海鳴記

歴史一般

町田明広氏の論文について(3)

2010-01-30 10:39:49 | 歴史
 またまた前回以上に大きく間を空けてしまった。その理由は、私自身、佐々木氏の「8・18政変」を読み返しているうちに、何だ、これは、と思い始めたのである。自分で自分が綴った文章がよくわからないところが多かったのである。佐々木氏の長い、込み入った論文がわからない、わからないと言いながら、そう言っている自分の文章が何を言いたいのかよくわからなかったのだから。あきれてものが言えないとはこのことである。
 その後、やや冷静になって、校正、修正していったが、それでも何だか泥沼にはまり込んでくるようで、途中でさじを投げてしまった。ここは最初から書き改めるか、消去するしかないと考え始めてしまったのである。ただそうすると、そこまで至った過程の章も消さなくてはおかしいことになるので、また改めてそれらも読み返してみた。するとやはり、佐々木氏の「8・18政変再び」ほどではないにしろ、誤字、脱字はもちろんのこと、何だかよくわからない一知半解の文章や、くだくだと同じことを何度も繰り返しているパラグラフに出合い、うんざりを通り越して鬱的な状態に陥ってしまったのである。
 そしてそれらが少しよくなると、また修正、校正とややきりのない作業に時間を費やし、ここまでに至ってしまった、というわけである。

 さて、今回、前年6月29日から始めたブログから読み直し、その中にあった町田明広氏の「8.18政変」(2009年7月26日~8月8日)も再読した結果、町田氏の論文を新たに書き改める必要性がないと判断し、この章をキャンセルすることにした。町田氏が一般向けに書いた『島津久光=幕末政治の焦点』の中の「8.18政変」は、それ以前に書いた論文を下敷きにしており、内容もほぼ論文と大差なかったからだ。つまり、また私が氏の論文について書き出しても、同じようなことを書くことになってしまうからである。
 とにかく、私が気にかけていることは、私自身うんざりするほど繰り返しいるので、これ以上恥の上塗りを避ける意味でもご了承願いたい。
 では、今回をもってこの章は中断させてもらいます。

町田明広氏の論文について(2)

2010-01-11 10:49:56 | 歴史
 そしてこの久光の答書の中に、「・・・就而家来奈良原幸五郎江委細申含候趣も御座候間(ついてはけらいならはらこうごろうへいさいもうしふくめそうろうおもむきもござそうろうあいだ)、不悪御聞取被成下候様(あしからずおききとりなしくだされそうろうよう)、・・・」<ついては家臣の奈良原幸五郎へ詳しく言い含めた趣意もありますので、あしからずお聞き下されますように>という案文があったことから、奈良原幸五郎に申し含められた「趣意」の内容が、何だったのかというのが研究者の間で問題になったのである。
 これを時間的な順序で追っていくと、この問題に最初の推論を提起したのが芳即正(かんばしのりまさ)氏で、氏は、奈良原繁に政変への具体的な指示を出したと言明している。これに対して原口清氏が、氏の論文「幕末政局の一考察―文久・元治期について」の中で、「在京の高崎佐太郎・奈良原幸五郎らは、久光の指令を受けることなく、否、指令を待つ時間的余裕もなく、彼らの独自の判断で政変に参加したものである」と芳氏の結論を真っ向から否定したのである。ただ原口氏は、これ以上具体的に述べることはなく、町田明広氏が指摘しているように、結論は同じであるものの、その具体的実証に著しく欠け、結論のみ急いだ感が否めなかった。
この原口氏の反論の次に、佐々木克氏の重厚長大な論文「文久3年8月政変と薩摩藩」が出されるのだが、これは原口氏への反論、つまり久光や大久保の指示があったとする芳氏の結論と同じだった。そして私は、この佐々木論文に対して、私なりの批判を試み、その結果、いまここで展開しようとしている町田氏の論文にも踏み込まざるを得なかったのである。

 ところで、佐々木氏の論文に対する私の批判は、拙ブログ「8・18政変再び」に目を通して戴ければお分かりになると思うが、私はかなり否定的だった。なぜなら、芳氏もそうだったが、やはり「<8・18政変>の事実を知りえた者が逆算して編み出した推論」(町田氏)であるという感を否めなかったからである。要するに、指示があったと最初から思い込み、その先入観で史料を読み解いている印象を否定できなかったのである。

町田明広氏の論文について(1)

2010-01-10 10:45:52 | 歴史
  町田明広氏の論文・「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について」
        -八月十八日政変を中心にーを読んで。
             (1)
 今回、若干ブログに間があったのは、私の復習の時間もあったが、実際はあまり気が進まないためであった。理由はさまざまだが、どうもこんなことをするのは私の柄でない、と再度感じ始めたのが最大の理由だろう。そもそも私が歴史研究者の論文など読み出したのは、私が追及している奈良原繁が関係しているのかいないのか、関係しているのなら、どのように関係しているのかという関心からであって、「政変」という政治的な「動向」などどうでもよかったのだから。そして、それをこの町田氏論文を読んで改めて気づかされた、ということなのである。ただそれは、町田氏の論文が読みにくいとか、読むに耐えないとかいう否定的な意味では全くない。いや、逆である。簡潔で要領よく、初学者でもそれほど抵抗なく入っていける見本のような論文なのである。それゆえ、私のような一知半解の入門者があれこれ言うべきでない、と躊躇してしまったのである。
 しかしながら、やはり佐々木克氏の論だけ終わってしまうのは片手落ちだし、公平ではないと考え直し、やや気が重いが始めることにする。

 さて問題は、文久3年(1863)最大の政治的転換点である8月18日の政変が、当時鹿児島にいた久光やその側近の大久保一蔵らの指示だったのか、それとも京都にいた藩士たちの独断だったのか、という論争のことだった。そしてその論争の発端に、私が追っている奈良原繁が関わっていたことで、私もこの論争に引き込まれていったというわけである。
 ではもう一度そのあたりを振り返ってみることにしよう。

 まず、久光上京の御沙汰書(勅命)とそれを願う近衛父子の建白書を携えた奈良原繁が、文久3年7月12日、税所篤とともに京を出発し、7月20日に鹿児島に着く。翌日登城して久光に復命し、「御沙汰書」と「建白書」を渡す。さらにその3日後、繁は折り返し、薩英戦争直後の混乱のためすぐには上京できないという久光の答書を持って京に向っている。


島津77万石とは(63) 拾遺13

2010-01-05 10:24:00 | 歴史
 ともかく、米俵といっても、幕府領内の年貢米さえ、中身は玄米(注)だったり籾米だったりすることが明らかになった。況や、高温で雨の多い薩摩領内では、昔から籾の状態で俵詰されることが多く、その結果、玄米高ではなく、籾高で帳面付けなどすることが常態になっていったという推測は充分可能なのである。そして、そのまま籾高を藩の石高にしていたということも。そうでなければ、『鹿児島縣史』にあったような付籾高云々などという記述は、何を意味するのかわからなくなってしまうではないか。

(注)・・・現代のわれわれが食している白米の状態ということはないだろう。なぜなら、武士の役職に与えられる「一人扶持」というのが、一日玄米5合とあるのだから。旗本や御家人の給料は、一部は市場で現金化され、一部は自分たちの食料として、米屋などを通して白米にし、それを受け取っていたということだろう。そして、市場の相場で玄米を入手した米屋が、それに付加価値をつけ、つまり白米にして、一般の庶民に売っていたということに違いない。
たとえば、冬の豪雪期に新潟の農民たちが江戸に出、玄米を白米にする米搗き仕事に従事していたというのは、有名な話らしい。現代では死語になりつつある「出稼ぎ」という言葉は、この頃からあったということでもある。


 「島津77万石とは」の章は今回で終わりにする。次の章で、私自身、もう一度復習しなければならないほどずいぶん間を置いた、「8・18政変」を締めくくりたいと思う。


島津77万石とは(62) 拾遺12

2010-01-03 11:47:53 | 歴史
 そう考えると、『富士川町史』の「米は一俵三斗七升余、籾は一俵五斗二升一合」と書いている意味合いがよくわかってくる。
 ただよくわからないのは、(玄)米俵と籾俵の割合もそうだが、5斗2升1合、玄米換算にして2斗6升5夕(せき)という量である。米俵とほぼ同じ重さにした場合の量なのだろうか。それとも同じ大きさにするための量だろうか。
 もっとも、玄米は籾米の半分に換算しているということは、嵩(かさ)としては同量ということになる。つまり、籾米1升は、玄米5合と籾殻5合で1升になるということなのだ。だから、玄米1俵と籾1俵を同じ大きさ(嵩)にするためには、籾米の量は、玄米の半分の1斗8升余りということになる。
ということは、籾1俵の5斗2升1合というのは、玄米俵とほぼ同じ重さにするための量なのだろうか。
 そうだと考えたほうが納得できるのは、重さを統一するということは、舟積み、荷積みでも俵数で重さが分かるということだ。これは、簡単に積める限度がわかるという意味で重要なことだろう。さらに、重さを同じくするということは、俵の大きさは関係ない、あるいは違っているということだろうから、見た目で玄米か籾か判断できるので、保管や収納等でも効率的だったということではないだろうか。
 しかしながら、どうもこの籾1俵5斗2升1合というのも、籾俵の「標準」量ではなさそうだ。たまたま『富士川町史』を見出したあと、ある必要のため『清水市史資料 近世一』に目を通していた。すると、その中に一つの「覚」書きがあって、以下のような記述があった。
     
    覚
一(ひとつ) 籾壱俵(もみいっぴょう)但四計(=斗)入(ただし4といり)
一 大麦壱俵             同      入
右者去暮被為 仰附候(みぎはさるくれおおせつけられそうろう)貯夫食之儀(たくわえふじきのぎ)是迄江尻地方一所ニ貯仕候処(これまでえじりじかたいっしょにたくわえつかまつりそうろう)・・・

 内容は、貯夫食、つまり飢饉などのために備蓄米を江尻(宿)一箇所だけでなく他地区にも置いてもらえるように役所に届け出た「覚」書きである。当然ここでの米は、保存用なのだから籾俵の状態であるのはわかるが、その量が、甲州廻米の量とはかなり違っている。
 この2例だけの数字で明確な結論を引き出すことはできないが、年貢米の籾1俵は5斗2升余りが標準だとしても、最終的には玄米として市場に出すのだろうから、俵から出さざるをえまい。その際、幕府に納める米の中から備蓄用とか保存用とかの用途に応じた籾米の俵替を行っていたのではないだろうか。


島津77万石とは(61) 拾遺11

2010-01-02 11:23:55 | 歴史
 新年あけましておめでとうございます。今年初めてのブログなので、こういう挨拶から始めるが、いったいこの「あけましておめでとうございます」というのは、いつごろから使われだしたのだろうか。少なくとも(2、3例に過ぎないが)、明治以前の古文書の年頭挨拶にこんな簡易な表現を使っているのを見たことがない。 単なる口頭の挨拶を明治以降(?)、誰かが文章の口語化に倣って使い出したということだろうか。年末に賀状を書きながら、気になり出してきて仕方がなかった。ご存知の方はご教示願いたい。

 さて、籾俵の話の続きである。繰り返しになるが、甲州から運ばれてきた年貢米が富士川河口の岩淵というところでいったん陸揚げされる。その岩淵が現在属している富士川町の郷土史を紐解くことを忘れていたというか、しなかったのである。そして、このことを地理感覚の暗さと言ったのである。「富士市」とは別に「富士川町」という行政地区があったのに気づかなかったのだから。
 ところで、この『富士川町史』を読むと、私の推測が一部当たり、一部間違っていた。要するに、籾俵の場合もあったし、(玄)米俵の場合もあったということである。
 その辺りを『富士川町史』では、「・・・岩淵河岸に着船の時、米は一俵三斗七升余、籾は一俵五斗二升一合を標準として受取り、・・・」と記述している。
『富士市史』と同様、具体的史料を挙げて納得させているわけではないが、伝聞的な表現ではなく、実際の史料を確認して書いていることが窺われるから、まず間違いないだろう。甲州廻米(年貢米)の俵の中身は、籾のままであった場合もあるし、玄米の状態のものもあったということである。
その割合には全く触れていないが、どうして籾詰と玄米詰に分けられるのかと考えると、おそらく、江戸に送られた年貢米を、一度に俸禄として渡したわけではなく、年に3度ぐらいに分けて支給していたからだろう。
つまり、春、夏の支給は玄米だとしても、秋の支給も玄米のままだとかなり劣化し、その結果、市場価格が下がり、現金に換算する際、手取りが減ってしまうからではないだろうか。
 また別なふうに言えば、一部を籾の状態で保存し、それを市場に出すときに籾擦りして出せば、米は劣化していないので価格の維持が保たれるというわけである。たとえ籾擦りの手間賃を取られたとしても。