海鳴記

歴史一般

松方正義と生麦事件 (44)

2010-12-31 11:19:10 | 歴史
 もっとも、今の私は、繁が黒田に「官職」を望んでいる話はしたとしても、北海道長官という具体的な官職名は挙げなかったと考えている。
 その最大の理由は、黒田を訪問した翌日の松方宛繁書簡には、「官職の配慮をしてもらいたい」とは書いているが、北海道長官職という具体名はないからである。どういうことかと言うと、確かに前年、同じ薩閥の北海道長官・永山武四郎の更迭が問題になった頃、繁はその後釜として頻りにその職を望んでいた。その望みが、品川が内務大臣となり、しばらくして渡辺千秋を北海道長官に指名したことにより絶たれてしまった。そして、繁が再び北海道長官職という希望を見出したのは、品川が選挙干渉問題で辞任する3月11日以降のことなのである。要するに、繁が黒田を訪問したのは、品川が内務大臣を辞める2週間ほど前だった。だから、品川が内務大臣である限り、具体的な北海道長官という地位に希望は持っていなかった。家政困却から逃れるための単なる「知事職」だったからこそ、黒田も親身になって松方に頼み込めたのである、と。
 もちろん、何度も述べているように、品川辞任以降は再び北海道長官職を望んだ。しかしながら、もはや松方にもどうする力もなかった。7月14日になって、繁が沖縄県知事を言い渡されたが、それは、伊藤の手紙にあったように、繁にとっては「予想外」のことだったのだから。

 どうも、長々と瑣末な問題にこだわったようである。だが、奈良原繁と松方正義という人物の関係を知る上で、よくわからなかった部分でもあったことは間違いない。そういう意味でいえば、私にとって、以前それほど追及しなかった事象を掘り下げたことで、それなりの収穫もあった。繁と松方の関係の「濃さ」というか「親密度」というようなものである。
 どちらにしても、明治になってもこういう関係が続いたことが、晩年の松方の言動に影響を与えた、とうことは十二分に考えられるだろう。




松方正義と生麦事件 (43)

2010-12-30 11:23:45 | 歴史
 品川弥二郎の場合はともかく、黒田清隆の原文を出したのは、私が黒田の文章を私の都合のいいように解釈するのではないかと思われないようにと、また私自身、解釈に確信を持てないところがあったからである。
 それは、「身上云々依頼いたし」という部分であるが、この「身上云々」が果たして、単に借金で家政困却に陥っていることのみを指すのか北海道長官の職も含んでいるのか微妙だからである。
 私は、最初、前者のみと解釈した。というのは、繁と黒田の距離感を考えたからである。そこまで、黒田に踏み込んで自分の「欲望」を話せる関係だろうか、と。もとより、枢密院顧問官に退いている黒田に、北海道長官の椅子を左右する権限はない。いやそれ以上に、民党に攻撃されている薩摩閥の北海道を築いたのはほかならぬ黒田なのだから、繁を北海道長官に押したら、火に油を注ぐようなことになることは繁自身重々承知していただろう。そのことは、窮地にいる松方をさらに苦しめることになるのだから。それゆえ繁も、黒田には北海道長官のことは黙っていたかもしれない。だからこそ、黒田も繁の頼みを松方に「切願」したのだ、と。
 この辺りのことは、私は確信がもてない。なぜなら、今までも何度か触れた翌日付の松方宛奈良原書簡では、3、4ヶ月無給でもいいから官職の配慮を、と言っているのだ。こんなに切羽詰っていた繁が、黒田にすべてをさらけ出さなかったかと考えると、これもどうも判断できないのである。
 幕末藩政期、繁は黒田より一、二段位が高かった。生麦の行列のときには、繁は御供目付だった。黒田は、徒目付かそれ以下だっただろう。繁が兄・喜左衛門をも抜いて御小納戸役になった元治元年6月頃、黒田はどういう地位だったのだろうか。少なくとも、繁が家老の下の側役まで出世した頃は、黒田は西郷の下の実戦部隊の部隊長か何かだったに過ぎないのだ。
 こういう関係が明治になって逆になったとしても、黒田にとって繁はあくまでも郷土の先輩である。いい加減にあしらうことなどできるはずがない。だとすれば、黒田は繁からすべてを聞き、北海道長官職も松方に「切願」した可能性も否定できないのである。



松方正義と生麦事件 (42)

2010-12-29 11:47:18 | 歴史
 品川は、誰に説得されて辞任を撤回したか確信はないが、おそらく山県に違いない。さほど尊敬もしていない松方に説得されてしぶしぶ引き受けた、とはとても考えられないからだ。それに、5月17日付けの山県書簡によれば、22日頃にはロシア皇太子も神戸からウラジオストックに向けて出発する予定だというから、大津事件も終息にしつつあった。さらに踏み込んで言えば、品川が山県宛にだした6月2日付けの手紙の追伸で、岩村道俊を内務大臣に自分を御料局長にという希望が入れ替わっていることでも充分納得できる。
 つまり、品川が兼任できなかった御料局長を岩村が引き継いでいるのである。こういう裏工作が可能で、それを首相である松方に説得できるのは、山県ぐらいしか見当たらない。

 もうこの辺で、なぜ奈良原繁が総理大臣松方正義の力をもってしても北海道長官になれなかったのか、という考察を終りにしよう。ただ、一つだけ私が黒田の書簡を漁っているときに出遭った、繁に関する新しい知見を披露させていただいた後に。
 それは、明治25年2月24日夕と日付のある手紙にあった。これを紹介する前に、ざっと黒田の履歴を追ってみる。よく知られているように、国会開設後の初代総理大臣には長州の伊藤博文がなった。黒田はその後を受けて第一次黒田内閣を組閣している。そしてその後は、山県、松方と、薩長が入れ替わり権力の座に就いている。これはともかく、黒田は首相を辞めた後、枢密院顧問官として、比較的閑な立場にあった。だからか、松方が総理大臣になっているときは、後方支援のように様々な情報を松方に送っている。私が披露する書簡もその一つだが、選挙干渉問題で揺れた2月15日の衆議院議員選挙も、結局は民党が過半数を占めたことで終り、内務大臣・品川の辞任も間近であった。この辺りの状況も頭に入れておかないと黒田の書簡もよくわからない。
 先ず、短い挨拶文の後、昨日昇堂して長座し、ご馳走まで頂戴したことを伝え、次に今日繁が来訪したことを次ぎのように伝えている。

又本日奈良原君御入来、首相閣下伊藤老伯へモ、兼ねて御同人身上云々依頼いたし候と、生ヨリも(小字)別ケテ願上くれとの儀ニ付、何分、是れ偏(ひとえ)ニ切願仕候、将又(はたまた)、同人ヨリ石川懸人疋田某子(氏)、生へ(小字)面会、大井憲太郎、岡本柳之助両氏大ニ感動スル所あり・・・



松方正義と生麦事件 (41)

2010-12-28 11:25:50 | 歴史
 私は、品川が山県の画策で(?)内務大臣になり、喜んでいたとばかり思いこんでいたので、これには意外だった。しかしながら、どうもよくわからない。これ以後、内務大臣を辞めてはいないし、渡辺千秋が北海道長官に任命される3日前の6月12日付の書簡では、辞任云々の話はまるでなかったかのような話ぶりなのだ。では、その内容を逐語訳的に紹介しよう。時候の挨拶などもなく、始めから用件から入っている。

 今日は、閣議に出席しようと考えていましたが、風邪が重くなったので、出席できません。誠に申し訳ないが、悪しからずご了承願いたい。北海道長官後任その他の申立は、然るべく、(陛下へ)上奏してください。人選上のことには、(松方総理大臣にも)色々お考え(見込み)もおありでしょうが、内務は内務だけの考え(所見)があります。この変更は、(陛下の)思し召しをもって、ご改選はともかく、閣議と情実で変更することは、お断り願いたい。このことをお含みおきください。他は白根(内務)次官の口頭に譲る。草々頓首。

 10日ほど前は、辞表を出すと言っていたのに、今回は断固とした口調で職務を遂行している。一体、どうなっているのだろう、と不思議に思わざるを得ない。そこで、また他の書簡類でこの辺の情報はないかと探ってみた。もっとも、今の私にとっては膨大な松方宛書簡を全部確認する気もないので、やや当てずっぽう的に、何人かの人物に当ってみた。すると、松方宛書簡中、214通ともっとも多く残されている黒田清隆の6月4日付け「二(追)伸」で、品川について触れているところがあった。ただ、品川のこと(の辞任)はどうなったかと書いているだけだが。
 当時、品川弥二郎の辞任云々という内政問題より、朝野を揺るがす外交問題がもっとも重大な案件だった。それは、その年の5月11日、露国皇太子ニコライの警備に当っていた津田三蔵という巡査が、こともあろうにその皇太子に斬りつけるという事件を起こしていたのである。事の詳細はここの本題とは関係ないので省くが、黒田に次ぐ184通という山県有朋の書簡ですら、これらに関する内容だけで、品川の辞任云々の事など全く触れていない。ひょっとすると、見落としがあるかもしれないが。
 ともかく、6月4日時点でも、品川は内務大臣を引き受けていた様子はない。


松方正義と生麦事件 (40)

2010-12-27 11:48:55 | 歴史
 では、余談はこれぐらいにして、品川の手紙に移ろう。彼が西郷従道のあとを受けて内務大臣になった明治24年6月1日前後と、永山武四郎(薩閥)の後任に渡辺千秋を北海道長官に任命(指名)した6月15日前後の手紙のことである。
 先ず、内務大臣に任命された翌日の日付の手紙を紹介しよう。この日付の手紙は、2通(別紙写しも含めれば3通)ある。ただ、2通とも松方宛というわけではない。1通はなぜだかわからないが、山県宛書簡が混じっているのだ。
 とにかく、6月2日の午前と書かれた松方宛書簡を読んでみよう。松方宛書簡のほうが、山県宛に出した手紙より順序的には早いようだから。
 それにしても、である。何と、ここには、昨日拝命した内務大臣職を断りたいと申し出ているのである。その理由として、一昨年来全力を尽くしてきた御料局長の後任も決めてしまったというし、また、病気がちのカンシャク持ちでは今後どうなるかもわからない。上下に信任のない自分だから、こうなったのだろうが、どうか辞表を受け付けてもらいたい。山県にも委細は通知しているので、しばらく養生のため近県に出掛けるつもりである。これも了承してくれるように、と一方的に懇願しているのである。
 さらに、追伸では、「やじ」のわがまま勝手と叱られては迷惑だと言い、病気でカンシャク持ちの身体では、自分でもどうすることができないのだ、と弁明している。
 それでは次に詳細を報告している山県宛の手紙を紹介する。品川が山県の腹心なのかどうか知らないが、少なくとも松方のよりずっと長く、内容もより具体的に書いている。ただここでは逐語訳的説明は省いて、大意だけにしよう。長くて、くど過ぎるからである。
 ところで、品川は当時御料局長だった。この御料局というのは、皇室財産である御料林の管理経営を担っていた部署だったようである。この部署の責任者は、規模の拡大とともに、明治18年以降、御料局長官となり、どうも品川はこの創設に尽力したらしい。品川自身も明治22年、その長官となり、その間、御料局は宮内省に組み込まれてしまったのか、一局になってしまった。そして、そのまま品川がその局長だったのだが、どうも内務大臣の内示を受けるとき、これと兼任を望んだようである。ところが、それが許されず、内務大臣のみを任命されて、大いに不服だったのだろう。その辺りのことを、山県宛書簡で訴えているのである。
 またその追伸では、内務大臣後任には岩村道俊を当て、自分には御料局長を続けさせてもらえば、皇室のため最善を尽くす、と述べ、その他は「やじ」の虫と折り合わず、このことはどうしようもないことだと結んでいる。


松方正義と生麦事件 (39)

2010-12-26 11:22:34 | 歴史
 ではまあ、あまりよくわからないままで申し訳ないが、品川の手紙を紹介しよう。ただその前に、ざっと読み通した彼の書簡についての感想を述べてみる。 
 正直言って、彼が書いた文章から伝わってくるのは、政治屋というのか、策士というのか、あまりいい印象ではなかった。いつも何か強力な者の背後で力を振るい、また病気がちということもあるのだろうが、腹心の部下を使って政治を画策するような、そういう印象だった。それに自分の気に入らないことがあると、些細なことにも目くじらを立てて怒るようなタイプの人間にも見えた。だから、彼の手紙を読むのは、いい気持ちではなかった。
 そして、彼の手紙を読んでいてふと憶い出したのは、西郷の手紙だった。もちろん私は、多くの西郷の手紙を読んだわけではない。ほんの2,3通だろう。しかし、そのわずかな手紙からも、西郷という人物の、のちに「情の西郷」と呼ばれるような、人間としての「温かみ」のようなものは充分伝わってきた。つまり、たとえ極めて政治的な内容の手紙でも、人に対する「思いやり」のようなものが感じられたのである。
 ご存じのように、私は、薩摩出身者でも奈良原繁のような大久保側の、いわゆる反西郷側の人物たちの事績を多く探ってきたし、西南戦争時の西郷の立場に批判的だった。それゆえ、西郷の手紙にも、どちらかというと冷ややかな視線を向けることが多かった。それでも、彼の手紙は、出だしから他のものと違うような「気配り」を感じざるをえなかったのである。
 まさにこれと対極にあるのが、大久保の書簡や日記だった。よく言えば簡潔明瞭、悪く言えば冷淡、「知の大久保」と呼ばれる由縁である。これも、必要があって読んできたのであって、不快とまでは言わないまでも、それ以外は読む気がしない。品川弥二郎の手紙は、またこれらのもとは違う極にあって、おそらく、これが政治家一般の代表ではなかろうかと考えさせられるような手紙だった。
 余談ついでに、ここでもう一人の人物の書簡の印象を紹介したいと思う。西郷家の3男で、隆盛(隆永)の弟である従道のそれである。なぜ、紹介したいかというと、思わずニタリとしてしまったからである。
 政治家の間のやりとりで、笑える場面などはそう多くない。ところが、西郷従道の場合は、1通1通はともかく、全体として笑えてくるのだ。
 理由は、ほぼ手紙そのものには意味がなく、要件はどこどこで会って話そうと書いているだけだからである。なるほど、外国人にも人気のあった鷹揚さは伝わってくるが、こういうズボラで紋切り型の手紙しか書けないようでは、あるいは書かないようでは、明治政府の頂点に立てなかった理由もわかろうというものである。かれも、兄・隆盛と同様、一般的な意味での政治家にはなれなかったのかもしれない。

松方正義と生麦事件 (38)

2010-12-25 12:27:39 | 歴史
 こうして繁は、7月20日、正式に沖縄県知事に任命されているが、その前日に北海道長官だった渡辺千秋が辞めさせられたのか自ら身を引いたのか、とにかく辞任している。その後任には、これも藩閥から距離のある兵庫・但馬出身の北垣国道という人物が配された。
 そこでざっとかれの経歴を辿ると(ウィキぺデイア)、兵庫・但馬出身という藩閥出身者ではないものの、生野の変に参加した勤王の志士ではあったらしい。ただここで敗れて長州へ亡命とあるから、どうも長州閥とは無縁ではなさそうである。また、戊辰戦争の際は、山陰道鎮撫使の西園寺公望に従ったり、北越戦争にも加わっている。その後、明治12年になると、高知県令となり、翌年からは徳島県令も兼任した。そして、明治14年には京都府知事に抜擢される。 
 この府知事時代は長く、足掛け11年ほどその職にあったようだが、この間、琵琶湖の水を京都まで引くという大疎水事業を成し遂げた。これは、奈良原繁の安積疎水事業と肩を並べられるかもしれないが、繁の場合はあくまでも上からの指示だった。ところが、北垣の場合は、明治になって衰退しつつあった京都の町の活性化のために琵琶湖疎水事業を計画し、それも有能な部下を使って成就させているのである。県令や知事としての履歴もそうだが、奈良原繁よりも数段能力があったように思える。もちろん、幕末の長州亡命という経歴からすれば、山県や品川らとも親交があったに違いない。
 これらのことは、あくまでも私の推測に過ぎないので真相はよくわからない。だが、当時の政治状況からすると、なるべき人物が北海道長官になったということだろう。
 よくわからないついでに、というのもおかしいが、品川弥二郎について少し触れてみる。というのは、私が松方宛奈良原書簡を再読するために、それが掲載されている『松方正義関係文書・第8巻』を借りたところ、たまたまそれに品川の書簡類も掲載されていたからである。
 それに加えて、51通とこの8巻に収められている132人中のトップなので、かなり気になった。ちなみに、2位が薩摩閥の高島鞆之助の47通。3位が徳大寺実則の46通。4位が三条実美の30通。5位が大山巌の25通。6位が、西郷従道の23通で、ついでに言えば、奈良原繁の12通というのも決して少ない数ではなく、上位10人内に入っている。90パーセント以上は、10通以下の中で。

松方正義と生麦事件 (37)

2010-12-24 09:26:03 | 歴史
 この2月7日付けの手紙のほかに、同月25日付けの手紙も残っているので紹介しよう。ここでは、一層赤裸々に、家政困却の上、借金もあるので、3、4ヶ月無給でもかまわないから何とか官職の配慮をしてもらいたいと、もはや泣き顔で懇願している。さらに、日本鉄道会社が4月1日をもって独立営業となるので、進退問題も含めて不都合のないように取り計らってもらいたいという、確かに人間的だが、何という臆面のなさ、何という卑屈ぶりとでも言うしかない手紙の内容なのである。
 これを読んだ松方は、選挙干渉問題で自分の進退も怪しいのに、こんな泣き言を並べられては、「おまんさあ、どげんとでもせっくれや」と悪態を吐きたくなったかもしれない。
 しかし、繁の手紙には、同郷の先輩という顔はさらさら見えず、ただただ下手、下手に出る、進退窮まった人間の卑屈で哀れな訴えしかない。だから、松方が怒ることはなかったであろう。ただ、北海道長官職については、総理大臣・松方の力をもってしても如何ともしようがなかった。

 ところで、長閥の品川弥二郎が内務大臣を辞任した後の明治25年3月11日、佐賀藩出身の副島種臣がその後を受けた。この辺りの人事が何を意味しているのか、私にはよくわからない。また、品川や山県の後押しで北海道長官になった渡辺千秋も、更迭されるのかと思いきや、まだその職に留まっている。そして、これもどういう理由なのかよくわからないが、副島も3ヶ月後の6月8日に辞任し、後任は松方が総理大臣と兼任している。
 それなら、奈良原繁をごり押しでも北海道長官に、と言いたいところだが、単に繁が器ではないというより、やはり薩摩出身者ではまずかったのだろう。
なぜなら、当時、与党に選挙干渉問題を引き起こさせた野党・自由党党首の板垣退助は、北海道が薩摩閥の巣窟であるとして厳しく攻撃していたからである。これで、総理兼内務大臣だった松方でも、また末期政権のそれではどうしようもなかったことが納得できるだろう。
 松方内閣が崩壊する1ヶ月ほど前の7月14日、繁は松方から直接呼ばれて、沖縄県知事の内諭を受けた。おそらくそこで、北海道長官の椅子は無理だったということを懇々と諭されたに違いない。翌日の松方への書簡では、ただ沖縄県知事拝命の感謝を述べているに過ぎないが、それからしばらくして宛てた伊藤への手紙には、沖縄県知事に任命されたことは意外で驚きだったと、暗に北海道長官は転がり込んでくると思っていた伏しがあるのである。
 これが本当だとすれば、松方から沖縄県知事を言い渡されたときの繁の顔が想像できよう。

松方正義と生麦事件 (36)

2010-12-23 10:42:42 | 歴史
 この選挙干渉問題は松方内閣の崩壊も意味したが、繁は、品川内務大臣が辞任したことには、小躍りしたに違いない。というのも、繁には「生活苦」という問題のほかに、それとつながる、また別な切迫した問題があったからである。
 少し話を元に戻すと、日本鉄道会社の本来の目的である東京・青森間の敷設工事が、前年の明治24年9月1日に終り、後は最終的な調整の段階だった。そして、その3ヵ月後の12月8日には、私設鉄道買上げ案が議会に提出され、日本鉄道会社という組織自体がなくなる運命だったのである。
 実際、翌年の明治25年2月7日付け松方宛書簡でも、東京・青森間開通で職を失うと訴え、北海道(長官職)云々は何とかならないか、というようなことを切々と訴えている。ただ、ここで笑えることも書かれているので、これも紹介しよう。
 文頭の余白に、尚々書として、鹿児島産の赤橘(みかん)を土産にもらったので、少々で申し訳ないが、(松方の)お子様にもおすそ分けいたします、などということが書かれているのである。まあ、この辺りが奈良原繁の憎めない性格というか、面目躍如たる所以(ゆえん)であろう。
 私もそれほど多くの元勲書簡類を読んできたわけではないが、こういう人間味に溢れたというか、ほほえましい個人的な心情を書き込んでいるのは珍しいように思える。松方や伊藤も、政治的にはさほど使えない男だとはわかっていても、繁の、いわばこういう人情の機微にそつのない性格を好んでいたのかもしれない。
 そういえば、今、ここでひょっと憶い出したことがある。かれら3人に共通していることがあった。それは、かれらは3人とも女遊びが好きだったことだ。それも料亭などにいるプロフェショナルな女たちである。
 こわるまでもなく、伊藤や松方の女遊びは超有名らしいが、繁も決して負けてはいない。静岡県令時代のゴシップはすでに述べた通りだが、繁は、明治21年7月から1年弱、欧州の鉄道事情視察という名目で外遊したことがあった。その出発の際、新橋駅では、当時総理大臣だった黒田や陸軍大臣だった大山巌に見送られ、また横浜までは、特別仕立ての列車で、松方大蔵大臣、佐々木顧問官(どういう人物かよく知らない)、森岡昌純(寺田屋事件のときの鎮撫使の一人)等の錚々たるメンバーが付き添っている。そしてその中に、新橋、柳橋の「きれいどころ」も加わっていたことを、新聞のゴシップ欄で冷やかされているのである。
 西郷に嫌われるのも無理はない。

松方正義と生麦事件 (35)

2010-12-22 11:08:17 | 歴史
 ただ、この時期の北海道長官職をめぐる動向はめまぐるしい。 
 品川が内務大臣になった11日後の『国民新聞』に、北海道長官の更迭が問題にされ、後任の選定は慎重に、という記事が掲載されている。そして、薩摩閥という言葉は使っていないものの、奈良原繁と東京府知事などを歴任した同じ薩摩出身の高崎五六(猪太郎)の名前を挙げ、特定の人士の利益ために選んではならないと批判している。
 これで、奈良原繁が北海道長官職を望んでいたことが浮き彫りにされるのだが、そんなことよりも、うがった見方をすれば、内務大臣の品川が松方ら薩摩閥をけん制するため、新聞にリークした情報とも言えないこともない。反対勢力を落としこむのに、マスコミを利用するのは現代でもごく普通のことなのだから、その走りといえよう。
 さらにこの新聞記事が出た5日後、永山武四郎は、依願免官という形で北海道長官を辞任し、後任には、1ヶ月前に滋賀県知事になったばかりの渡辺千秋が抜擢されている。もっとも渡辺は、滋賀県知事だったという紹介よりも、岩村の後を受けて鹿児島県令となった人物と説明したほうが、ピンとくるかもしれない。
 ここで渡辺の履歴を少し紹介しておくと、岩村道俊以上に、薩摩・長州の勢力争いから離れた存在だった。そして、岩村が厚く信頼する有能な人物でもあった。というより、岩村以上にやり手の官僚だったのかもしれない。長野・伊那出身という、明治政府内では全くの孤立無援の位置にありながら、長命だったことも幸いしただろうが、最終的には宮内大臣まで上り詰め、伯爵位まで授けられているのである。ちなみに、岩村はそれほど短命だったわけでもないし、農商務大臣まで経験しているのに、繁と同じ男爵位で終わっている。
 とにかく、こういう人物に奈良原繁が太刀打ちできないのは当然だが、そう言った問題以上に、長閥の山県や品川が押したとすれば、薩・長の利害から離れた、薩閥も納得する人物を送らねばならなかった、ということであろう。
こうして、北海道長官問題は収まった。繁は落胆したが、松方の力をもってしもどうにもならなかったのだから、あきらめるしかなかった。
 だが、この落胆もそう長くは続かなかった。翌年2月に実施された第2回総選挙で、いわゆる与党による野党への大規模な選挙妨害事件が起り、翌月、その責任をとった形で品川内務大臣が辞職することになったからである。