海鳴記

歴史一般

薩摩藩77万石とは(4)

2009-10-31 11:45:54 | 歴史
 ところで、薩摩藩領内では、文禄3年(1594)から翌年にかけて、石田三成による検地が行われているが、この際、どうもそれまで薩摩藩で行われていた収穫の籾高算出をそのまま踏襲したのではないだろうか。というのは、薩摩、大隈、日向(諸県)の広い地域を、あまり多くない人数で、それも1年未満で新しく計測しながら廻るというのは不可能のように思えるからだ。
 そしてその時計測した領内総石高は、60万石余だったように記憶している。もっとも、今手元にその資料がないので正確な数を記すことができない。
 ともかく、その後、江戸時代に入って内検とよばれる藩独自の検地を何回か行っているが、開墾及び琉球藩10万石(実高かどうかわからない)を加えれば、江戸期の終わりごろには、80万石近くを計上するようになったのだろう。実高は37,8万石なのに。

 ここに一つのトリックがある。それぞれの大名の石高によって、たとえ外様の大名でも、登城した藩主の江戸城における待遇や詰める場所や席順なども違ってくる。つまり大名の格が決まってくるのである。ということは、石高が高く、待遇面で優遇されるほうが、少なくとも殿様は誇りに思えるし、喜んだことだろう。だが、この高い石高は、それに応じた大名行列の人数や幕府が要求する負担額も増えてくることになる。つまり、実質的には何の得にもならないのである。それゆえ、どうも77万石と唱えていたのは薩摩領内だけのことで、他所では、そういうことを言わなかったようなのだ。領内だけの話なら、支配される側の農民や町人は、島津様は大大名として恐れ入り、支配するのに都合がよかっただろうから。
 幕府もこのあたりの事情はわかっていたのだろう。薩摩藩の大名行列は30万石格のようだし、その形跡もある。ただ、これでも薩摩と江戸の往復では相当な費用を要したことだろう。これらのだけのことではないが、薩摩藩は江戸の初めごろから徐々に借財を増やし、重豪(しげひで)の時代には、年間の収入が30万両から40万両というのに、500万両という返済不能な借財を背負うことになってしまったのである。

薩摩藩77万石とは(3)

2009-10-30 11:11:59 | 歴史
 つまり、川舟に積んだ俵米にたとえ菰(こも)を被せ、その他の覆いで水よけから守っていたとしても、富士川の急流にもまれ、また時化に合う可能性のある海上を運ばなければならないとしたら、玄米のままでは危険なのである。
 というのは、米は水に弱いからである。ご存知のように、米を水に濡らしてそのままにしていたら、すぐに腐敗(発酵させるには菌が必要)して傷んでしまうのだ。
 幕府が出した「御触書」(一種の法令集)にも、水上、海上輸送され江戸の蔵前に運ばれる俵米には、水に濡れないように厳重に被うように細かく指示している。それほど、米を水に濡らしてダメにしたことがあるからだろう。
 断言はできないが、籾米の状態で水に濡らしても、また干せば食用として問題なくなるのではないだろうか。だから、特に川舟に積み込む俵米は、籾米の状態で輸送するのが普通だったと考えられるのだ(注)。
 前回も少し触れたが、私が加わっている地元の郷土史研究会の古文書部会で、現在、清水湊の廻船問屋の関係文書を読んでいる。その中の日記に、幕府御用蔵の米の籾を取り、その籾を欲しがっている者を集めて売るという描写がある。誰が買うのかはっきりしないが、籾は肥料として有効だから、近在の農民だろうか。
 以上のことでおわかりだと思うが、年貢米は必ずしも玄米の状態ではなく、籾の状態で保存されていたり、運ばれたりすることがあるということなのである。だから、鹿児島のように高温多湿の土地では、昔から習慣として俵には籾米のまま入れて城下へ運び、そこで石高算出などしていたとしも何の不思議もない。たとえ余った米を大坂に運び、そこで売ろうとしても、海上輸送だろうし、時間もかかる。玄米も3ヶ月ほどで劣化してしまうとなれば、商品価値もガタ落ちである。それゆえ薩摩藩では、俵米は籾米が常態であり、すべてそれに統一すれば、さほど面倒な問題も起らなかっただろう。

(注)・・・『富士市史』上巻によれば、江戸廻米は甲府詰米の二重俵と違って三重俵にして送ることになっていたらしい。ということは、やはり玄米の状態で詰めていたのかもしれない。ただ、「舟に積まれた米俵を水濡れしないように菰などで囲っても、なお飛沫がかかって、米の濡痛みができるし、蒲原浜から清水湊への小廻船や岩淵、蒲原、清水湊の御廻米置場には蔵もない(?)といった事情から、三重俵であっても、これがすりきれて、結局清水で廻船に積み込むときは二重俵に作りかえて江戸送りするほどであったという」(『富士市史』上巻)とあるが、それならいっそう玄米で送るのは危険なような気がする。清水湊で俵を作りかえるほどなら、甲州から籾米の状態で送り、清水湊で籾を取り二重俵にして江戸に送ったほうが効率もいいし、安全であるように思える。 
 私は、廻船問屋の日記にあったように、清水の蔵で籾をとってそれを売っていたことから、甲州廻米は籾の状態で俵詰していた、ということのほうを信じている。




薩摩藩77万石とは(2)

2009-10-29 10:42:10 | 歴史
 ともかく、この籾高というのは、通常の玄米高にすると半分ぐらいになってしまうようなのだ。もっと具体的にいうと、籾米一升が、その籾をとった玄米で量ると、5合ぐらいになってしまうということなのである。だから、籾高換算している薩摩藩の石高は、実質的には、約37.5万石ということになってしまう。
 このことは、私の店に来る郷土史家の人たちもたいてい知っていたが、だからといって、今までいわれてきたこの石高を訂正して、たとえば薩摩藩37万石あるいは38万石などと唱える人は誰もいなかった。だいたい、鹿児島でもっとも有名な歴史の先生が声高に薩摩藩77万石と言っていたのだから。籾高云々などという説明もなく。
 私は、加賀100万石とか伊達62万石という数字には耳なれていたが、薩摩77万石あるいは島津77万石という数字は、他所(よそ)では聞いた記憶がなかったので、耳にする度、気になってしかたなかった。
 加賀前田家100万石とか、仙台伊達家62万石というのは、玄米高の換算であることは間違いない。それにたとえば、侍の役職の給料にあたる何人扶持の一人扶持というのは、一日玄米5合と定められている。
 つまり、江戸時代の「米」というのは、すべて玄米を基準にして換算されていたようなのである。だから、米俵のなかは玄米の状態で収納されていると思い込んでいる人がほとんどである。

 私が静岡に移って以来、さまざまな人に俵の中には籾米の状態で入っているのか、玄米の状態で入っているのか尋ねてみた。すると、まず例外なく玄米だという。ただ中には、鹿児島の場合もそうだったが、農家出身の人が、米は「籾米」の状態で保存しておく、と言った。もちろん、これは年貢として納める米俵の中に籾米を入れておくということではない。が、米の「保存」という意味で、重要なことなので、ここでも強調しておく。
 ところで、今私が住んでいる清水港は、江戸時代、幕府直轄地であった甲州の年貢米を富士川経由で清水港まで運び、一旦そこにある蔵に納め、そこからまた江戸に送るという、いわば中継基地だった。そしてその年貢米の一部を駿府代官所の役人の給料にも充てていたようなのだ。その際、蔵から出した年貢米の籾をとり、玄米としてかれらに渡していた形跡があるのである。
 どういうことかというと、甲州から富士川舟運で運ばれてくる米(俵)は、籾米の状態で運ばれてきている、ということなのだ。


薩摩藩77万石とは(1)

2009-10-28 11:15:23 | 歴史
 なぜ77万石という「数」にこだわるかというと、私が最初に鹿児島の郡部に住みついたときの印象が強烈だったからである。
 まさにそこは純農業地帯だったが、ほとんど田んぼが見当たらなかったのである。もちろん、川の側の低地には水田はあったが、他の農業地帯にみられるような広々とした水田地帯ではない。申し訳程度の広さである。では、畑では何を収穫しているのかというと、サツマイモ(カライモと言っていたが)や茶がほとんどなのである。それも毎年、国の補助を受けた「畑灌」(はたかん)といわれる土地改良事業を施して、充実させているのだ。
 要するに、鹿児島はほぼ全域シラス台地が占め、水田には不向きな土地柄なのである。北部地方にある、一部の大きな川が流れている平野部などを除いて。
 これは薩摩藩時代も同様で、いや「畑灌」事業など施せなかった当時は、畑地ももっと貧弱だっただろう。
だから、これが77万石の土地柄だとは、とても思えなかったのである。もちろん、「石高」というのは水田から取れる米の量だけでなく、畑から取れる大豆や麦や稗(ひえ)や粟(あわ)なども米に換算されて算出されることは知っている。しかしながら、たとえそうだとしても、77万石という印象はとても持てなかったのである。

 やがて、私が古本屋を初めて鹿児島の歴史に踏み込んでいくうち、この薩摩藩の石高の意味合いが少しずつわかってきたのである。どうもこれは籾(もみ)高換算なのではないか、と。
 ご承知のように、稲の穂は籾がついた状態である。それを収穫し脱穀すると、籾米となる。これをしばらく乾燥させて、籾柄をとる。この籾柄がとれて初めて食用となるが、籾柄がとれた状態は玄米である。現代人は、もうこの状態では食しない。というのは、食べにくいからである。だから、玄米の表層部についている糠や胚芽の部分を除いて食べるのである。それを精米するといっているが、それが現在ほとんどの人が食している白米なのである。
 まあ、今ここまで述べることはなかったが、のちのち問題になってくるので、どのような過程で白米になるか説明してみた。どうも米食民族といいながら、代々農業から離れてしまった人が多くなってしまったので、かなり年配の人でもこの作業工程すら曖昧になっているからだ。

8.18政変再び  佐々木克論文について(32)

2009-10-27 11:40:29 | 歴史
 では一体久光はどのくらいの兵を引き連れて上京したのだろうか。
 もう一度芳氏の『島津久光と明治維新』を確認すると、久光らは長州を警戒して熊本から阿蘇を越え、豊後佐賀関(大分県旧佐賀関町)から6隻の船で海路上京した、とある。そして、『鹿児島県史料 忠義公史料』(何巻かの明示はない)を参照すると、約1、500余の兵を率いて9月12日に鹿児島を出発した、という。
 6隻の船で、1500人余、妥当な「数」だといえる。各船のトン数などはよくわからないが、薩摩藩自前の船は新規購入した安行丸1隻(注1)だけで、ほかは幕府船3隻、越前・福岡両藩船各1隻の借り船だった、という。
千5百トンクラスの船が1、2隻あれば、1,500余という「数」は何も問題ないと思える。
 ちなみに、1500名ほどの兵は、9月29日(注2)、兵庫に上陸。西宮まで行ったが、長州藩士や浪士が何をやりだすか分からないとのことで、そこから山崎街道をとる。そして芥川(大阪府高槻市)からは夜中12時ごろに出発し、久光は先番の供侍にまじり、提灯も供侍の紋を付けたものを掲げ、台輪駕籠に乗って微行した、という。これは久光にとって、生涯最大の屈辱的な道行であったろうから、忠義宛書状には、「この件は極秘だからそのつもりで」と書いているらしい。

 ともかく、この1万5千という「数」にこだわり、私なりに追及してみたが、どうだろうか。
 ところで、鹿児島までの距離の問題もそうだったが、どうも鹿児島は何か「数」に対して、われわれを幻惑させるというか、困惑させるというか、そういうものがあるようだ。
 たとえば、島津77万石という石高である。どうもこの77万石という「数」の意味が私にはわからないのである。
 次の話に移る前に、少しこの点を追及してみたい。だれか詳しい方がいて、私の疑問に答えてくれるかもしれないことを期待しながら。

8.18政変再び  佐々木克論文について(31)

2009-10-26 11:48:16 | 歴史
 この「数」は、戦国期以来、薩摩藩―西南戦争ではそう言えないかもしれないがーで動員された最大の数である。
 幕末期に1万5千という兵が動員されたことがあれば、それにならって旅程を立て、鹿児島を出発するということになるだろうが、西南戦争のとき、そういう形跡は全くない。ただ、1万数千(5千に近い数だろう)の兵を3分し、3日かけてそれぞれ行程をかえて出発している。それも当然だろう。一挙に1万数千の兵が休憩し、食事をし、泊ることができる場所を確保することなど出来なかったのだから。まあ、ほとんどの兵は野営だったにしろ、総大将は勿論、隊長クラスは野営などしないから、その寝泊りする場所を確保するだけでも大変な労力だったろう。 
 だから、3分の1の数千の兵が移動するだけでも大変なことなのである。
 ところで、現代から見るとやや奇異な感じを受けるが、「数」に入っていな「数」があることについてである。どういうことかというと、たとえば、そこそこの身分の武士に従っている下僕や下男と括られる人間は、「数」に入っていないのである。当然、名前さえ記録に残されない場合が多いので、戦争の際など、実際どれだけの「数」が動いたのか死んだのかわからない。もちろん、文字通り切り捨てられるほどの「数」だろうが、記録の中で何か曖昧な「数」を見出すと、かれらのことが思い浮かんでくる。

 また脱線してしまったが、最後に、佐々木氏が文久3年9月の久光上京について2度目に言及したとき、括弧付きで、この1万5千という数字は検討の余地があると断っていることに触れなければなるまい。この部分の注に、1万5千という「数」の典拠が示されていたからだ。それは『維新史』3-653頁に採用されている「数」のようで、『中山忠能日記』1-245頁の記載を根拠としているらしい。そして、「中山の数字は伝聞に基づいたものであり、しかも一説では7千人ともいっている。薩摩藩側にも人数を正確に記した史料がなく、この点は稿をあらためて検討してみたい」(「文久3年8月政変と薩摩藩」55頁注)と断っている。しかしながら、専門家なら、最初からこの数字を疑ってから論を進めて欲しかったと考えている。
政変後、空白になった京都に長州軍が反撃にやってきたらどうしようという不安と恐れから、兵数などに無知な貴族が過大に期待した「数」に過ぎないではないか。

8.18政変再び  佐々木克論文について(30)

2009-10-25 11:19:58 | 歴史
 また、「数」の話から少しずれてしまったので、元へ戻そう。藩主・忠義が率いていった「兵数」のことである。正直言って、私にははっきりした数はよくわからない。
 芳氏の『島津久光と明治維新』では、「・・・数百名の兵力・砲器を満載した春日丸・三邦丸・平運丸・翔鳳丸の四隻の艦船をひきい・・・」とあるだけで、数百名の兵力が総計なのか、それとも各艦船に乗り込んだ兵力が数百名ずつなのかはっきりしないのだ。総計が数百名というのは少ない気もするが、一番最近購入した春日丸、というよりこの一千トン木造外輪船を待っていたため、鹿児島出発が若干遅れたのだが、おそらくこの船が一番大きい船だったのではないだろうか。とすると、私の推測に過ぎないが、春日丸には150人から200人前後がせいぜいだろう。以下、おそらく3~5百トンクラスの船もあるだろうから、すべて合計しても5,6百人ぐらいではなかろうか。
 これらは、もっと調べて正確を期すべきなのだろうが、どうもズボラでいけない。ただ、多少の船員経験から、あまりデタラメな「数」は言っていないつもりである。私が乗船したことのある300トンの船と1,500トンの船から想像しているのである。トン数は近代船だろうが、木造外輪船だろうが、その容量において差はないのだから。
 ただ私の推計が間違っていたとしよう。忠義は歴とした藩主なのだから、その威儀と威容のため各艦に数百名として、1500名ほど率いて上京していたとしよう(注)。久光の名代として上京していた島津忠鑑(珍彦)が、500名ほどだったとすれば、鳥羽・伏見の戦いに出軍した薩軍は2,000名ほどで、長州軍と合わせて4,000名というのは説明がつく。
 もっとも、満を持して出兵してきた長州軍は、このとき薩軍より多かったと思えるから、まあやはり、忠義が率いていたのは、1,000名ほどか。
しかしこんな想像の差など大したことではない。少なくとも、兵事でもないのに、久光が1万5千の兵を従えていたと仮定するよりは。

 ところで、薩軍兵1万5千という「数」で、私は最初から連想していたことがある。それは、西南戦争で、鹿児島から出軍したおよその「数」である。

(注)・・・千トン未満の船に、5,6百名も乗せていたら、寝ることや糞尿も満足にできない奴隷船並だ。甲板上に乗せればいいじゃないか、という人もいるが、甲板というのは、構造上海水を通す場所なのである。

8.18政変再び  佐々木克論文について(29)

2009-10-24 11:28:27 | 歴史
 そこでようやく藩論は出兵ということに決定し、藩主忠義は、家老島津広兼、岩下方平(みちひら)や西郷らとともに、購入したばかりの春日丸や三邦丸、平運丸、翔鳳丸という艦船4隻を率い、11月13日、鹿児島港を出発した。 
忠義にとっては、藩主就任で江戸にのぼって以来、9年ぶりの、そして現役藩主としては最後の上京という「晴れ舞台」だった。
 これは視点を変えれば、その9年間は藩主ではない実父の久光が実権を握っていたということである。そして藩主でもないのに、薩摩藩ばかりでなく、あの変転激しい幕末の政治を主導してきたのだから、こちらのほうが驚くべきことかもしれない。しかしながら、もっと驚くべきことは、これだけの政治的力量を見せた久光に対して、長い間、ほとんど「焦点」が当てられなかったことのほうだろう。芳氏や佐々木氏や町田氏のような研究者が現れる、ごくごく最近まで。
 これはどうしたことなのだろう。確かに、明治以降の久光は、いわば「不貞腐れた頑固者」というイメージがまとわりついている。しかし、これだって、明治以降の急激な近代化路線から外された、いわば「政治的負け組」に属したが故ではないだろうか。だから過剰に「不貞腐れた頑固者」のイメージが増幅されているのだろう。だが、久光に負のイメージを与えるもっとも決定的なのは、西郷との拭えない確執だった。
 なるほど、西南戦争前後の久光はやや西郷に同情的だったかもしれない。しかし、これもあくまで自分を「裏切った」大久保との相対的な感情であって、久光は最後まで西郷を自分の臣下とは思わなかった。と同時に、西南戦争で敗れた鹿児島士族たちは、久光を許せなかった。自分たちの「神」である西郷を苦しめた元凶として。

 要するに、西南戦争以後、鹿児島の郷土史家や研究者たちも「西郷神話」を打ち崩せなかったのだ。やや自嘲気味に、自分は「よそ者」の研究者である、とある著書のあとがきに書いた芳即正(かんばし・のりまさ)氏を除いて。

8.18政変再び  佐々木克論文について(28)

2009-10-23 12:17:12 | 歴史
 どうも気負っているのか話を急ぎ過ぎて、すぐ「論評」を導きたがるが少しペースダウンしよう。

 この戊辰戦争の出軍に関しては、薩摩藩内ではスッタモンダしている。どういうことかというと、慶応3年5月末、久光の了承の下に、京都で武力倒幕を決定した小松、西郷、大久保ら藩の重臣らは、この決断がすぐ藩の出兵を促すものと考えていたようだが、待てど暮らせど鹿児島からは兵がやってこない。   
この間、武力倒幕を隠して、大政奉還論を掲げる土佐藩と盟約を結んだりしているが、結局条件が整わず、9月初めにこれを破棄している。だがこのあとも、鹿児島からは兵がやってくる気配もない。それから9月半ばには久光が最初に帰国するが、久光は鹿児島に戻って驚いてしまう。自分の次男である家老・島津久治はじめ堀次郎(伊地知貞馨)、高崎正風(佐太郎)、奈良原繁(注)など久光の腹心連中も出兵反対を唱えていたのだ。
 かれらは、もし武力倒幕に失敗して朝敵の汚名を貼られた長州藩のようになったら、この700年続いた島津家の命運はどうなるのか、と久光に詰め寄ったのである。  
 これには、久光も返す言葉がなかった。実際、成功するか失敗するかはこの時点で誰にもわからなかったのだから。この国元の状況にしびれを切らした小松、西郷、大久保は、10月17日、のちのち偽勅論争を招いた「討幕の密勅」を携えて帰国する。

(注)・・・このとき、繁は国元にいなかった。というのは、繁は久光と交替する島津忠鑑(珍彦・うずひこ・久光3男)とともに上京し、久光が大坂で待機していたときすでに繁から国元の情勢と同時に繁の意見も聞いていた形跡があるのだから。ということは、久光は帰国してから驚いたということはないと思える。

8.18政変再び  佐々木克論文について(27)

2009-10-22 10:50:05 | 歴史
 前回の最後のところで、町田明広氏の例を引用したが、やや雑駁過ぎた感じがするので、もっと正確な「数」を引用しよう。引用するなら、正確に引用してもらいたい、と苦情が出そうな気もしたからだ。
 さて、町田氏は、『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、まず、丸山雍成氏の『日本近世交通史の研究』から、「寛永12年(1635)の松平薩摩守行列人数は(略)2,420人にのぼる。しかし、寛延2年(1749)の帰国供人数は928人程、また明和2年(1765)には507人、寛政2年(1790)の参勤御船立の供人数は559人となっているから、幕府の規制や藩財政の窮迫によって相当縮小した」を引用し、幕末期の参勤交代の供人数は寛政期の倍になっているが、江戸初期の半分ほどであるとし、久光の率兵上京は、威儀威容もすべて藩主同様の扱いにされた、としている。また、久光が率いていた「千人の守衛人数自体は、薩摩藩にとって特筆すべきレベルとは必ずしも言えなかった。沿道の庶民にとっては、特段の武装をした、異様な規模の大名行列には見えなかったはずである」(『島津久光=幕末政治の焦点』)と結んでいる。
 納得できる結論だと思うし、このことだけでも、1万5千という「数」が異様さを超えた、ありえない「数」だということがわかるだろう。

 もっとも、私がまだまだ引用したい「数」があるので、続けよう。
 戊辰戦争の際、薩摩藩が動員できた兵員数のことである。ここで、何とかより正確な「数」を調べ、取り上げるのは不可能なことではないが、面倒なのでやめる。そんなことより、最初の鳥羽・伏見の戦いの際の幕府軍と薩摩・長州軍、つまり官軍と幕府軍との兵数を持ち出してくれば一目瞭然だろう。
 幕府軍が1万5千に対し、薩摩・長州合わせた「数」が4千なのである。まさか、この「数」を佐々木氏が知らないはずはないだろう。
 いや、当然知っている。だが、何か思い込んでいる頭の中では、そんな「数」は問題とはならないのである。ということは、どんな専門の研究者でも、ある方向に思考が設定されると、もうそこから自由にはなれないということなのだろうか。