海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-07 10:34:24 | 歴史

                   (9)閑話休題。

 またここで、船の話をしたい。400トンほどの英米の捕鯨船が日本近海や太平洋を縦横無尽に航海している様を想像すると、当時の日本の船はどういう「航海術」で日本近海を航海していたのだろうか、とつい考えてしまったのである。

 たとえばコロンブスは、1492年、地球は丸いということを信じ、西インド諸島に到達し、そこから帰って来た。この翌年には、教皇子午線なるものを引いて、スペインとポルトガルの取り分の境界を決めた。そしてまたその翌年には、すでにブラジルに到達していたポルトガルの思惑もあって、その子午線を少し西にずらし、ブラジルの一部を確保した。これがトリデシリャス条約と呼ばれるものだが、彼らは経度線の、況や緯度線の知識もあり、大洋上における位置を測る術(すべ)を知っていたのである。この航海術は、私が船に乗っていた50年前まで続いていた。太陽や恒星などの天体の高度を測り位置を知る、いわゆる天文航法という航海術である(補足1)。

 それでは、江戸期の200トンにも満たない千石船などはどうだったのだろうか。

 中国の宋代(960~1279)に羅針盤が発明され、1200年代末には世界中の航海者に利用されていたというが、江戸期の千石船にも取り付けていたのかはよくわからない。もちろん、鎖国前の東南アジア方面を航海していた船は、取り付けていただろう。しかしながら、江戸幕府の海外渡航禁止以来、造船に関しては厳しい制限が設けられていたから、やはり取り付けていなかった可能性が高い。ただ、瀬戸内海や日本沿岸しか航走しないとすれば、羅針盤などなくとも何とかなったかもしれない。もっとも、一度嵐に遭い、マストも舵も失えば、風や潮流に流されるしかなかった。そして、太平洋岸は、黒潮と偏西風に影響され、運が良ければ、<ロシアの東進>で話したように、カムチャッカや千島列島などに流れ着くか、もっと東に流されれば、海の藻屑と消えてしまうしかなかった。日本海ルートの北前船の繁栄の話もしたが、偏西風は当然日本海にも影響する。しかし、日本海における西風は日本海内の沿岸に船を寄せるだけだから、太平洋の藻屑に消えることはなかったということである。

 さて、地文航法と呼ばれる沿岸を走る航海術のことである。日本の沿岸は起伏に富んでいるので、この岬を廻ればどこの湊だ、あの山は何々山だから、もっと岸よりに舵を取れ、とか風向きと天気さえければさほど問題はないだろう。また、長年の観望天気で嵐が来そうだとなれば、近場(ちかば)の入り江に逃げ込めばよい。ところが、突然、霧に襲われたらどうしようもなくなる。へたに沿岸に寄せれば、暗礁や浅瀬に乗り上げることにもなる。たとえば、夏場の三陸沖は、濃霧が発生しやすく、レーダーがあっても、小型漁船や漁網の浮きなどは写らないこともあったので、航海士などは冷や冷やものだったろう。こういうことは、どの国の船舶、艦船も同じだった。だから、見えないという点では、濃霧と同じく未知の海岸に近づく際には、念入りに測量をする必要があった。それゆえ、海図の作成が急務だったのである。英国の海軍などは、日本と通商を求める前から、北海道から沖縄まで、岸付近や湾の水深等を測り、安全を図っている。近代の船になればなるほど、建造費も高くなるのだから、事故は最小限に食い止めなければならなかったのである。

 ところで、日本の水(か)主(こ)(水夫=水手)たちが、曇天や霧中で現在位置がわからなくなったら、どうしていたのだろうか(補足2)。経験知の高い水主は、海水を汲み上げ、それを手で水温を確かめたり、舌で舐めて塩分濃度を味わったり、どの辺りにいるか、或いは河口に近いかなどを判断したそうである。かつて、それを聞いた時、まさかと思ったと同時に何と原始的な、と思ったものである。しかしながら、現在の感想はそれとははっきり違っている。例えば、限られた設備や状況下で、人間の五感をフルに使い、独特な「航海術」を極限まで突き詰めていった結果だから、である。つまり、人間の能力としての理論や技術の進歩とは別次元の領域に、到達していたということが言えるからである。

 ある例を挙げよう。マゼランがアメリカ大陸の西側にある大洋(太平洋)を目指して南下し、その先端に辿り着くまでに、1年3か月ほど要した。もちろん、約5か月間の越冬停泊もあるが、ラプラタ川のような大河を太平洋へ抜ける水路と思い込み、かなり遡上している。そして、川だと気づくまでにいくつかの川で2,3か月かかっている計算になる。こんな時間を浪費しなかったなら、越冬期間中の反乱も起きなかっただろうし、その後の壊血病による死者も大幅に減っていたかもしれない。要するに、当時の日本の「航海術」を応用あるいは利用していたら、かなり時間を短縮できていたのではないかという想像が可能である。

 しかしながら、私がここで言いたいのは、こういうことではない。彼ら西洋人は確かに論理を突き詰めてはいく。そして、繰り返すが、私の解釈では、西洋社会(大陸性諸国家も)の基層が父権的(patriarchy)だからだと思える。それに対して、日本は感覚的、感性的に物事を捉えていく社会なのである。

 三島由紀夫は、カナダのTV局のインタビューで、ヒットラー・ナチスの例を挙げ、西洋人の「残酷さ」を機械的、あるいは組織的(mechanized or systematized)なそれと言い、日本人の「残酷さ」は女性的な側面(feminine aspect)からきていると答えていた。言い換えれば、日本の社会の基層が未だに母権的、母系的社会(matriarch society)だから、そういう感覚的な反応を得意とするのだ、と。もちろん、どちらがいいとか悪いとかの問題ではない。こういう古代から続く、母権・母系的な社会が温存されたのは、日本が長い歴史時間を通して、外国から支配されたこともなく、海という自然の壁に守られてきたからである、としか言いようがない。

(補足1)インド航路の船員だった頃、ある三等航海士は、船内放送で正午の位置情報を流してくれていた。彼は、六分儀を使って位置を出していたのである。もっとも、既にデッカとかロラン航法と呼ばれる地上系電波航法システムも利用していたかもしれない。現在は、船に限らず、人工衛星を利用したGPSシステム利用しているので、六分儀を使った天測などほぼ必要ないらしい。

(補足2)レーダーが発明され、実際に利用され出したのは第二次大戦頃からのようだが、それまではどう対応していたのかよくわからない。どうも気球が利用されていたのかもしれない。海面が濃霧でも、上空は晴れていることが多いからだ。例をあげよう。「生麦事件」に関わった、奈良原繁の息子の奈良原三次は、日本で最初に飛行機を飛ばした民間人だった。彼は、岡山の第六高等学校生の時、瀬戸内海で濃霧を経験した。これを契機に霧の研究を始めたいと思い、呉鎮守府予備艦隊司令官だった叔父に相談すると、気球の存在を知ったという。そこで気球の専門家を紹介してもらった。時あたかも日露戦争(1904~1905)中だった。ただ、三次は気球の研究から、途中で飛行機の研究に変えている。1903年、ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしていたが、当時、欧州から飛行機なるものが発明されたという情報が先にはいったようである。


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