(3)日本における英国とオランダ
さて、1623年に起きたアンボイナ事件までの香辛料貿易を巡って、イギリス東インド会社(EIC)とオランダ東インド会社(VOC)の覇権闘争で、なぜ英国ではなくオランダが日本との貿易が可能になったか、ほぼその理由がわかってきた。ここでまた、慶長5(1600)年の日本に戻ろう。
豊後(大分)の臼杵に漂着したオランダ船の船員たちが救助されると、この話は、秀吉(1537~1598)亡きあとの大坂に届く。そこで五大老筆頭になっていた徳川家康(1543~1616)は、ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンらに引見し、彼らの話を聞いた。家康は、イエズス会士からリーフデ号は海賊船だから即刻処刑すべきだという要求も耳にしていたので、始めは疑っていた。しかし、彼らの航海の目的、カトリック(旧教)やプロテスタント(新教)の違いなど、臆せず回答するのを見て、宣教師たちの忠告を黙殺することにした。そして、一旦、投獄したものの、その後も何度か引見し、ついには彼らを江戸に招くことにする。
ところで、家康が彼らに引見する2年前の1598年8月18日、秀吉が伏見城で亡くなった。その後家康は、マニラから日本に来て潜伏していたフランシスコ会士・ジェロニモ・デ・ジェデスを探し出して引見している。というのは、スペイン船を関東に寄港させ、貿易を始めたいので、ルソン総督府に仲介するようにと彼に説得していたのである(『近世日本とルソン』清水有子)。
最初の頃、家康は経済的地盤が秀吉のように盤石でなかったこともあり、宗教問題はともかく、信長(1534~1582)や秀吉のように海外貿易で利を得るべく、関東(浦賀)にマニラからのスペイン船を引き入れたかった。そして、あわよくば、メキシコとの直接交易にも乗り出したかったが、なかなか彼の思惑通りには進まなかった。一つは、マニラ総督府側に秀吉以来の対日警戒心があり、また彼自身に宣教師の活動への嫌悪、ないし警戒の念があったからだという(『バテレンの世紀』)。
以後、家康の死に至るまでのマニラ総督府との交渉を綴(つづ)るのは、カトリック会派の問題も含めて煩雑すぎるきらいがあるので、詳細は別な機会に譲ることにしたい。ご承知のように、家康が禁教令を敷き、スペインとの貿易が絶たれることになるのだが。
それでは、本題のオランダ東インド会社(VOC)やEICがどのように日本と交わることになったのかについて触れることにする。
アダムズやヤン・ヨーステンらは、いつ頃江戸に出向いたのか、調べてもよくわからない。家康が彼らと大坂で引見したのは、漂着の2週間後の3月30日で、その後、彼は上杉氏討伐のため、7月2日に江戸入りしている。それから、関ヶ原へ向かったのは9月となっているので、私はその間に呼び寄せたと推測している。というのも、関ヶ原の戦いが終わった後、家康はその残務処理のためほぼ、伏見城や二条城を拠点にしている。そして、慶長8(1603)年2月、後陽成天皇より征夷大将軍の宣旨を受けた後も、しばらく二条城を拠点にしていたからである。ただはっきりしているのは、慶長9(1604)年に、アダムズは、伊豆の伊東で80トンのリーフデ号型帆船を完成させていることだ。これは、当然、アダムズらが早くに江戸に行き、帰国を願い出ても許されず、禄高を与えられ、家臣となってからそれなりの時間が経過したことを意味するであろう。今度は、慶長12(1607)年に、2隻目となる120トンの帆船を竣工させているのである。こういう仕事が可能なのは、仮に家康が現地で指令しなくとも、江戸城にいる秀忠に命じることで済むだろう。この2年後の慶長14年(1609)年、オランダ船が平戸に入港し、その代表が家康に謁見している。そして、布教(プロテスタント)をしないという条件で、貿易が許され、この年、平戸に商館を建設した。渡辺京二の『バテレンの世紀』には、これには、アダムズが関与していなかったとあるが、ジャワ島のバンテン(現ジャカルタ)はともかく、日本では英国より一歩先に足場を築いている。アダムズがVOC(オランダ東インド会社)と関与したのは、慶長16(1611)年、オランダ商館長のスペックスが家康を訪問した時で、スペックス自身が事前に幕臣になっていたアダムズに助力を乞うているようである。このときアダムズは、ジャワ島に英国人がいるのを聞き、彼らに向けて手紙を出した。その返信で、EIC側が日本に派遣船を出すことを知り、それを家康に報告すると、家康は大喜びしたとある(『バテレンの世紀』)。
こうしてEIC側は、ジョン・セーリス航海司令官を派遣し、慶長18(1613)年6月に平戸に入港した。オランダから遅れること4年、そこに商館を設けて日本との貿易に従事することになった。アダムズは、当然、同国人のセーリスと家康を取り持ったが、初めからそりが合わなかったようで、本来、セーリスの船で英国へ戻ろうと、家康に暇乞いもしたのだが、間際になって取りやめたという。
オランダ商館側も競争相手ができたことに神経を尖らせていた。4年前ならともかく、この頃には平戸には数棟の倉庫も建てられ、何より平戸は、交易よりマカオと長崎をルートにしていたポルトガル船捕獲の出撃基地として、また日本人要員(浪人等)を東南アジアのオランダの拠点へ送り出す基地として機能していたからである。要するに、VOC側はポルトガル船や明国船を襲い、その略奪品を日本に輸出することを是とし、実際、そうしていたのである。
セーリスが去った後、平戸のEIC初代商館長はリチャード・コックスがなったが、アダムズを臨時の館員として雇い、彼に2度ほど東南アジア貿易を担わせて真っ当な商売を試みていた。しかしながら、マカオ・長崎ルートを確立していたポルトガルや、その上前を掠め盗っていたオランダに挟まれて、思うような成果は上がらなかったようである。こうして、元和2(1616)年4月、前年に大坂城を落とした徳川家康が亡くなると、アダムズは2代秀忠に、平戸・長崎以外の地である京・大坂での取引を願い出た。しかしながら、家康のような対応は望むべくもなかった。そしてアダムズは、この4年後の元和6(1620)年4月、平戸で死去する。55歳だった。日本妻との間に一男一女がいたこともあり、三浦の所領は息子に安堵されている。
こうしたアダムズの努力も虚しく、彼が亡くなった3年後の元和9(1623)年暮れに、平戸のEIC商館は閉鎖される。この年、以前触れた、マルッカ諸島アンボイナ(アンボン)島で起こった事件のためだろう。平戸商館長コックスは経営責任を名目にバタビア支社に召喚され、そのまま日本に帰ることはなかった。
英国(EIC)が再度、貿易のため日本を訪れたのは、平戸を去ってから50年後の延宝元(1673)年5月だった。王政復古後に王になったチャールズ2世の国書を携えたリターン号が長崎に入港したのである。英国側は、家康が与えた貿易許可証(朱印状)を楯に貿易再開を要求した。しかし幕府は、チャールズ2世が、カトリック国であるポルトガルの王女との婚姻問題や、平戸を通告もなく閉じたことなどを挙げ、上陸することすら拒否したのである。もちろん、幕府はオランダ側から事前に来航することを聞いていたし、チャールズ2世の結婚云々もVOC側の入れ知恵だろう。日本におけるVOCとEICの戦いもVOC側の勝利となったのである。VOCは、日本との貿易の最盛期に、武器と引き換えに年間94トンの銀を持ち去ったといわれる。当時日本は、世界有数の銀輸出国で、1650年頃まで、佐渡銀山だけで2,300トンを産出した。室町期より採掘されていた岩見銀山などを合わせれば、5,000トン近い産出高だった。さらにVOCは、日本産の銅も輸入している。その銅は、30年戦争(1618~1648)のための大砲製造に使用されていた。日本産の銅は精錬度が高く、砲の衝撃に耐え、破裂することもなかったようである。