もっとも、今の私は、繁が黒田に「官職」を望んでいる話はしたとしても、北海道長官という具体的な官職名は挙げなかったと考えている。
その最大の理由は、黒田を訪問した翌日の松方宛繁書簡には、「官職の配慮をしてもらいたい」とは書いているが、北海道長官職という具体名はないからである。どういうことかと言うと、確かに前年、同じ薩閥の北海道長官・永山武四郎の更迭が問題になった頃、繁はその後釜として頻りにその職を望んでいた。その望みが、品川が内務大臣となり、しばらくして渡辺千秋を北海道長官に指名したことにより絶たれてしまった。そして、繁が再び北海道長官職という希望を見出したのは、品川が選挙干渉問題で辞任する3月11日以降のことなのである。要するに、繁が黒田を訪問したのは、品川が内務大臣を辞める2週間ほど前だった。だから、品川が内務大臣である限り、具体的な北海道長官という地位に希望は持っていなかった。家政困却から逃れるための単なる「知事職」だったからこそ、黒田も親身になって松方に頼み込めたのである、と。
もちろん、何度も述べているように、品川辞任以降は再び北海道長官職を望んだ。しかしながら、もはや松方にもどうする力もなかった。7月14日になって、繁が沖縄県知事を言い渡されたが、それは、伊藤の手紙にあったように、繁にとっては「予想外」のことだったのだから。
どうも、長々と瑣末な問題にこだわったようである。だが、奈良原繁と松方正義という人物の関係を知る上で、よくわからなかった部分でもあったことは間違いない。そういう意味でいえば、私にとって、以前それほど追及しなかった事象を掘り下げたことで、それなりの収穫もあった。繁と松方の関係の「濃さ」というか「親密度」というようなものである。
どちらにしても、明治になってもこういう関係が続いたことが、晩年の松方の言動に影響を与えた、とうことは十二分に考えられるだろう。
その最大の理由は、黒田を訪問した翌日の松方宛繁書簡には、「官職の配慮をしてもらいたい」とは書いているが、北海道長官職という具体名はないからである。どういうことかと言うと、確かに前年、同じ薩閥の北海道長官・永山武四郎の更迭が問題になった頃、繁はその後釜として頻りにその職を望んでいた。その望みが、品川が内務大臣となり、しばらくして渡辺千秋を北海道長官に指名したことにより絶たれてしまった。そして、繁が再び北海道長官職という希望を見出したのは、品川が選挙干渉問題で辞任する3月11日以降のことなのである。要するに、繁が黒田を訪問したのは、品川が内務大臣を辞める2週間ほど前だった。だから、品川が内務大臣である限り、具体的な北海道長官という地位に希望は持っていなかった。家政困却から逃れるための単なる「知事職」だったからこそ、黒田も親身になって松方に頼み込めたのである、と。
もちろん、何度も述べているように、品川辞任以降は再び北海道長官職を望んだ。しかしながら、もはや松方にもどうする力もなかった。7月14日になって、繁が沖縄県知事を言い渡されたが、それは、伊藤の手紙にあったように、繁にとっては「予想外」のことだったのだから。
どうも、長々と瑣末な問題にこだわったようである。だが、奈良原繁と松方正義という人物の関係を知る上で、よくわからなかった部分でもあったことは間違いない。そういう意味でいえば、私にとって、以前それほど追及しなかった事象を掘り下げたことで、それなりの収穫もあった。繁と松方の関係の「濃さ」というか「親密度」というようなものである。
どちらにしても、明治になってもこういう関係が続いたことが、晩年の松方の言動に影響を与えた、とうことは十二分に考えられるだろう。