女がいたこともあり、三浦の所領は息子に安堵されている。

 こうしたアダムズの努力も虚しく、彼が亡くなった3年後の元和9(1623)年暮れに、平戸のEIC商館は閉鎖される。この年、以前触れた、マルッカ諸島アンボイナ(アンボン)島で起こった事件のためだろう。平戸商館長コックスは経営責任を名目にバタビア支社に召喚され、そのまま日本に帰ることはなかった。

 英国(EIC)が再度、貿易のため日本を訪れたのは、平戸を去ってから50年後の延宝元(1673)年5月だった。王政復古後に王になったチャールズ2世の国書を携えたリターン号が長崎に入港したのである。英国側は、家康が与えた貿易許可証(朱印状)を楯に貿易再開を要求した。しかし幕府は、チャールズ2世が、カトリック国であるポルトガルの王女との婚姻問題や、平戸を通告もなく閉じたことなどを挙げ、上陸することすら拒否したのである。もちろん、幕府はオランダ側から事前に来航することを聞いていたし、チャールズ2世の結婚云々もVOC側の入れ知恵だろう。日本におけるVOCとEICの戦いもVOC側の勝利となったのである。VOCは、日本との貿易の最盛期に、武器と引き換えに年間94トンの銀を持ち去ったといわれる。当時日本は、世界有数の銀輸出国で、1650年頃まで、佐渡銀山だけで2,300トンを産出した。室町期より採掘されていた岩見銀山などを合わせれば、5,000トン近い産出高だった。さらにVOCは、日本産の銅も輸入している。その銅は、30年戦争(1618~1648)のための大砲製造に使用されていた。日本産の銅は精錬度が高く、砲の衝撃に耐え、破裂することもなかったようである。


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-06-29 10:59:46 | 歴史

 では、この頃の西ヨーロッパはどうなっていたかというと、スペインが新大陸を発見し、ポルトガルがインドに到達したことは衝撃をもって受け止めていただろう。当然、自分たちもとは思っただろうが、まだそういう資本も勢いもなかった。16世紀の英国のチューダー朝(1485~1603)では、単に羊毛の輸出国から毛織物産業への転化していく過渡期にすぎなかったし、大陸諸国も押しなべて、同程度の国々の集まりに過ぎなかった。そこに、1517年、マルティン・ルター(1483~1546)が、カトリック教会に対して、「95箇条の論題」という質問状を出したことから、ヨーロッパ中に宗教改革の嵐が吹き始めたのである。この嵐は、しばらくよそに目を向ける余裕を失くした。フランスを始め、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国などの大陸諸王国は、宗教改革の混乱を落ち着かせるのに精一杯だったのである。そんな中、ようやく先行中のスペインやポルトガルに目を向けたのは、エリザベス朝(1558~1603)の英国だった。

 港町プリマス生まれで、父親が船長だったジョン・ホーキンズ(1532~1595)という野心的な商人が、女王の側近や貴族及び商人たちから資金を募り、1562年、150トン、50トン、30トンの3隻の船で大西洋に乗り出したのである。ポルトガルがアフリカ西海岸で独占していた奴隷貿易の利を掠(かす)めようとして。このとき、直接、アフリカでの奴隷調達はできなかったようだが、カリブ海に入ってポルトガル船から300人ほどの奴隷を奪い、それをスペイン領のカリブ海諸国で売っている。当時、ポルトガル領ブラジルの農園では大規模にサトウキビを栽培し、それを製糖していたが、現地のインディオだけでは人手が足りなくなっていた。また、スペイン領カリブ海諸国も同様で、アフリカからの奴隷労働を必要としていた。だからホーキンズは、略奪した黒人奴隷を売り、それを代価として砂糖を買って帰ったのである。この1回目の航海で、2隻の船はスペイン当局に拿捕されたものの、ある程度の利益を出し、1564年には2回目の航海に出る。今度は、700トンという、実質的には女王陛下の持ち船を旗艦(きかん)として。これらは私略船(Privateer)と呼ばれているが、実態は女王陛下公認の海賊船(Pirate ship)だった。こうしてホーキンズは、4回のいわゆる三角貿易の始まりに携(たずさ)わるが、英国のような弱小国が、ポルトガルやスペインに伍していこうとするには無理からぬことだった。そして、のちのイギリス東インド会社に繋(つな)がる決定打が、ドレイク(1543頃~1596)が率いる5隻の船団だった。1577年12月、世界一周の航海に出たのである。ドレイクは、ホーキンズの従兄弟で、彼の下で働いていた経験を活かし、マゼラン海峡を越え、チリやペルーのスペイン植民地や船を襲い、そこで銀26トン、金80ポンド、貨幣や装飾品13箱、計20万ポンドの戦利品を得た。それから、北上して、マニラ・アカプルコ間のスペイン船に略奪行為を働き、その後、貿易風に乗って太平洋を横断し、ミンダナオ島に至り、そこでは香辛料などを交換し、インド洋・喜望峰を経て、1580年9月、英国に帰還した。無事辿(たど)り着いたのは、300トンのドレイクの旗艦・ゴールデン・ハインド号1隻のみだったが、それでもこの航海は大成功どころではなかった。何と王室の取り分は、30万ポンドにも及び、これは年間予算20万ポンドをはるかに超え、当時の王室債務を返還できたばかりか、その余りを後の東インド会社の前身となるレヴァント(東方貿易)会社に注(つ)ぎ込むことさえできたのである。

 ただ当然のごとく、フェリペ2世(在位1556~1598)下のスペイン側からすれば、先行した植民地の利益を横取りされ、また、すでにスペインから独立を表明していたオランダとの戦争に介入する英国には、我慢がならなかった。そして、1588年、以前触れたアルマダの海戦が始まる。この海戦で実質的に指揮を執ったドレイクの下(もと)、イギリス・オランダ連合軍が勝利してしまうのである。

 この海戦の勝利で、イギリスは、世界に向けて勢いをつけることになった。オランダはオランダで、アムステルダムを中心にバルト海交易での海運業や北海の漁業で何とか凌(しの)いでいた。そして、1595年、ポルトガルのリスボンに滞在中、東インド航路の海図を盗んで投獄されたという、オランダ人の探検家・コルネリス・ド・ハウトマン(1560~1599)が、4隻の船団で、アジアに向け出港したのである。この航海は、14か月かけてインドネシアのバンテン(ジャカルタ近傍)に至り、2年4か月後に3隻が帰還し、乗員は240人中、153人が海の藻屑に消えたという。

 とにかく、それほどの利益をもたらした航海ではなかったが、次につながる大きな成果であることは間違いなかった。それが、既に記述したように、1598年、オランダを出港したウィリアム・アダムズらであった。彼らは喜望峰経由ではなく、マゼラン海峡を越えて日本に至ったのであるが。

 ところで、この後の英国とオランダの東インド会社についてである。英国は、1600年、アジア貿易を独占的に行う会社である東インド会社(EIC→England India Company)を、オランダは2年遅れて、オランダ東インド会社(VOC→蘭語の略)を創設した。しかし、両社は、創立当初から大きな違いがあった。EICは、民間の資金が少ない国策会社であり、VOCは、純然たる民間資本だった。そして、VOCはEICの10倍の資本金、また、EICと同じく軍事・外交権も保有していたが、より権限が与えられていた。つまり、現場のトラブルに対して、VOCはより融通が利いたのである。これが、のち、インドネシア領域における香辛料獲得競争に少なからざる影響を与える。

 VOCは、1603年、ジャワ島(インドネシア)のバンテンに最初の商館を築き、香辛料貿易に本腰を入れるが、先行していたポルトガルとの摩擦はさけられなかった。しかし、1605年には、モルッカ諸島にあるアンボイナ島を彼らから奪い、そこにも拠点を築く。そこからまたイスラム教王国のテルテナ島(インドネシア)まで足を伸ばし、そこでもポルトガルやスペインと戦う。こうして、VOCは順調に香辛料貿易を優位に進めていたが、ポルトガルはインドのゴア、マレー半島部のマラッカ、そして清国のマカオを抑(おさ)えており、またフィリピンのマニラはスペインと、それらまで奪うまでには至らなかった。ただ、EIC側も、VOCよりも1年早くバンテンに商館を築いており、この領域における香辛料貿易も激しくなってくる。しかしながら、オランダはスペインとの独立戦争中でもあり、英国とは友好関係を保たなければならならない。ところが、1609年(~1621年)に、オランダとスペインが12年間の休戦協定を結ぶと、インドネシア周辺におけるEIC側とVOC側の対立が鮮明になってきた。そして、EICのバンテンにおける貿易がVOC上まわるようになると、VOCは、1619年、バンテンからそれほど離れていない、バンテン王国のバタヴィァ(現ジャカルタ)を占領して拠点を移す。またこの年ジャワ総督になった、武断派のヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619~1623、1627~1629)は、そこを要塞化した。もっとも、オランダ本国の議会は、この年、VOCにEICと融和を図るよう指示していたが、外交・軍事権を有していたクーン総督は意に介さない。香料の産地であるバンダ諸島で原住民がVOCにその引き渡しを拒むと、クーンは自ら艦隊を率いて討伐(とうばつ)に向かい、次々と島を占領。中でも英国が占領していたルン島を襲った際には、800人の原住民を捕らえて奴隷とし、ジャカルタに送ったりした。また、原住民の居なくなった島には、VOCの使用人を送り、奴隷を使ってナツメグなどの香料の栽培をさせるという用意周到さである。そして、クーンが総督を辞めた、1623年、EICがモルッカ諸島領域から撤退せざるを得なくなる決定的な事件が起こった。有名なアンボイナ(或いはアンボン)事件である。この事件の詳細は省くが、この島にあったEICの商館をVOC側が襲い、商館員全員、英国人9名、日本人傭兵10人、ポルトガル人1名を虐殺したと言う。こうしてVOCは、ここでしか採れないクローブという香辛料の産地であるモルッカ諸島を獲得し、この地域の優位を決定づけた。この後、EICはインドへ向かい、しばらくそこを拠点にせざるを得なくなるのである。ただ幸運なことに、そこの綿織物(キャラコ)に出遭うことで、英国が最初に産業革命を成し遂げていくのだが。

 ここで、少しお許しを願って、また私の海での経験を話させて貰いたい。というのも、このジャワ島周辺の地図を眺めているうちに、私の記憶に上ってきたものがあったからである。それは、私が4万トンの鉱石専用船の下級船員(Bottom sailor)をしていた時のことである。その船は、通常約1か月かけて日本とインドを往復していた。日本の港を出ると、東シナ海、台湾とフィリピンの間のバシー海峡、それから南シナ海に出る。その後は、シンガポールを横目に見ながら、マラッカ海峡を通り、アンダマン諸島を抜け、インド東岸の港を目指す。そして、外海からは灯台だけが頼りの、河口を少し遡(さかのぼ)って行ったところの港に入るのである。その港で、鉄鉱石を満載すると、満潮時にしか川を下れなくなる。つまり、4万トンというのは、満潮時の水深ギリギリで造られていた船だったのである。こういう風に、この港専用で設計された船だったから、帰路もほぼこの逆をたどるだけである。ただ、これを10航海したなかで、一度だけこの航路から外れたことがあった。港で鉄鉱石を満載し、インド洋に出たまではいいが、そこからマラッカ海峡を目指さず、スマトラ島の南を通り、ジャワ島の東端にあるロンボク海峡を通過したのだ。その後、ボルネオ島とその東側にあるスウェラシ島の間のマカッサル海峡を通って、一路北上し、日本に向かったのである。残念ながら、その後の航路の記憶は曖昧で、また、どういう理由でこういう航路を辿(たど)ったのかも忘れてしまった。かつて、こういう海域で、オランダや英国やポルトガルの帆船が香辛料を求めて行き交っていたことなど、考えもしなかったが、今、彼らの跡を追っているうちに、私の忘れていた個人的な記憶が蘇(よみがえ)り、止めようがなかったのである。

 今思えば、東南アジア側の海は、穏やかで、ほとんど船が揺れたという記憶がない。船長200メートルに近い、巨大な船だから当然だと思うかもしれないが、インド洋では1度ハリケーンに遭遇し、一晩中身体が揺られ、ほとんど眠れなかった記憶もある。だから、台風シーズンなどを除けば、東・南シナ海やマラッカ以東の海では、島にも近いし、300トンクラスの帆船でもそれほど危険を感じることなく、自由に航行できたのではないかと想像している。実際、前世紀の遺物と思っていた大きなジャンク船が南シナ海を走っているのを見て驚いたことがあった。今思えば、15世紀初期、鄭和(ていわ)(1371~1433)の大艦隊がインドへ航海した時代からさほど変わらないのも、総じて穏やかな海ならではのことだろう。

 


日本と英国の出会いー薩英戦争に至るまで

2023-06-28 15:21:41 | 歴史

   (2)オランダはなぜ日本貿易を独占できたのか。

 繰り返しになるが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが始まる約半年ほど前の3月16日(陽暦4月)、一隻の帆船が豊後(大分)臼杵の黒島にいわばほうほうの体(てい)で漂着した。船名はリーフデ(愛)号といい、オランダ船籍の300トンほどの帆船だった。この船の中に、オランダ人船長のクワッケルナックや、のちに家康に仕えることになるオランダ人、日本名、耶揚子(やんようす)(1556~1623)ことヤン・ヨーステン、また英国人の航海士で三浦按針(1564~1620)こと、ウィリアム・アダムズという紅毛西洋人がいた。それまで、西洋人というのは、南蛮人と呼ばれた黒髪のポルトガル人やスペイン人がほとんどで、おそらく金髪で碧眼(へきがん)のアングロ・サクソン系の外見は、ひと際(きわ)目を引いたに違いない。

 ところで、英国船ではなく、なぜオランダ船だったかという疑問が起こる。つまり、私の頭の中には、江戸期になぜ英国ではなく、オランダだけが貿易を許されたのかという疑問が湧(わ)いてきていたので、少し当時のヨーロッパを瞥見(べっけん)してみよう。

 当時、スペイン・ハプスブルク家の領地だったネーデルラント(現オランダ・ベルギー)は、毛織物業を含め、バルト海や北海における海運・漁業が盛んであった。ところが、カルロス1世(1500~58=カール5世)から領地を受け継いだフィリップ2世(1527~98)が、プロテススタント(カルヴァン派)系住民にカトリックを強要したことなどから、1568年(~1648)、独立に向けた80年戦争(1609年から1621年まで停戦)が始まる。そして、1579年、北部七州のユトレヒト州を中心に軍事同盟を結び、2年後の1581年、スペイン王国からの独立を正式に表明した。しかしながら、前年の1580年、スペインがポルトガルを併合すると、リスボンの港とは往き来ができなくなり、そこを経由した香辛料貿易も滞るようになる。1588年のアルマダの海戦では、イギリス艦隊と連合を組み、スペインの無敵艦隊を蹴散らしているものの、中継貿易量の減少と北海の漁業だけでは独立していく活路を見い出せなくなっていた。そこで、1598年6月、5艘の船団を組み、南米のマゼラン海峡を経由して、アジアへの貿易航路を開拓しようと、ロッテルダムを出港したのである。ただ、実際にマゼラン海峡を越えて太平洋に至ったのは、旗艦のホープ号とリーフデ号の2艘のみで、そのホープ号もチリ沖で沈没するという有様で、日本に辿りついたのは、前述のリーフデ号のみだった。それも最初の乗員110名から、生き延びられたのは24名という有様だったという。当時の航海がいかに無謀で危険だったか、ということの証(あかし)だろう。もっとも、ビタミン不足による病死が大半を占めていたようだが。

 話は少しそれるが、私は若いころに、3年弱の船員経験がある。乗ったのは300トンのタグボートから1500トン・3000トンの内航船、4万トンの外航鉱石船だった。現代の動力船と帆船では比較しようもないが、船の大きさ・船長・船幅で揺れ方がまるで違うことだけは経験したつもりである。たとえば、300トンのタグボートは東京湾内での曳航が主だったが、一度外洋に出たことがあった。その時、観音崎灯台を過ぎ、浦賀水道に入ると急に揺れが大きくなったのである。せいぜい1、2メートルの波高に過ぎない、晴天の海だったのに。タグボートは、うねりもない湾内作業に特化した船なのだから、こんなものなのか、と思っただけだが、帰りは散々な目にあった。その航海は、清水の造船所から、未完成の船を2艘のタグボートで横浜港に曳航して来る仕事だった。何時頃清水港を出港したのか正確には忘れてしまったが、午前中だったと記憶する。4ノット、5ノットという速度でノロノロと駿河湾を渡っていると、しばらくして雨が降り出し、逆風の東風も強くなってきた。それでも嵐や時化と形容するほどのものでもなかった。もともと、天気予報も確認し、特に問題はないだろうということで出港したのだから。ところが、暗くなった頃、伊豆半島の先端である下田沖に差しかかると、後尾索(さく)を任されていた我々の船は、急激に揺れだし、綱が緊張し出した。そして、10分もしないうちに曳航索が突然切れてしまったのである。舵を取っていた私は、その反動と言ってもいいような急激な揺れと振れで、操船するというより、舵にしがみついているような有様だった。この状況を見た船長は、すぐ下田の海上保安庁に連絡をとった。そして、興奮気味に対応していたが、私のほうは、船が上下左右に激しく揺れるので、船酔いしていたのだろう。頭がボーとなり、それらの光景が何か他人事のように感じていた。それから、数時間後―それほど長く感じられたー保安艇やって来て、サーチライトを照らして我々の状況を監視していた。それからどのくらい時間が経過しただろうか。段々海は穏やかになり、明るくなった頃には晴天の海になっていた。それから、再度引き綱を取り付け、なんとか東京湾を目指すことができたのである。

 話を現代に戻してしまったが、大航海時代の300トン程度のリーフデ号の経緯に触れているうちに、急に昔の記憶が蘇ってしまったのである。お許し願いたい。

 さて、もう少し、当時のヨーロッパの状況を探っていこう。オランダ船が日本に到着する以前、ほぼポルトガル船が独占的に日本との貿易に従事していた。これは、簡単にいえば、ヨーロッパで最初に世界の海に漕ぎ出した国が、ポルトガルとスペインであり、前者はアフリカの喜望峰経由でアジアへ、後者は南米のマゼラン海峡を越えてアジア(フィリピン)に進出していたからである。彼らは、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐<レコンキスタ=再征服>すると、スペインの援助を得たコロンブスが、1492年、西インド諸島(アメリカ)に到達した。これが、中東のイスラム圏を経由せずとも、直接インドへ渡って東方貿易に従事できる可能性を生み出したのである。他方、ずっと以前にレコンキスタを終えていたポルトガルも、1488年、アフリカ南端の喜望峰に至り、1498年、ついにバスコ・ダ・ガマがインドに上陸したことで、ポルトガルがアジア貿易に、スペインが中南米進出に先行することになった。それから、両国は、1493年の教皇子午線、トリデシリャス条約(1494年)やサラゴサ条約(1521年)を順次結んで互いに領土獲得の棲み分けを行い、両国の争いを避け、アジア貿易、中南米征服に従事している。

 ポルトガルは、インドを拠点にイスラム商人を介さず香辛料貿易に成功すると、その勢いで東南アジアのマラッカ、マカオの拠点も獲得し、1543年には、種子島に鉄砲をもたらすまでになる。その6年後の1549年、イエズス会士のフランシスコ・ザビエル(1506~1552)が薩摩出身のヤジロウと共に鹿児島に上陸している。その後ポルトガルは、イエズス会(カトリック)の布教を足がかりに日本との貿易を始めるというわけである。

 一方のスペインは、フェルディナンド・マゼラン(1480~1521)が、南米の、のち自身の名前を冠せられた海峡を越えて太平洋に出、1521年、フィリピンに到達。同時にその年、エルナン・コルテス(1485~1547)がアステカ(メキシコ)文明を襲い、さらに1533年には、フランシス・ピサロ(1470?~1541)が南米大陸のインカ帝国を滅ぼす。また強運というか、1545年には、ペルーのポトシで銀鉱を発見し、翌年にはメキシコ中央部のサカテカスにも銀山を見出している。先行の利を恣(ほしいまま)にしている時代であった。


日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-06-27 16:47:14 | 歴史

    日本と英国の出会いー薩英戦争に至るまで

 幕末期の「生麦事件」に関係した薩摩藩士・奈良原兄弟及び彼らの子孫をたどった「物語」を、『沈黙の百二十年』として、北海道の同人誌に発表してから5、6年経ってしまった。本来、『沈黙の百二十年』は、「家族の物語」を目指したつもりだったのに、「歴史もの」として読まれてしまった。また、素材は面白いのに、込み入っていてとよくわからなかった、というのが大方の評だった。これらは、すべて私の能力・筆力のなさを浮き彫りにしただけで、ただただ嘆くしかない。

 その嘆きも大分薄まってきた現在、今回は、「生麦事件」の結果起きた戦争である「薩英戦争」に焦点を当てようと、筆をとった。というのは、今年が「薩英戦争」160周年だということが頭にあったからだ。しかしながら、書き出しているうちに考えが変わってしまった。私の関心は、日本国内の事象より、英国と日本や薩摩との関係に移ってしまったのである。それは多分に現在のロシアとウクライナの戦争が影響している。戦争というのは、当然対外関係に起因している。そして、その発端や原因を探るには、まず日本と英国(及び欧米露)の関係を追うべきだ、と考え始めたという訳である。というより、私が疑問に思っていた幕末期の対外関係を、私なりに整理しようと考えたというほうが正しいかもしれない。

 追記。年号に関しては、使用する史料によって和暦(太陰太陽暦)と西洋暦(太陽暦)が混在している。これは、どうしようもない。和暦には閏(うるう)月もあり、時折、月数を間違えることもあるかもしれないが、お許し願いたい。ちなみに、これをブログにアップデートする今日は、2023年6月27日だが、文久3(1863)年6月27日に、7隻の英国艦隊が鹿児島(錦江)湾に入り、谷山沖に停泊した日である。これは陽暦でいうと、8月11日に当たる。だから、西洋暦は、和暦より1か月ほど遅れるという認識でいいと思う。

 参考資料は、特に断らない限り、Wikipedia、you-tube等であるが、西洋史に関するWikipedia情報は、参考文献が記述されているものが多く信用に足ると思える。

    (1)日本と英国との出会い

 私の歴史認識では、最初に日本の土を踏んだイギリス人は、三浦按(あん)針(じん)(1564~1620)こと、ウィリアム・アダムズである。彼が日本に到着したのは、関ヶ原の戦いの半年ほど前の慶長5(1600)年3月のことだった。これはこれで現在何の変更もない。ただ最近、どうも日本人のほうが先に英国に渡っていたことを知ったのである(注1)。

 私はこの「事実」you-tubeの歴史チャンネルで知った。ええ?と思われる方もいるかもしれないが、私は歴史探求のアマチュアに過ぎない。また、書かれた「文献」のみを絶対と信じている者でもないので、こういう新しい手段で得られる情報も頭から否定はしない(注2)。

 このYou-tubeチャンネルは、ある日本人女性が、英国から主にかの地の歴史を紹介している。そのYou-tube登録名は「まりんぬ」といい、毎回、イギリスにまつわる歴史・風俗・文化をその地、映像とともに配信している。その中の一つに、ウィリアム・アダムズが、日本に漂着した年の12年前、つまり、1588年に二人の日本人がロンドンに上陸していたことを発信していた。名前は,クリストファー(Christopher)とコズモス(Cosmas)というスペイン名である。クリストファーは京都の出身で、コズモスは、九州にあるイエズス会の孤児院育ちといい、そこから何らかの理由でフィリピンのマニラに渡って行った。そして、当時その地を統治していたスペイン人の、おそらく商人の召使いになっていたのかもしれない。それゆえ、スペイン人の主人たちは彼らにスペイン名を与え、彼らもスペイン語に習熟するうちにそれらを通称としたのだろう。

 その頃、スペイン人商人たちは、マニラを拠点にメキシコ(サカテカス)でとれた銀を元手にして、明国人から生糸や陶磁器などを買い、中米の拠点港の一つであるアカプルコ(メキシコ)に運んだ。往きは黒潮と偏西風に頼り、還(かえ)りは貿易風に乗って、いわば太平洋航路を築いていたのである。これらの船が、しばしば嵐や台風に遭遇し、日本に漂着する。もっとも有名なのが、土佐に漂着したサン・フェリペ号であろう。この船がもたらした宗教上の歴史的事件はともかく、二人の日本人は、スペイン船でマニラを出帆した。そして、メキシコ・太平洋岸のアカプルコ沖で、イギリスの私掠(しりゃく)船(せん)に襲われたのである(注3)。この私掠船の船長は、キャヴィンディシュ(Cavendish)といい、二人の日本人をロンドンに連れ帰った。1588年8月のことである。

 ところで、この年の7月末から8月の初めにかけて、世界史に残る海戦があった。アルマダの海戦である。スペインの無敵(Armada→Invincible)と呼ばれる艦隊が、いわばフランシス・ドレイク(1543?~1596)らの海賊船の寄せ集めやネーデルラント(オランダ)との連合軍に敗れた海の戦いのことである。この頃の英国は、毛織物産業や漁業程度の貧しい国で、植民地としていたペルー(ポトシ)から大量の銀を母国にもたらしていた強大なスペイン王国とは比較にもならない弱小国だった。しかしながら、エリザベス1世女王(1533~1603)から副司令官を任命されたドレイクらの活躍によって、何とか危機を乗り越えられたのである。キャヴィンディシュの船は、この海戦には参加せず、8年ほど前、ドレイクが莫大な金銀財宝をもたらした世界一周航海から帰って来た同じルート(喜望峰廻り)で帰国したのだろう。

 その後、キャヴィンディシュは、二人の日本人をロンドンの郊外に住まわせたらしい。想像だが、のちのちのアジア(日本)への航海のため、英語でも学ばせていたのかもしれない。コズモスは17歳と言うし、この若さでスペイン語を習得していたとしたら、英語もそれほど困難ではなかったはずである。そもそも、キャヴィンディシュがメキシコ沖でスペイン船を拿捕した際、日本人乗員は二人だけではあるまい。

  当時、タイ、ベトナム、インドシナ、マカオ、マニラ等の東南アジアへ渡った日本人は、江戸初期から鎖国に至るまででさえ、およそ10万人を下らないとされている(『南洋日本町の研究』岩井成一)。例えば、年代は少し後になるが、1603(慶長8)年、マニラ在住の明国人による暴動が起こった。当時、マニラ在住の明国人は8,000人ほど。一方、武器を取って戦えるスペイン人は700人に過ぎなかった。これを何とか鎮圧できたのは、日本人傭兵(敗残の逃亡武士)300人がいたからだとされる(渡辺京二『バテレンの世紀』参考)。とすれば、明国人には及びつかないものの、民間の日本人も一千人以上(二千人説もある)いたと見積もってもおかしくはない。ともかく、二人の日本人青年は、キャヴィンディシユが有能な若者たちだと判断し、ロンドンまで連れて行ったと考えてもいいだろう。幕末期、土佐の漂流民ジョン(中浜)万次郎が、選ばれてアメリカで教育を受けたように。

 それでは、その後彼らはどうなっただろうか。「まりんぬ」女史は、この間、日本人がエリザベス女王に謁見(えっけん)したかどうかはわからない、という。ただ記録にないからと言って、謁見した可能性がないとは言えまい。というのも、キャヴィンディシュは、3年後の1591年8月26日、二人の日本人を連れて、再びアジアに向けて出帆しているのである。それまで彼は、何度かエリザベス女王に謁見し、太平洋におけるスペイン植民地の状況を報告していたに違いない。そしてその時、日本人を連れ帰ったことも話しているはずだからである。それゆえ、二人の日本人を宮廷に呼び、謁見していたとしても何の不思議もない。エリザベス女王自身、スペインの富を略奪すべく、フランシス・ドレイクを筆頭に積極的に海賊行為を奨励していたのだから、彼ら日本人に謁見していたと考えるほうがむしろ自然だろう。当然、これらの邂逅(かいこう)は文書記録に残さなかった。なぜなら、女王(国家)自身が海賊行為を公に認めるようなものなのだから。

 最後に,キャヴィンディシュらはどうなったか、「まりんぬ」女史の話を簡単に締めくくろう。船がマゼラン海峡を通過する頃、二人の日本人青年は寒さと飢えのため、亡くなったそうである。おそらく、スペイン船とかち合い、戦闘になって亡くなった可能性があるかもしれない。キャヴィンディシユ自身は、イギリスに引き返したものの、間もなく亡くなっている。自殺したという。

 私は、この「又聞き」を信じている。「まりんぬ」女史が、ある「文献」を読んで話していることは疑いようがないし、それを確認するのもそれほど難しくはない。ただ私は現在、6度目の卯年を迎えた面倒くさがりの老輩なので止めておく。

(注1)・・・渡辺京二氏の『バテレンの世紀』(2017年刊)によれば、慶長18(1613)年6月、英国東インド会社のジョン・セーリスという航海司令官が日本市場に参入しようと、バンタム(インドネシア)から平戸に入港した。そして、セーリスが通商許可証を受け取りに駿府まで出かけている間に、船員たちの士気が緩み、セーリスが平戸に戻って来たときには、7人の船員が長崎に脱走していたのを知ったという。彼ら7人を含めて、船がバンタムから平戸までの間に既に14名の船員が病死していたので、帰国するためには船員の補充が必須だった。そこで、15名の日本人船員を雇い、その年の末に日本を去った。その後は、バンタム経由で日本人船員と共に英国に戻ったのである。1615年のことだったという。歴史家の渡辺氏は、これが、日本人が英国に渡った最初だとしている。

(注2)・・・ウィキペディアの「世界史」に関する記述は出典明示もしっかりしており、信頼してもよいと思っている。また、大学受験生向けと思われる「世界史の窓」も参考にした。

(注3)・・・キャヴィンディシュのスペイン船襲撃の約10年前の1578年3月、フランシス・ドレイク戦隊が、マニラ・アカプルコ間のガレオン船(スペイン船)をすでに襲撃している。