海鳴記

歴史一般

『偽金づくりと明治維新』から (25)

2011-01-30 11:51:07 | 歴史
 徳永氏は、「まえがき」に密貿易と贋金造りが学生時代からの研究主題だと書いている。なるほど、それが『薩摩藩対外交渉史の研究』(九州大学出版・2005)と『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社・2010)に結びついたのだろう。だが後者は、『吉野の史蹟』(昭和6年)やそれ以後の原口虎雄氏やその批判である芳即正氏の贋金造りに対する認識とはあまりにも隔絶していた。そして、それを私はどうしてこんなことが起ったのだろう、と自問した。
 
 奇妙なことだが、鹿児島の歴史研究者の間では、鹿児島には歴史研究者が少ないとよくいわれる。ただ、これは研究者一流の言い回しであって、素直に鵜呑みにはできない。私からはっきり言わせてもらうと、研究対象が偏り過ぎているからだ。ある一定の研究者や好事家がいても、ある「人物」や歴史事象に研究が集中していれば、必然的にそれから遠くなる研究は手薄になる。それが、研究者が少ないように見えるからくりである。
 もっとも、正確に比較したことはないが、アマチュア・レヴェルの研究者に関しては、決して多いように感じられない。たとえば、私は今、古文書解読の勉強会がある清水郷土史研究会に属している。ここには、現在300名ほどの会員がいて、それぞれ、宿場研究部会とか廻船問屋研究部会とか地名研究部会とかの分野に分かれ、皆熱心にそれぞれのテーマに取り組んでいる。失礼を省みずにいうと、小さな港町の歴史に、よくもまあ、色々な題材があるものだと感心する。
 そういう経験からすると、鹿児島の維新史の研究は、直接日本史と直結するのである。もっともっと多くの好事家がいてもおかしくないのだが、そう多いという感じはしない。
 ただ、こういう理由も複雑なことではない。先に言ったように、バイアスがかかっているので、自由な研究が行えないのだ。これでは、面白くないのは当り前である。そんなわかりきっていることをなぜ今さら調べるのだ、などと先輩に言われれば、調べようなどとする気も起らなくなってしまうだろう。若者などは、鼻から敬遠するだろう。いまだに鹿児島の現状はこうなのである。
 では、徳永氏は、なぜあえて誰も探ろうとしない分野の研究を選んだのだろうか。それは、誰も研究者が居なかったからだ、と言われればそれまでだが、それだけでは私は納得しない。なぜなら、誰も踏み込んでいない分野などまだまだたくさんあるからだ。徳永氏はなぜ、これを研究テーマに選び、壁を破ったかの理由にはならないのである。
 そもそも『薩摩藩対外交渉史の研究』だって、タブーに近い研究テーマだった。

『偽金づくりと明治維新』から (24)

2011-01-29 08:46:38 | 歴史
 さて、平田氏の「天狗喝し」の話は人から聞いた話である。氏は、吉野周辺の話を集めているうちに、花倉御殿の偽金造りの話を耳にし、そのとき天狗喝しの怪異譚も聞いた。当然のことながら、平田氏にしても、それをそのまま事実として信じたわけではなかろう。ただ、戦前の鹿児島では、こういう怪異譚も、排除されるべき迷信としては存在していなかった。人々の間には生きていたのである。それゆえ、この時代を生きた平田氏も、決してなおざりにせずに、しっかり書き留めた。人々の間に生きていた恐怖の痕跡を。
 もっとより具体的にいえば、花倉屋敷の周囲の人々は、贋金造りの事実を口止めされていたのである。漏らせば、恐い目に合うぞと脅されながら。だから、その恐怖感が、いつの間にか天狗喝しの話に変異し、何かいわく言い難い話として残ってしまったのである。私は、そう解釈したほうが、3方丸く収まってしまうような気がするのである。
 あの青駕篭の話もそうだった。戦争を忌避する反私学校徒が、空を飛ぶ山駕篭に乗せられて行ってしまったというのは、父親も連れ去られてしまうのではないかという少女の恐怖譚であった。そして、その少女の荒唐無稽な話を載せた郷土史家も、同じリアルな恐怖感を共有したからこそ、何の違和もなく、西南戦争時の一つのエピソードとして記録したのである。
 天狗喝しの話が西南戦争時の話ではなく、幕末の贋金造りの際生まれた恐怖譚だったとしても、基本的には、同じ環境内の結果だろう。つまり、自由にものを言うことができない狭い、閉じられた共同体では、時間もゆっくり進行し、2、3世代という経過も何の変化ももたらさない。そして、4代、5代と時間が経つにつれ、歴史的事実そのものが忘れられていく。
 私が、生麦事件を調べ始め、その途中で、出水や大河平の事件を発見し、それらも同時進行的に調査してきた。それでわかったことは、それぞれの事件の詳細ではもちろんない。今言ったように、歴史的事件そのものが忘れ去られていていたということだったのである。特に、それがマジョリティに属さない場合は、悲惨としか言いようがない。
 こういうことを考えると、徳永氏の『偽金づくりと明治維新』は画期的なものである。なぜこんな大掛かりな歴史的事実さえ今まで知られてこなかったのだろうか。断片的な痕跡は至るところに転がっていたのにも関わらず、である。不思議を通り越して、これこそ現代の怪異譚といえるのではないだろうか。
 ではなぜ一人徳永氏のみが、この怪異譚に挑んだのであろうか。


『偽金づくりと明治維新』から (23)

2011-01-28 11:31:14 | 歴史
 以上、芳説は、原口説の、いや平田猛氏の『吉野の史蹟』の言い伝えを、完全に否定した。そして、これは部分的に正しい。天保4、5年頃に偽金造りはなかったし、それゆえ、調所広郷が偽金造りに関わったということもない。これはこれでいい。ところが、芳氏は、文久2年に磯の鋳銭所で造り始めたのは、幕府から許可された琉球通宝であり、ほぼ同時進行した偽天保通宝鋳造に関しては、何も触れていない。そればかりか、慶応元年10月以降から「花倉屋敷跡」で造り始めた贋金二分金も一切言及しなかったのである。ということは、芳は、薩摩藩が偽天保通宝や贋金二分金を造っていたという事実を知らなかったということだろう。

 これが、徳永氏が『偽金づくりと明治維新』を著わすまでの鹿児島の研究者たちの実態であった。こう見てくると、前記3人の薩摩藩の偽金造りに対する認識と、今回の徳永氏との間には、大きな隔たりがあるのがわかるであろう。いや、単なる隔たりではない。隔絶した認識と言っていいほどの違いがある。では、どうしてこんな違いが生じたのだろうか。

 このことを考察する前に、私が気になっていたまた別な話題にについて語ってみたい。話があっちこっち飛んで申し訳ないとは思うが、つい忘れてしまいかねないからだ。
それは、歴史研究者がさも当然のように排除した「天狗喝し」の怪談のことである。なるほど、「天狗喝し」などということは、実証的に論じようもないことなのだから、無視するのは当り前である。正統な歴史学者なら。
 ところで私は、居直るわけでもなく「正統な歴史学者」ではない。だからこそ、自由に発想したい。「天狗喝し」は本当になかったのか、と。
 私のブログを読んできてくださった方は、当然記憶していると思うが、戦前の『帖佐(ちょうさ)村郷土誌』(昭和8年刊)のエピソードでことである。私学校の徒に捕縛され、山駕篭に乗せられて空を飛んで行った反私学校徒たちの話である。
 この話については、私なりに散々言及した。今さら繰り返す気もないので、まだ読んでいない方は、「西南戦争」の章か「続西南戦争」あたりの章を読んでもらいたい。まあ、結論的には、同じようなところに決着するだろうが。

『偽金づくりと明治維新』から (22)

2011-01-27 11:26:14 | 歴史
 特に気に留める必要もないのだが、深読みすると、あるいは偏見の目をもって読もうとすると、どうとでも読めるところがあるのである。
 「さすがに原口さんは、天狗喝しの怪談は狂言とされるが」の部分である。文法的にいえば、「さすがに」は、「・・・される」に掛っていく副詞なのだから、この「さすがに」は「原口さん」に掛るわけではない。だから、この「さすがに」は、「当然のことながら」とか「当たり前のことながら」という意味合いで言っている。だが、文法を無視して「さすがに」を強調すると、微妙にニュアンスが変わってくる。つまり、原口さんを「さすが」だと言っているふうに。これは、英文のいわゆる強調構文という型の文章にするとわかりやすい。たとえば、こうだ。
 「原口さんは、天狗喝しの怪談は狂言とされるが、さすがだ」というふうに。もちろん、芳氏の文章をそう捻じ曲げているわけではない。あくまで、日本語だとそんなふうにも聞こえてくる可能性があることを言ったまでのことである。
 なぜこんなことにこだわるかと言うと、徳永氏の原口批評を憶い出してもらいたい。氏は、「天狗喝しを風説として排除していることは<正しい指摘であった>といえる」と書いているのである。
 結論的にいうと、もし徳永氏が芳氏の文章を読んだ後、だと思うのだが、原口氏の批評をし、最後に上記の表現を入れたとすれば、徳永氏は私が解釈した「さすがに」を強調した意味で、芳氏のフレーズを捉えているのである。
 白状すると、私は徳永氏の原口批評を読んだ後に、芳氏の文章を読んだので、「さすがに原口氏は、・・・」の部分を一瞬強調構文のように解釈してしまった。そこでなぜそんなふうに取ってしまったのかと考えると、徳永氏の文に戻ったのである。あっ、これが原因だったのか、と。そして、以上のような駄文を労してしまったというわけである。ともかく、日本語は難しい。
 では、そろそろ芳氏の本論に入ろう。
 氏は、諸史料の探索から、花(華)倉御殿の存在期間は、弘化4年(1847)から文久3年(1863)までの間で、弘化4年より13年前の天保5年(1834)には、まだ存在しなかったとしている。また、安政4年(1857)、千住大之助という佐賀藩士がここを視察に訪れたという記録があり、かれが描いた絵図には工場らしき記事はないという。氏は、贋金造りの工場を他藩の者に見せるわけはないことから、ここで贋金を造っていたという証拠はないとし、原口説に疑いを呈している。あまつさえ、「文久2年、幕府の許可を得て藩が造った鋳銭所は磯にあり、薩英戦争後は西田に移った。原口説のお金方の技術者以下の詳細は『吉野の史蹟』の記述そのままであり、しかも明治維新前後の状況とあるから、その内容は花倉ではなくこの文久年間の磯の鋳銭所のものではないか」と結論づけている。


『偽金づくりと明治維新』から (21)

2011-01-26 11:51:46 | 歴史
 某氏も、常々、つい言いすぎるのが私の悪い癖だ、などと言っているが、別に某氏に限ったことではあるまい。「中央」では、ちょっと脱線しても手厳しい批判を受けるのだろう。そういう緊張感のある環境でなければ、皆が納得する著作や論文などなかなか書けまい。
 おそらく、虎雄氏は、つい「筆が滑った」だけなのだろう。筆の流れで、つい確認も忘れて言わずもがななことを口走ってしまう。こんなことは誰もがすることで、目くじら立てるほどのことではあるまい。
 しかしながら、鹿児島における維新史の第一人者としてはいただけないのではないか。鹿児島内の研究者たちにはともかく、その外側にいる研究者はそう甘くないからだ。
 では、徳永氏の前に、最後に偽金造りについて触れた鹿児島の研究者を紹介しよう。もちろん、この間にも、大学の紀要などに部分的に発表した研究者もいるだろうが、それは除く。徳永氏もそれら紹介していないし、私もそこまで探す気もないからだ。
 さて、最後の論文は、芳即正(かんばし・のりまさ)氏の「芋侍の哀歓(十)-ホント? 華倉(けくら)御殿のニセ金造りー」(『随筆かごしま号』70号・平成3年<1991>、『坂本龍馬と薩長同盟』平成17年<2005>所収)である。氏については、私も何度も取り上げてきたが、徳永氏も、(現在における)薩摩藩の幕末維新研究の第一人者と紹介している。
 私は、鹿児島在住時に、すでにこの論文を読んでいるが、私の関心は全くそういう方向になかったので、ほほう、そんなことがあったのかという程度の印象だった。しかし、内容は忘れていない。どうも、読み方によっては非常に辛辣な内容を含んでいるように感じられたからである。
 今回、改めてじっくりその部分を読み直してみると、別に何でもないといえば言える。だが、氏を知らなければ、どっちにも取ろうと思えば取れる微妙さもなくはない。以下の引用は、今言った微妙さと違う例として取り上げるのだが、これも微妙さに変わりはない。
 
・・・華倉御殿がニセ金造りの工場だったというのは本当の話だろうか。推測するに原口(虎雄)さんの話の種本は、平田猛著『吉野の史蹟』ではなかろうか。さすがに原口さんは、天狗おどしの怪談は狂言とされるが、その他は昭和六年の平田説をそのまま継承されていて、華倉御殿は別邸としては使われずに、ストレートにニセ金造りの工場になったとされる。あるいは他にこれを実証する史料があってのことだろうか。知りたいところである。

『偽金づくりと明治維新』から (20)

2011-01-25 12:23:00 | 歴史
 私が、『吉野の史蹟』(昭和6年刊)の著者である平田猛氏の文章を要約し、『幕末の薩摩』(昭和41年刊)の原口虎雄氏の文章をそのまま引用したのに他意はない。後者は、軽快でテンポのいい、「名文」だからである。つまり、前者と同じように私が要約したら、2度、3度読んでもよくわからない文章になりかねないと判断したからである。私ですら、原口氏の文章を読んだとき、いやこれしか読んでいなかったとしたら、そのまま事実だったかのように彼の説を信じていただろう。それほど、1度読んだだけですっと頭に入る、漢文調の歯切れのいい文章だった。まるで、ジャーナリストのお手本になるような・・・。
 だからと言って、私が試みた『吉野の史蹟』の要約は、原口氏の文章を参考にしたわけではない。いや、逆である。原口氏が、平田氏の本の内容を要約していただけなのである。
 このことを徳永氏は、「しかし、研究(『幕末の薩摩』の・・・私注)主題でない偽金造りにふれ、『吉野の史蹟』から引用・説明したことが問題を残した。当代一の研究者が手を着けたことが、風説から史実への第一歩を踏み出すことをうながし、功績とは逆に、引用内容のすべてが真実であるかのような印象を読者に与えてしまったのである」と書き、次に、(原口)氏は<思うに、この“天狗喝し”は狂言で>として、天狗喝しを風説として排除していることは正しい指摘であったといえる」と結んでいる。
 徳永氏の批判の前半部分はともかく、後半は何だかなあ、という感じである。まあ、これが鹿児島内で研究を続ける歴史家たちの限界なのかもしれない。
 だが、私は違う。もし原口氏が、注釈も付けずに偽金造りの話をし、それを真実であるかのように語っていたとしたら、研究者としては大罪ものである。極端なことを言えば、これ一つをとっても『幕末の薩摩』の残りの部分も疑わしい、と。
 それは言い過ぎじゃないの、という声も聞こえてくるが、私が言おうとしているのは、そういう厳しい批判を許さない閉じられた共同体だからこそ、今の今までさまざまな「秘密」が保持され、それによってさまざまな人々が苦しんできたのではないか、と。

 私は、数年前、鹿児島から静岡に移った。たまたま紹介する人があって、原口清氏の自宅で月1回開かれている「維新史談会」に加わった。そこである日、私がある研究者の著作の正否を尋ねたとき、某氏がまるでその研究者の存在も否定するかのような厳しい口調で批判し、その著作の価値もまるでゼロに等しいような評価を与えたのには驚いてしまったことがある。私は、その時の批判の内容をまるで覚えていない。ただ、ああ、この人は鹿児島では絶対に研究者としてはやっていけないだろうな、と考え続けていたことだけは忘れていない。

 

『偽金づくりと明治維新』から (19)

2011-01-24 11:36:21 | 歴史
 贋金二分金をどれほど造ったのか結局わからなかったものの、どうも製造場所は、琉球通宝や偽天保通宝を造っていた場所とは違っていたようだ。この場所については、以前からさまざまな憶測を呼んでいた。花倉(けくら)御殿と呼ばれる島津家の別荘跡である。
 まず、郷土史家・平田猛の『吉野の史蹟』(昭和6年<1931>刊)の中でで、花倉屋敷跡が贋金造りの拠点だったという言い伝えを披露しているらしい。もっとも、徳永氏によれば、これが明治以後初めて贋金造りについて言及した本として画期的なものだったとするものの、真偽入り混じった内容であるという。
 この話を私なりに要約してみる。花倉別邸は島津斉興(斉彬や久光の父親)が建てたものである。現在の磯の別邸からさらに北東側の三方は崖と斜面の深い樹木に覆われ、一方の南側は海である。
 さて、この別邸の落成後のある日、斉興はそこに泊った。するとその夜、天狗喝(おど)しとして色々不思議なことが起ったので、斉興は急遽、この別邸を廃止し、新たに城下北西の玉里に別邸を造り直した。そして、廃止された花倉屋敷跡に、その後、御金方(おかねほう)が創立されることになったという。   
 平田氏は、この場所は外部からは垣間見ることもできない隔絶した場所にあったので、御金方、つまり贋金造りには最適だったという。しかし平田氏は、その創立を天保4,5年(1833~1834)頃と推定し、調所の財政改革時代と照合している、と結んでいる。
 その後、花倉屋敷について触れたのは、鹿児島の近世史の第一人者として著名な原口虎雄氏である。鹿児島では言わずと知れた原口泉氏の父君である。
 虎雄氏は、幕末薩摩藩の研究では不滅の業績といわれる『幕末の薩摩』(昭和41年<1966>)の中で、以下のことを書いているらしい。

何がもうかるといっても、偽金造りには及ぶまい。貨幣に不自由しきった斉興と調所 は、大胆にも偽金造りを始めた。鹿児島花倉に、「お金方(かねほう)の跡」という 化物屋敷がある。ここが偽金を造る場所であった。後は切り立つ絶壁を負い、前は数 間の高い石垣になり、下は海を望む。人里は離れた要心堅固な場所である。
 さらに続けて、
天保四、五年のころ、斉興はこの辺鄙な土地を見たてて別邸を営んだ。世人はこれを 花倉お仮屋(かりや)とよんだが、落成後斉興が一夜泊ったところ、“天狗喝し”と いってさまざまな怪異が起った。そこで、急に御仮屋を廃して、新たに玉里に代わり の別邸を営み、そのあとを「御金方」にしたと伝えられる。偽金造りも密貿易も同様 国禁であるから記録が残るわけがない。しかし、調所の死後も相当大規模に続けてい た。


『偽金づくりと明治維新』から (18)

2011-01-23 11:24:32 | 歴史
 以上見てきたように、なかなか複雑である。そして、江戸では主として金貨、大坂では銀貨が一般通用貨幣となると、私は初めの頃、何が何だかよくわからなかった。
そして今回、私なりに整理してわかったことは、この日本の貨幣制度(単位)の複雑さ、つまり、合理性のなさが結局外国側につけこまれ、金の流失につながってしまったのだということだった。
 当時、欧米の金と銀の等価交換比率は、1:15だった。それはメキシコで大量の銀が産出され、相対的に銀の価値が下がったことによるらしい。そして、日本の場合は1:4.6だった、とよく説明される。ところが、銀貨の1両換算で見てきたように、60匁(約225グラム)の豆板銀と5匁銀は秤量貨幣といえるだろうが、1分銀や2朱銀、1朱銀は秤量貨幣とはいえないのである。おそらく、60匁銀と5匁銀との間を埋めるため金貨の4進法にならって付け加えたのだろうが、この一貫性のなさを諸外国は突いてきたのである。
 要するに、安政の条約を結ぶ際、1ドル銀貨(一般的にメキシコドル)27グラムと1分銀3枚計25,8グラム(これもおかしいといえばいえるが)等価交換とし、これを1両の4分の3として計算したのである。
 もちろん、幕府側もこのおかしさには気づいていた。1ドル銀貨27グラムに対応する金の量は、1.8グラム、当時の安政小判の金含有量は4.8グラムだったのだから。
 ハリスは当然このことを調べた上で、強引にそういう条項を盛り込んだのである。このあたりの外交は、今も昔も変わらない日米外交交渉というのだろうか。
 ともかく、これでは、たとえば、1ドル銀貨4枚を1分銀12枚に替え、3両の小判にして香港などに持ち出し、これをまた1ドル銀貨に換えるとどうなるのだろうか。安政小判3両を地金にすると金は14,4グラムほどになる。それと対価の銀の量は、それを15倍すると216グラム、何と8枚の1ドル銀貨に化けるのである。小判には銀も含まれているので、化けたほかにおつりも出てくるが、ひどい話である。あきれて物も言えなくなるとはまさにこのことである。何の商品取引をしなくともこれで充分な金が入ってくるのだから。
 これに手を焼いた幕府は、万延小判で、金の含有量を極端に落とし、2グラムほどにしているようだが、そのことでインフレを加速し、幕末の混乱に拍車をかけたのはいうまでもない。
 こう見てくると、薩摩藩が洋銀に金メッキをし、それで外国船を買ったとすれば痛快な話ではないか、と思えてくる。


『偽金づくりと明治維新』から (17)

2011-01-22 11:21:26 | 歴史
 安田轍蔵がその後どうなったかわからないものの、贋金二分金は着々とその製造の過程にあった。洋銀に金メッキを施し、2枚で1両になるのだから、偽天保通宝などと違って、かなり効率がよかったはずである。そして、薩摩藩の贋金の大半は、この贋二分金の製造によるものと考えられるが、どれほどの量を造ったかとなどということは、全くわかっていないようである。
 ただ、偽天保通宝に関して市来は、「自叙伝」では、「総裁就任中の3年間で、290万両の鋳造高に達したとしている」らしい。3、4割を経費とみても、また琉球通宝で仮に赤字を出していたとしても相当な純益である。市来は、贋金二分金の製造にはタッチしていないようだから、こちらのほうの記録はほとんどない。しかしながら、外国船2隻を元金二分金で購ったというから、一体、どれほどの量を造ったのだろうか。

 ところで、なぜ洋銀を使って贋金を造ったのだろうか。これは洋銀が安かったからである。そして形状も二分金と似ていたのだろう。
 もっとも、江戸時代の貨幣単位の複雑さは、1度や2度聞いてもピンとこないので、私なりに整理してみよう。私自身も頭に入っているとは言えないからである。
まず、1両小判を基準にすると、金貨に関して1両に換算できるのは、2分金2枚、1分金4枚、2朱金8枚、1朱金16枚といわば4進法である。一方、銀貨に関しては、秤量貨幣と言って、その重さが基準になるらしい。1両小判と換算できる丁銀・豆板銀は60匁(約225グラム)、1分銀は4枚、5匁(もんめ)銀は12枚、2朱銀は8枚、1朱銀は16枚である。
 さらに、1文銭という銅貨がある。これが1、000枚で1貫文、4貫文から6貫500文、つまり1文銭4,000枚から6,500枚で1両に相当するらしい。4貫から6貫500という間があるのは、いつ頃からか知らないがその価値が下がってきたということだろう。薩摩藩が偽天保通宝を造っていた頃は、9貫で1両と換算していたから、当時のインフレ振りが垣間見えるというものだ。
 これらに加えて、天保期に造られた天保通宝、また「疋(ひき)」などという貨幣の数え方もある。前者は、1枚100文と想定して造られたようだが、実際は80文ほどの価値しかなかったようである。ということは、薩摩藩は偽天保通宝を55枚で1両と換算していたが、110枚ほどで1両にしかならないのだから、市来は偽天保通宝の両換算をかなり多目にとっていたのではないだろうか。これはともかく、実際の貨幣価値は、大坂や江戸に銭相場があって、それは常に変動があった。また、後者の「疋」は、100疋で1貫目だそうである。つまり、1疋というのは10文となる。

『偽金づくりと明治維新』から (16)

2011-01-21 11:29:36 | 歴史
 安田は、慶応元年12月、鹿児島へ復帰し、価値の下落した琉球通宝の建て直しに必死になり、2度も大坂に出向き、為替商三井店と為替両替の委託を申し込むものの最終的には断られ涙を飲んだ。そして、慶応2年10月には鋳銭方を降りたというのだが、その後どうしたのだろうか。
 徳永氏は、その後の安田に全く触れていないが、薩摩藩に帰属していたのだから、そう簡単に江戸には戻れなかっただろう。それでは、慶応元年10月頃から造り始めたという贋金(がんきん)二分金の製造にでも関わったのだろうか。
 というのも、市来の日記には、「安田は琉球通宝二十万両の鋳造が済んだ後に天保通宝の偽造をする。そして、その資金をもって横浜・長崎で洋銀を購入し、一歩銀・一朱銀を贋造する地金などの購入に充てる」とあるようなのだ。つまり、安田自身も最終的にもっと効率のいい贋金造りを目指していたのである。
 ところが、安田から聞いた贋銀貨製造計画を市来が藩に上申したから、藩もそれに乗り出したというわけではないようなのである。市来がこの安田の話を書き留めたのは、文久2年11月10日で、だからこの日か直近の9日頃に安田から聞いたとする。その9日に、二の丸御用部屋にいる大久保一蔵から市来に「度々極密に吟味することを命じていた洋銀製作器械」について再度命令があった、というのである。ということは、以前から藩首脳部は、贋銀貨製造に関して市来に打診があったということだろう。要するに、久光を中心とした小松、大久保、中山らは、かなり早い段階で、贋銀貨製造計画を立てていたということなのである。もっともこの計画は、途中から贋金貨製造に変わった。交換比率のいい洋銀に金を被せ、それを二分金に仕立てあげるというふうに。
市来がそれらを聞いて最初猛烈に反対したように、天子さまをも恐れぬ大逆であった。
 ところで、藩内の誰が最初に贋金貨製造の発想をしたのか、徳永氏はよくわからないという。なぜなら、それは贋銀貨製造の過程で生まれたことによるからだ、と。では、贋銀貨は誰が発想したのだろうか。これも徳永氏は、わからないとしているが、やはり安田からかもしれない。市来と安田は、鹿児島に来てから知り合い、約1ヵ月後に安田から偽天保通宝や贋銀貨製造を耳にしている。それに対して、小松や大久保らはすでに江戸で安田と会い、おそらくそこで安田から偽金づくりの話を聞いているのだ。そう考えないと、以後、あまり手際よく偽天保通宝、そして贋銀貨造りの話が続くわけがない。大体、斉彬時代に天保通宝を造っていたなどということを、久光や大久保も市来から聞いて初めて知ったというのだから。