海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-06 09:56:59 | 歴史

                 (8)英米の捕鯨船

 鯨から主に油を取るという、ヨーロッパの捕鯨業は、スペインのバスク人がビスケー湾で始めたのが最初のようである。それが、英国やオランダや他の国々に広まり、北海からアイスランド海域、大西洋へと拡大し、18世紀末には英国の捕鯨船は太平洋に進出して行った。その頃には、アメリカの捕鯨船も日本近海に現れ始めている。

 最初は、寛政3(1791)年、1隻の捕鯨船が紀州(和歌山)の串本港に立ち寄ったのである。詳細はわからないが、水と食料を補給しに来たのだろう。そして、串本港側もそれを提供したのかどうかも私は知らない。ただこの当時、マッコウクジラを原料とした灯油や機械油などの需要が増大したため、英米の捕鯨船は、喜望峰を廻って、インド洋、太平洋に出、すでにオホーツク海あたりまで進出していたのである。

 こうした結果か、アメリカ船が長崎に来航し、通商を求めている。享和3(1803)年7月のことで、これはラクスマンに次ぐ早さである。また、同月、日本との通商目的でカルカッタより来航した英国船・フレデリック号が、那覇に寄港した。もっとも、前者は幕府によって簡単に拒否され、後者は、琉球王府がウヤムヤの回答をしたのだろう。どちらも「通商」に本気になっていたというより、少なくとも捕鯨船などに水や食料を補給したいという程度だったのではないだろうか。

 ここで、アメリカの捕鯨業に関して、ネットで拾った論文をいくつか紹介してみたい。というのも、時系列の事象を細々と羅列していくより、英国、ロシアなど早くから日本に接近していたにも拘わらず、結局、なぜアメリカが最初に強引な通商を求めて来たのか、その理由の一端が窺い知れるかもしれないからだ。

 最初の論文は、文政3(1820)年のことである。「・・・米の捕鯨船が初めて現れてから太平洋の操業域は飛躍的に広がって、この年(1820)には、日本列島・伊豆諸島・小笠原諸島を取り巻く海域に達し、以後ここは、捕鯨関係者の間ではジャパン・グラウンドと呼ばれる好漁場として評判になっていた(「19世紀後半期のアメリカ式捕鯨の衰退と産業革命」山崎晃)。」という。次は、だいぶペリーの来航に近づいた弘化3(1846)年の頃である。「この年の米の捕鯨船数は、735隻(約23万トン)と最多となる。ニューベッドフォード(本拠地港)254隻、ナンタケ(Nantucket)75隻で、雇用数は約7万人。ハワイに寄港した米船は596隻といわれる。さらにこの頃、世界の捕鯨船数は900隻ほどで、その80%はアメリカが占めた(「アメリカ式捕鯨史と捕鯨規模推移」)」ようである。そして当時、鯨油は産業革命の進展に伴う機械の潤滑油や、街灯やランプの燃料として、また骨は女性用コルセット、髭はブラシ等々、石炭と並ぶアメリカ経済の柱だった。そのため、必死に鯨を追い求めていたのである。その象徴が、広大な海を背景にした、ハーマン・メルヴィル(1819~1891)の「白鯨」そのものだろう。こういう中で、捕鯨業者が日本への寄港地を設けたいと米政府に要請するのも無理からぬことだった。

 次は、英国の捕鯨船のことである。米国の捕鯨船に比べると数は少ないが、薩摩藩とは衝撃的な出遭いをしている。これは、文久2(1862)年の生麦事件以前の最初の英国民間人死亡事件だった。

 文化5(1808)年のフェートン号が長崎に突然現れてから、10年後の文政元(1818)年5月、英国船が最初の通商を求めて浦賀に来航している。船長はゴードンという名前のようだが、私は年表を追っているだけなので詳しいことはわからない。前年に、英国船が浦賀に来て、測量をしていたようだから、それなりの下準備をしてきたのだろう。しかし、まだどの程度の「通商」に対する熱意があったのかもよくわからない。清国との通商に集中したかっただろうし、日本は単に捕鯨船などの寄港地を求めていただけかもしれない。というのは、この6年後の文政7(1824)年5月、英国の捕鯨船が薪水を求めて、常陸(茨城県)大津浜に上陸しているのである。またこの年の7月、薩摩藩と英国との最初の軋轢が起こった。これまた英国の捕鯨船の船員が、薩摩藩領の宝島(七(しち)島(とう)群の一つ)に上陸したことで、事件が起きたのである。『鹿児島県史』を紐解くと、7月8日午前10時頃、宝島沖に停泊した三本マストの母船から端艇(ボート)を下ろし、島に上陸して食料(牛)を求めたが、待ち構えていた在番の役人に拒絶される。船員たちはそのまま船に戻ったが、翌日の午前、再び上陸し、衣類・酒・麺・金銀貨・時計などと牛2頭を交換したいと申し出た。しかし、在番吏はそれを再び拒否し、その代わり野菜や藷類を与えて引き取らせた。すると、その日の午後になって、三艘の端艇に分乗した20数名の乗組員がやって来て、海岸近くに放牧していた牛一頭を射殺し、2頭を捕獲してボートに運んだ。その際、これを知った横目(在番役人で目付に当たる)が、番所前に迫って来た乗組員の一人を撃ち殺してしまったのである。これが、英国人の最初の死者だった。

 この年、常陸大津浜で水や食料を与え、船員たちと交易した漁民300人が捕らえられたことや宝島のこの事件を重く見た幕府は、翌年、異国船打ち払い令を出すことになる。

 さらに、この2年後の文政10(1827)年、小笠原諸島の父島が英国艦によって発見され、驚くことに、英国は領有宣言をしていたのである。この艦船はブロッサム号(艦長・F.W.ビーチー)という測量船のようで、ベーリング海峡の測量から、カリフォルニア、サンドイッチ諸島(ハワイ)、そして那覇まで至り、そこで無人島の噂を聞きつけ、父島に辿り着いたという。そしてその3年後の1830年には、ハワイの米国領事が25人の欧米人を入植させ、捕鯨船に対する薪・水・食料の供給基地として使われ出していたのである。これらのことは、ペリーが和親条約を結び、帰国した後に書いた『日本遠征記』の中に記載していたことで、幕府はハリスとの交渉まで預かり知らなかった。オランダもこれらのことを知らなかったのか、幕府はそれまで全く蚊帳の外に置かれていたという訳である。ただこれらのことでわかるのは、米国や英国の捕鯨船がたびたび日本に水や食料を要求しても、突っぱねられるだけだったが、彼らは彼らなりにハワイのオアフ島やグアム島、そして小笠原諸島の父島などを確保していたのである。

 


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