徳永氏は、「まえがき」に密貿易と贋金造りが学生時代からの研究主題だと書いている。なるほど、それが『薩摩藩対外交渉史の研究』(九州大学出版・2005)と『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社・2010)に結びついたのだろう。だが後者は、『吉野の史蹟』(昭和6年)やそれ以後の原口虎雄氏やその批判である芳即正氏の贋金造りに対する認識とはあまりにも隔絶していた。そして、それを私はどうしてこんなことが起ったのだろう、と自問した。
奇妙なことだが、鹿児島の歴史研究者の間では、鹿児島には歴史研究者が少ないとよくいわれる。ただ、これは研究者一流の言い回しであって、素直に鵜呑みにはできない。私からはっきり言わせてもらうと、研究対象が偏り過ぎているからだ。ある一定の研究者や好事家がいても、ある「人物」や歴史事象に研究が集中していれば、必然的にそれから遠くなる研究は手薄になる。それが、研究者が少ないように見えるからくりである。
もっとも、正確に比較したことはないが、アマチュア・レヴェルの研究者に関しては、決して多いように感じられない。たとえば、私は今、古文書解読の勉強会がある清水郷土史研究会に属している。ここには、現在300名ほどの会員がいて、それぞれ、宿場研究部会とか廻船問屋研究部会とか地名研究部会とかの分野に分かれ、皆熱心にそれぞれのテーマに取り組んでいる。失礼を省みずにいうと、小さな港町の歴史に、よくもまあ、色々な題材があるものだと感心する。
そういう経験からすると、鹿児島の維新史の研究は、直接日本史と直結するのである。もっともっと多くの好事家がいてもおかしくないのだが、そう多いという感じはしない。
ただ、こういう理由も複雑なことではない。先に言ったように、バイアスがかかっているので、自由な研究が行えないのだ。これでは、面白くないのは当り前である。そんなわかりきっていることをなぜ今さら調べるのだ、などと先輩に言われれば、調べようなどとする気も起らなくなってしまうだろう。若者などは、鼻から敬遠するだろう。いまだに鹿児島の現状はこうなのである。
では、徳永氏は、なぜあえて誰も探ろうとしない分野の研究を選んだのだろうか。それは、誰も研究者が居なかったからだ、と言われればそれまでだが、それだけでは私は納得しない。なぜなら、誰も踏み込んでいない分野などまだまだたくさんあるからだ。徳永氏はなぜ、これを研究テーマに選び、壁を破ったかの理由にはならないのである。
そもそも『薩摩藩対外交渉史の研究』だって、タブーに近い研究テーマだった。
奇妙なことだが、鹿児島の歴史研究者の間では、鹿児島には歴史研究者が少ないとよくいわれる。ただ、これは研究者一流の言い回しであって、素直に鵜呑みにはできない。私からはっきり言わせてもらうと、研究対象が偏り過ぎているからだ。ある一定の研究者や好事家がいても、ある「人物」や歴史事象に研究が集中していれば、必然的にそれから遠くなる研究は手薄になる。それが、研究者が少ないように見えるからくりである。
もっとも、正確に比較したことはないが、アマチュア・レヴェルの研究者に関しては、決して多いように感じられない。たとえば、私は今、古文書解読の勉強会がある清水郷土史研究会に属している。ここには、現在300名ほどの会員がいて、それぞれ、宿場研究部会とか廻船問屋研究部会とか地名研究部会とかの分野に分かれ、皆熱心にそれぞれのテーマに取り組んでいる。失礼を省みずにいうと、小さな港町の歴史に、よくもまあ、色々な題材があるものだと感心する。
そういう経験からすると、鹿児島の維新史の研究は、直接日本史と直結するのである。もっともっと多くの好事家がいてもおかしくないのだが、そう多いという感じはしない。
ただ、こういう理由も複雑なことではない。先に言ったように、バイアスがかかっているので、自由な研究が行えないのだ。これでは、面白くないのは当り前である。そんなわかりきっていることをなぜ今さら調べるのだ、などと先輩に言われれば、調べようなどとする気も起らなくなってしまうだろう。若者などは、鼻から敬遠するだろう。いまだに鹿児島の現状はこうなのである。
では、徳永氏は、なぜあえて誰も探ろうとしない分野の研究を選んだのだろうか。それは、誰も研究者が居なかったからだ、と言われればそれまでだが、それだけでは私は納得しない。なぜなら、誰も踏み込んでいない分野などまだまだたくさんあるからだ。徳永氏はなぜ、これを研究テーマに選び、壁を破ったかの理由にはならないのである。
そもそも『薩摩藩対外交渉史の研究』だって、タブーに近い研究テーマだった。