ところで、薩摩藩領内では、文禄3年(1594)から翌年にかけて、石田三成による検地が行われているが、この際、どうもそれまで薩摩藩で行われていた収穫の籾高算出をそのまま踏襲したのではないだろうか。というのは、薩摩、大隈、日向(諸県)の広い地域を、あまり多くない人数で、それも1年未満で新しく計測しながら廻るというのは不可能のように思えるからだ。
そしてその時計測した領内総石高は、60万石余だったように記憶している。もっとも、今手元にその資料がないので正確な数を記すことができない。
ともかく、その後、江戸時代に入って内検とよばれる藩独自の検地を何回か行っているが、開墾及び琉球藩10万石(実高かどうかわからない)を加えれば、江戸期の終わりごろには、80万石近くを計上するようになったのだろう。実高は37,8万石なのに。
ここに一つのトリックがある。それぞれの大名の石高によって、たとえ外様の大名でも、登城した藩主の江戸城における待遇や詰める場所や席順なども違ってくる。つまり大名の格が決まってくるのである。ということは、石高が高く、待遇面で優遇されるほうが、少なくとも殿様は誇りに思えるし、喜んだことだろう。だが、この高い石高は、それに応じた大名行列の人数や幕府が要求する負担額も増えてくることになる。つまり、実質的には何の得にもならないのである。それゆえ、どうも77万石と唱えていたのは薩摩領内だけのことで、他所では、そういうことを言わなかったようなのだ。領内だけの話なら、支配される側の農民や町人は、島津様は大大名として恐れ入り、支配するのに都合がよかっただろうから。
幕府もこのあたりの事情はわかっていたのだろう。薩摩藩の大名行列は30万石格のようだし、その形跡もある。ただ、これでも薩摩と江戸の往復では相当な費用を要したことだろう。これらのだけのことではないが、薩摩藩は江戸の初めごろから徐々に借財を増やし、重豪(しげひで)の時代には、年間の収入が30万両から40万両というのに、500万両という返済不能な借財を背負うことになってしまったのである。
そしてその時計測した領内総石高は、60万石余だったように記憶している。もっとも、今手元にその資料がないので正確な数を記すことができない。
ともかく、その後、江戸時代に入って内検とよばれる藩独自の検地を何回か行っているが、開墾及び琉球藩10万石(実高かどうかわからない)を加えれば、江戸期の終わりごろには、80万石近くを計上するようになったのだろう。実高は37,8万石なのに。
ここに一つのトリックがある。それぞれの大名の石高によって、たとえ外様の大名でも、登城した藩主の江戸城における待遇や詰める場所や席順なども違ってくる。つまり大名の格が決まってくるのである。ということは、石高が高く、待遇面で優遇されるほうが、少なくとも殿様は誇りに思えるし、喜んだことだろう。だが、この高い石高は、それに応じた大名行列の人数や幕府が要求する負担額も増えてくることになる。つまり、実質的には何の得にもならないのである。それゆえ、どうも77万石と唱えていたのは薩摩領内だけのことで、他所では、そういうことを言わなかったようなのだ。領内だけの話なら、支配される側の農民や町人は、島津様は大大名として恐れ入り、支配するのに都合がよかっただろうから。
幕府もこのあたりの事情はわかっていたのだろう。薩摩藩の大名行列は30万石格のようだし、その形跡もある。ただ、これでも薩摩と江戸の往復では相当な費用を要したことだろう。これらのだけのことではないが、薩摩藩は江戸の初めごろから徐々に借財を増やし、重豪(しげひで)の時代には、年間の収入が30万両から40万両というのに、500万両という返済不能な借財を背負うことになってしまったのである。